第二十六話
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頭の後ろに手を回し、細い腰に腕を回して、自身の方へと引き寄せると、ハルはジャンの胸元で首を左右に振り、兵服の上着をギュッと握りしめて言った。
「ジャンは見たんでしょう?私の…姿を…っ」
「ああ、見たよ…」
「っ翼が生えた…人じゃ、無くなった…私のことをっ…」
人じゃない。
その言葉に、ジャンは胸の中の感情のたがが外れたようにハルの体を抱きしめる腕に力を込めると、抑揚を失い突っ走るような酷く上擦った声で、それを否定する。
「それは違うだろっ」
「っ」
びくりと腕の中でハルが体を強張らせたのが分かったが、ジャンは昂った感情を上手く抑え切れずに、波だったままの声で続ける。
「お前はっ、人間だろっ…!?」
結局出て来たのは先程と変わらない言葉だったが、例え姿形が変わった所で、ハルはハルであるといことをたらしめるもの、何一つとして失ってはいないのだということは、確信を持って言い切ることが出来た。
「翼が生えたって心臓の動きが変わったって、お前がお前であることに何ら変わりはねぇだろ!?嘘吐くのが下手で、馬鹿が付くほどお人好しでっ、自分の事はいつだって後回しで…、人の為に走り回って擦り傷だらけになってる。…っ今だって、そうだ。俺たちに心配かけねぇように、必死になって傷口隠そうとしてんだろ…っ、もうお前は、両手だけじゃ隠し切れねぇ程、傷ついちまってるっていうのによ…!」
ジャンは仮面をつけたハルの左頬に、そっと手で包み込むように触れる。そうすると、ハルの強張っていた目元が頼りなく震えた。
「…っ」
その目元を、ジャンは親指の腹で優しく撫でながら、目を細めた。涙は無くても、涙を拭ってくれているような優しさが、その瞳には溢れていて、ハルは琥珀色の双眼に縫い付けられてしまったかのように、目を逸らせなくなった。
「–––それに、約束しただろ…?」
ジャンはハルの目元に触れていない方の手の小指を、ハルの右手の小指に絡める。
「何があっても、お前は俺が知ってるハル・グランバルドっていうただの人間なんだって、…信じるって…約束。…それともお前は俺の事、信じられなくなっちまったのか?」
ハルはその言葉に、「まさか」と大きく頭を振って、ジャンに身を乗り出すようにして言った。
「…っそんなこと、ないよ…っ!」
そしてもう一度、「そんなこと、あるわけないよ」と、頼りなく揺らしていた瞳の震えを押し留めて、懸命に意思を伝えようと真っ直ぐに自分を見上げてくるハルに、ジャンは口元を綻ばせた。こういう手放しに優しいところも何も、変わってはいないのだと。
ジャンはじっと自分を見上げてくるハルの右耳を、親指と人指し指の間で挟むように触れ、残りの三本の指を柔らかな黒髪に埋めて、僅かに顔を寄せて囁くように言った。
「なら、そんな不安な顔…してんじゃねーよ…?お前は何も変わってない。俺にとってのお前も…––––、この世界で一番大切な存在のまま…なんだから、…な?」
「っ…」
ハルはその穏やかな声に、無意識にも肩から力が抜け落ちていくよう気がした。
「…痛ぇほど、思い知らされちまったんだ。お前が死んじまったって思った時…俺がこの世界で生きる意味も、希望も…全部無くなっちまったような気がした。何もかもがどーでも良くなっちまって…、生きてるのに死んじまったみてぇ…だった。俺の心臓も止まってるんじゃねぇかって、そう思っちまうくれぇに–––…」
間近にあるジャンの双眸に、悲痛な影が浮かんで揺れるのを見て、ハルは胸に、切ない渣滓が溜まっていくのを感じた。空っぽな心の中に量を増していくそれは、ハルが未だ知らない感情を、生み出していく––––
「ジャン…」
ハルはそれに困惑しながらも、淡い期待にも似た感情を抱きながら、自分を見つめる瞳に魅入られたように陶然として、ジャンの名前を呟いた。
