第二十七話
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––––何処からか通く、小鳥の囀りが聞こえてきて、ハルはゆっくりと目蓋を開いた。
視界には見慣れない木張りの天井と、踊り子がふわりとスカートの裾を靡かせて舞い踊るように揺れる、レースのカーテンが見えた。そのカーテンは淡く白い朝日が反射していて、まるでベールのように透き通り、天井の木目を透かして見せている。
ハルは頭の芯が未だ微睡んでいるようだったが、何だかとても長い時間、眠っていたような気がして、枕から重たい頭を持ち上げて、上半身を起こした。
そうすると、背中の窓から穏やかな雨の音と香りがして、ふと視線を外へと向ける。
アーチ型の窓が開かれ、カーテンが靡く中に包まれながら外を見下ろすと、三階の兵舎からは昨晩は暗がりではっきりと見ることが出来なかった大きな訓練場や厩、調査兵団本部の広場等が眼下に広がっていた。
僻地に駐在していた南駐屯地の訓練兵団施設とは違い、調査兵団本部一体は小さな城下町のようだった。
建物は石とレンガで組み積みされた重厚感のあるもので統一され、四階建てで胴長の本部には塔とタレットもあり、小さな城のようにも見える。広場の中心には恐らく出撃や任務帰還の際等に鳴らす鐘が設置されており、天気雨に濡れ朝日を受けたそれは、金色に瑞々しく光り輝いていた。
「…朝…だ…––––、あ」
訓練兵団兵舎で迎えていた朝とは全く真新しい景色を眺めながら、ハルは息を吐くように小さく呟くと、不意にその窓の縁へと二羽の雀が飛び乗って来た。
丸々とした栗ような体をした二羽の雀は、予期せぬ雨に降られ濡れてしまった体の水気を、小さな翼をはためかせ、身をぶるりと振るって払い落とす。
その際にハルの顔に雨水が飛んできたが、寝起きには心地の良い冷たさで、特段気に留めることもない。
雀達は水気を一頻り払った後、冷えた体を温める為か身を寄せ合った。
そしてふとハルの存在に気が付き目が合うと、二羽は驚いて飛び去ることもなく、ただ不思議そうにハルの瞳を見つめて、首を右へ左へと忙しなく傾げる。
その様子が愛らしくて、ハルは自然と口元が綻び、微笑みを浮かべた。
「…おはよ、…君達は雨宿りに来たのかな?…早起きだね」
そう話しかけると、二羽の雀は顔を見合わせ、また首を傾げ合いながらチュンチュンと鳴く。
それにくつりとハルは喉を鳴らして笑い、少し水気を含んだ朝の微風が頬を撫でるのが気持ち良くて、緩く瞳を閉じた。
「…いい風だ」
思わずそう呟いて、静かに呼吸をしながら耳を澄ませると、雨が石畳の地面に落ちて弾む音や、カーテンが靡き擦れる音、そして雀の鈴音のような囀りが、鼓膜を心地良く震わせる。
しかし、其れ等の音だけではなく、もっと小さな音でさえも聞き取ることが出来た。
ハルはやはり自身の聴力が格段に上がっていることを確信する。
例えば、兵舎の傍にある小さな花壇の上に腰を下ろしていた蛙が、飛び跳ねて濡れた土の上に降りる音、下の階で未だ眠っている、兵士たちの寝息––––
そして、床が軋む音と、兵服の上着に袖が通される音、ドアノブを握り、扉を軽く三度叩く音––––
「…ハル、起きてるか?入るぞ…?」
見慣れない景色の中で、耳馴染んだ声がして、ハルはやけにその声に安心感を覚えて、瞳を閉じたまま浅く息を吐いた。
そうすると、扉の鍵が外れる音がして、ゆっくりと開かれる。
現れたのは兵服を纏ったジャンで、いつもは綺麗にセットされている髪が、寝起きの所為か珍しく彼方此方毛先が跳ねていた。
ジャンは扉を開いてハルの部屋へと一歩踏み入れると、ベットの上で上半身を起こし、窓の外に顔を向けゆるく目蓋を閉じているハルの横顔を見て、ドアノブを握ったまま立ち止まり、切長の瞳を細めた。
「…、」
柔らかな朝日を受け、部屋に入り込んでくる微風に揺れるレースのカーテンの中から、時折垣間見えるハルの横顔は、目を眇めてしまう程に清白で、佳麗だった。
その様に思わず胸の奥が震えて、溜息が溢れてしまう。
ハルはゆっくりと目蓋を開いて黒く透き通った瞳をジャンへ向けると、まるで花開くように和やかに微笑んだ。
「––––おはよ、ジャン」
柔らかな黒く細い髪が、朝日を受けて絹糸のように輝き風に揺れ、木漏れ日のような穏やかな熱と光を孕んだ瞳と、白い肌が、筆舌し難いほどに眩しかった。
「…ああ、おはよ」
ジャンは体から余計な力が抜け落ちていくような言い方になって答える。それは紛れもなく自分の声なのに、我ながらにして驚く程凹凸が無く、丸く穏やかなものだった。
「…昨日の夜、窓開けてったんだが…寒くなかったか?」
ジャンは後ろ手に扉をパタリと閉めると、ハルの元へと歩み寄る。
