夏風邪
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「あー…だりぃ…」
ジャンは数年ぶりに夏風邪を拗らせてしまい、朝から体調が悪かったのだが、午前の座学を乗り越え午後の筋力トレーニングの最中に高熱で倒れてしまい、この通り医務室のベッドの中で、板張りの天井を見上げながら一人うっそりと呟いた。
兵団医のシャミアさんは先程までデスク仕事をしていたが、夕方から会議があるということで今は医務室を留守にしている。
外からは訓練場でキース教官が怒声を上げているのがガラス戸越しに時々聞こえてはくるが、いつもの喧騒と離れ静かな医務室に居ると、何だかこうして一人になる時間がとても久し振りのような気がした。
朝と夜は寮で過ごし、訓練は当然のことながら、食事の際も食堂で大勢の同期たちと過ごす日々で、殆ど一人になれる時間は無く、入団したての頃こそそれがストレスだったものの、一年経てばその騒がしさにすっかり慣れてしまっていたようで、今は少々静かすぎて居心地が悪い。こんな話を訓練兵団に入る前の自分に聞かせでもしたら、きっとホラ話だと相手にもされないだろう。
マルコ達に医務室に運び込まれてから、額にはシャミアさんが用意してくれた濡れタオルがあり、解熱剤も飲んだが、体から中々熱が抜けてくれず、頭の中は霧がかかったようにぼんやりとしている。
脱水症状にならないよう、水分はちゃんと取るようにと医務室から出ていく際にシャミアさんには念を押されたため、水差しから小まめに水を取ってはいるが、それだけ汗が止まらず、一度着替えたシャツの背中が張り付いている感触が気持ち悪い。
思い切り水浴びでもしたいなと、そんなことを思っていると、コンコンコンと控えめに三度医務室の扉がノックされる。それから、「失礼しまーす」と聞き慣れた声と共に、ちょこんとある人物の顔が現れた。
「…ハル?」
ベットに寝そべったまま目を凝らせば、見えたのは心配顔でこちらをじっと見つめるハルだった。
ハルは今日、自分とは別班で訓練を受けていたので、午後は座学だった。時間的にも、授業終わりで夕食を済ませた後に、様子を見に来てくれたのだろう。ハルは医務室をぐるりと見回してシャミアさんが居ないことに気づくと、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。そんなハルの手には、夕食を乗せたトレイがあり、どうやらジャンの分の夕食を持って来てくれたようだった。
「ジャン…大丈夫?マルコから、ジャンが熱で倒れたって聞いて…」
「ーーあぁ…こんな熱出したの、久しぶりだぜ…。シャミアさんが言うには、ただの夏風邪だってよ…」
ベットの傍に歩み寄ってくるハルに、ジャンは枕から頭を上げ、ゆっくりと上半身を起こした。すると額からタオルが滑りパサリと掛け布団の上に落ちた。夕食のトレイをベットサイドに置いたハルは、近くのスツールに座り、落ちたタオルに触れて、うわっと小さく声を上げる。
「すごいっ…熱い。これじゃあもう意味ないね…?濡らしてこないと…」
タオルはすっかりジャンの熱を吸収して、熱冷ましの意味を為さなくなっていたらしい。ハルは右手でジャンの額にそっと触れると、もう片方の手を自身の額に押し当てて、「うーん」と渋を飲んだような顔になる。
「これはまだ…だいぶ熱がありそうだね?」
そう言うハルの手は相変わらず小さいが、先程まで額に乗せていたタオルよりもずっと冷たくて、火照った額にはとても心地が良かった。
「お前の手…冷たくて気持ちがいいな…」
思わず息を吐くようにしてそう口にすると、ハルは眉の間を開くようにして優しげに微笑み、額に乗せられていた手でするりと頬を撫で、首元に下ろした。肌の上を氷が滑るようで思わず身動ぎしてしまうが、熱が篭る首元に触れるハルの手の冷たさに、張り詰めていた糸が緩むような安堵感を覚えて、ほっと口から息が洩れる。
「ジャンが熱すぎるからだよ。すぐにタオル、濡らしてくるね?…あと、これ、なんだけれど…」
ハルはジャンの首元から手を離すと、掛け布団の上に落ちていたタオルを自身の膝の上に乗せ、ベットサイドに置いていた夕食のトレイを、ベットに付属しているテーブルの上に移動させる。
「!…これ、いつもの夕食と違ぇな…?」
ジャンはトレイの上に乗った、今までの夕食では見たことのない献立に、首を傾げた。