そうすると、その瞳は眩い光を覗き込んだように、眇められる。
「…ハル。お前は俺の、『心臓』…なんだ」
「!」
その言葉に、穴が空いて冷たい風が吹き荒んでいた左胸が、一瞬大きく鼓動したように、熱く震えたような気がして、ハルは目を見開き、息を呑んだ。
「…私が…君の、心臓…?」
震えた声でそう問い返すと、ジャンはハルの左手を取り、その手を自身の左胸に誘う。
ジャンがいつも兵服の下に着ている、深緑のシャツ越しに、彼の心臓が力強く鼓動している感触が、掌から伝わってくる。その熱は冷えた手を伝わって、じんわりとハルの左胸を、包み込むように温めた。
ジャンはハルを、慈しむような眼差しで見つめながら言った。
「お前が自分の心臓を感じられねぇなら…ここで、感じて確かめろ。…お前が生きてるから、俺の心臓も…此処にあるんだってことを–––」
そして、ハルを自身の左胸に抱き寄せると、柔らかな黒髪に口元を埋める。
「俺の心臓は、お前に捧げる。俺は…お前のものだよ、ハル」
「っ」
ハルはジャンの優しさが、与えてくれた言葉が、呼吸をすることを忘れてしまう程、嬉しくて堪らなかった。
「…っ聞こえる…心臓の音が…」
ハルはジャンの逞しい胸に耳を寄せ、その鼓動が子守唄のように、規則正しく、優しく鼓膜を震わせるのが心地良くて、瞳を閉じる。
それでも、ハルはジャンの言葉を、優しさを、受け取るわけにはいかないと、そう思った。
ジャンの心臓を奪うことは、絶対にしたくはない。
誰かの心を自分のモノにしてしまうことは、とても愚かな行為に思えてならなかったからだ。
「でも、駄目…この心臓は君のものだよ……」
ハルはジャンの鼓動を聞いていると、突然争い難い睡魔に襲われた。
それは強大な力の波のように己に覆い被さってきたが、ハルは懸命に唇動かして言った。
「君の心の自由を…奪いたく…ない…もの… ––––」
そう言葉を残して、ジャンの胸に寄り掛かるように眠ってしまったハルを、ジャンは静かに見下ろす。
「…ハル」
青白い顔で眠っているハルは、ジャンに三日前の、教会の中で見た景色を彷彿させて、不安に見舞われる。それでもハルの口元に耳を寄せれば、静かな寝息が聞こえてきて、ほっと息を吐いた。
それから、ハルの目元を覆い隠す前髪を指先でそっと掻き分け、ハルが落ちた夢の中が、せめて穏やかであるようにと祈るように、目元に唇を寄せ、そっと触れる。
「…俺の自由は、お前の生きる場所に、あるんだよ…」
ジャンは自分の腕の中で眠るハルに、呪いでもかけるかのように囁くと、その体を抱き上げ、ベッドの上まで運ぶ。
おろしたてのシーツにハルの身体を横たえると、ギシリとベッドが軋む音が、やけに大きく響いた。
「…ん…」
それにハルが小さく呻き声を上げて、枕に頬を押し付けるように身じろぎすると、肌けたシャツの隙間から色白の胸元が見えて、ジャンは思わず眉間にシワを寄せて、ハルから視線を逸らしながら、起こさないよう慎重に掛け布団を掛けた。
そしてハルの寝顔を見つめながら、ベッドの端に腰を落とし、はぁと深いため息を吐く。
団長命令なので断る余地も無かったことだが、思いも寄らぬ問題が立ち塞がってきてしまった。
「監視云々の前に、俺の理性が持つかが心配だな…」
そう呟いて、ジャンはハルの頬を撫でると、ベッドから立ち上がりランプの灯火を吹き消しに向かおうとした時だった。
「 」
「…?」
眠るハルが、何かを呟く。
恐らくただの寝言だろうが、それでもやけにその言葉が引っかかり、後ろを振り向いて、再びハルを見下ろした。
ハルは苦しげに眉間に皺を寄せて、唇からもう一度、その言葉を繰り返した。
『…君を…助けるのは…、私の…役目だ…』
「!?」
その声はハルの声なのに、ハルの言葉ではない。
ジャンは見えない何かに囚われているかのように、眠りの中で嘆くハルを苦しめている何者かを、刺し貫くよう睨め付け、唸るように言った。
第二十六話 彼女を縛る者
「お前は、誰だ?」
完