「ううん、全然。寧ろすごく気持ちが良かったよ。この部屋、良い風も朝日も入るんだね……」
ハルは微笑みを浮かべたまま、ジャンを見上げて首を横に振って見せると、「それに」とすぐ傍にある窓の淵に留まっている二羽の雀を見た。
「おかげで可愛いお客さんも、来てくれたし」
ハルが人差し指で、雀の胸元を擽る。雀は警戒心が強いため、人が近づけばすぐに逃げてしまうものだが、窓に留まっている雀はハルに触れられることを嫌がるどころか、擽られて喜んでいるようにも見えた。
「随分人懐っこい奴らだな…」
ジャンはベットの縁に腰を落とすと、アーモンドのような目を細めて擽られている雀をマジマジと見つめた。そんなジャンの視線を気にすることも無く、雀はハルの擽りに夢中になっているようだった。
「うん。雨宿りに来たみたい。…凄くふかふかなんだ」
「可愛いね」と笑いながら雀を愛でているハルに、危うくジャンは「そんなお前が可愛い」と口を滑らせてしまいそうになるが、ギリギリの所で踏み止まり、ぐっと己の胸の中だけに抑え込んだ。
「ゴホンッ…!…で、体調はどうなんだ?…昨日よりは顔色も良さそうだが…」
ジャンは軽く咳払いをして、ハルの顔を少し覗き込むようにして問いかけると、ハルは「大丈夫」と笑って、自分の体を見回す。
「なんだか、嘘みたいに調子が良いんだ。…体の細胞が、全部新しくなったみたいな…そんな感じがするくらい」
そう言うハルの顔色は、昨日の青白さに比べれば大分良くなっているし、一晩寝て気持ちも少し落ち着いたのか、精神的な不安定さもあまり感じられなかった。ジャンもそれには「良かった」と安堵の息を吐くと、ハルはふとジャンの顔を見て、少し言い淀みながら口を開いた。
「あ…あの、ジャン」
「何だよ?」
ジャンが首を傾げると、ハルは突然深々とジャンに向かって頭を下げた。
「昨日は…本当に迷惑かけて、ごめんっ…!」
唐突な謝罪に思わず目を丸くするジャンに、ハルは頭を下げたまま続ける。
「君にはいつも、みっともない姿ばかり見せてしまうね…。子供みたいに喚いて、挙げ句の果てには騒ぎ疲れて寝てしまうなんて…」
ハルは昨晩の出来事を思い出し、情けないのやら申し訳ないのやらと色んな気持ちに駆られながら頭を下げていると、そんなハルの旋毛を見つめ、ジャンは首の後ろを触りながらあっさりとした口調で言った。
「別に謝るこたぁねーよ」
「でもっ…ただでさえジャンには、これからも面倒を掛けることになるのに…」
しかし生真面目なハルはジャンの言葉に甘えようとはせず、太ももの上の両手を掛け布団ごとぎゅっと握る。
それを見たジャンはやれやれと肩を竦めて、ハルの頭にポンと手を乗せて言った。
「良いっつってんだから、顔、上げろよ」
ジャンに促され、ハルはおずおずと顔を上げると、真剣な眼差しを称えたジャンと目が合った。ジャンは目を細めると、ハルの頭に乗せていた手を滑りおろして頬に触れ、優しく静かに、諭すような口調で言った。
「俺は別に、お前のみっともねぇ姿だって、出来ることならもっと見てぇって思ってる。…他の奴らには見せねぇ、俺だけが知ってるお前が増えるってのは悪い気がしねぇ…っつーか…。もっと…、もっと知りてぇって、思っちまうんだよ…。馬鹿みてぇに…な–––?」
「ジャン…」
「だから、一々謝んな。お前は何でも気にし過ぎなんだよ」
ジャンはそう言って笑うと、ハルの頬に触れていた手で鼻先を弾く。それにハルはビクッと肩を竦めて、それからふっと心の霧が晴れたように微笑んだ。
「うんっ…ありがとう」
その時、急に強い風が吹いた。
雨水を含んだ風がカーテンを大きく靡かせ、突然の風に驚いた雀が外へと飛び去っていく。
「うわっ!?」
「急に吹いてきたなっ、窓閉めるぞ」
ジャンはハルのベットに乗り上がって慌てて扉を閉めると、舞い上がっていたカーテンが風を失って、ふわりとハルとジャンを包むように舞い降りてくる。
レースのカーテンの内側に抱き込まれた中で、ハルとジャンはお互いの顔を、徐に見合わせる。
そうすると、白いレースに包まれたとても小さな世界で、たった二人だけになってしまったような、そんな不思議な気持ちに、なってしまう。
ジャンは雨水に少し濡れたハルの前髪と、長いまつ毛の下にある、黒い双眼を見つめた。瑞々しいその瞳は、じっとジャンを見上げて、朝日を反射させる水面のように輝いている。
そしてハルも、自分を見下ろす琥珀色の瞳が、何か込み上げてくる感情を堪えるように、僅かに揺れているのを、瞬きすることを忘れて食い入るように、暫くの間見つめ続けていた。
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