いつもなら、食堂で出される夕飯はパンやシチューといったものが主で、正直熱がある時に食べようという気になれるものではない。しかし、今トレイに乗っているのは、透き通った出し汁の中に柔らかそうな白身の魚が入っているスープ?のようなものと、きのこや山菜を卵で綴じた胃に優しそうな料理だった。
どちらもジャンが今まで見たことのない料理だったが、湯気をゆらゆらと上げながら美味しそうな香りを漂わせるそれに、落ち込んでいた食欲が掻き立てられる。
物珍しい料理をじっと見つめるジャンに、ハルは少し照れた様子で首の後ろを触りながら言った。
「実は…モニカさんに厨房と余ってる食材を借りて作ってみたんだ。今日の夕飯はいつものシチューだったから、熱があるジャンには食べられないかなって思って…。どっちも私が風邪を引いた時に、昔お母さんが作ってくれた東洋風の料理だから…ジャンの口に合うかどうかは分からないけど…」
その言葉に、ジャンは思わず「マジか!」と声を上げそうになるほど歓喜していたのだが、その気持ちをぐっと押し殺し、一度咳払いをして平常心を装う。
「っお前が…わざわざ訓練終わりで作ってくれたのか?俺の…ために…?」
そう問いかけると、ハルは頬を指先で掻きながら、少し慌てた様子で話す。
「ご、午後の座学は少し早めに終わったから時間もあったし…久し振りの料理は、気晴らしにもなるかなって思っただけだから…」
言いながら耳の先をほんのりと赤く染めていて、照れを隠せていないのが見え見えだったが、理由がなんであれハルの手料理を食べられるのなら、熱を出しても倒れた甲斐があった。
…と、ジャンは内心で思ったが、口には出さずトレイに置かれているスプーンを手に取って、白身魚のスープを口に運んだ。
「!…うまっ…なんだこれ!?こんな料理、食ったことねぇよ…!」
魚の出汁がしっかりと出ていて、シンプルな味付けではあるが、風邪を引いている時には丁度良く優しい口当たりに、どんどんとスプーンが進む。
ジャンの反応はわざと誇張したわけでも、お世辞を言ったわけでもなく、本心からの言葉だったのだが、ハルは謙遜して肩を竦める。
「それは言い過ぎ」
「っんなことねぇって…!マジでうめぇよ…、これが東洋の料理なんだな…」
スープだけではなく卵綴じの野菜も、ちょうどいい胡椒の効き具合と卵のまろやかさで、抵抗なく胃にスルスルと入っていく。
こんな料理、毎日食べられる奴は世界一幸せ者だな。と、ジャンは思いながら夢中になって食べていると、ハルはジャンの気持ちが良い食べっぷりに作った甲斐があったと嬉しくなって笑みを溢した。開拓地でも料理をする機会はあったが、訓練兵になって真面に料理をしたのは今日が始めてだった。味見はしたもののブランクがあったため、ジャンの口に合うものか心配だったが、それも杞憂だったようだ。
「食べてもらえて良かった…」
「あ?当たり前だろ。お前が作ってくれたんならなんだって食うに決まって…るーーー」
安心してそう呟いたハルに、ジャンはそこまで口にし、はっとして視線を料理からハルの方へ向けた。ハルは相変わらずの綺麗な黒の双眼を丸くしてじっとこちらを見つめていて、ジャンは頬に元々ある熱とはまた違う熱が浮かび上がるのを感じながら、慌てて言葉を取り繕う。
「とっ、とにかくっ…!あ、…ありがとな…?訓練終わりで、お前も疲れてんのによ…」
「…これくらい、なんてことないよ。私だってジャンには沢山、入院していた時はお世話になっていたし…恩返しをするにも、まだまだ足りないでしょう?…タオル、濡らしてくるね…!」
ハルはそう言ってスツールから立ち上がると、すっかり乾いたタオルを手にして、医務室からパタパタと小走りで出て行く。
その背中を見送って、ジャンははぁと深い溜息を吐き出した。そして透明なスープに映る自分の赤らんだ顔を見て、なんだか無性に情けない気持ちになる。
今まで何度もハルに気持ちを伝えようとしたことはあったが、最近は彼女を想う気持ちが滅法大きくなり過ぎて、拒絶されるのが怖くなってしまっていた。
今もこうして自分に優しさを向けてくれる度に、微笑みを向けられる度に、好きだと想う気持ちが留まることを知らず肥大していくのを、既に自分の意思ではどうすることも出来なくなっていた。
骨抜きにされるとはこういう事象を言うのかもしれないが、最早抜かれる骨も残っていないと、ジャンはハルに対して日に日に臆病になる自分を呪いながらも、美味い料理を口に運ぶ手は止まらない。
そうして料理を平らげた頃には、抗いようのない眠気に見舞われて、ジャンは重くなった目蓋を、静かに閉じたのだった。
→
1/2ページ