第二十六話
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––––薄い木張の壁の向こう側で、アイツは言った。
「皆がもう、足を踏み出してるのに…私だけ立ち止まってなんて、居られないよ」
その言葉を字にして並べれば、とても高尚なものだと思えたのかもしれないが、ジャンの耳にはただの強がりだとしか響かなかった。
『ジャン・キルシュタイン君、君には彼女の…ハル・グランバルド君の監視役をして貰いたい』
エルヴィン団長は、巨人の掃討作戦が終わり、仲間達の火葬が済んだ後、調査兵団に入団することを決意した新兵達の前で挨拶を済ませると、自分だけを調査兵団本部に呼び出して、密室の中、拒否権は認めないと言った口調と眼差しで言い放った。
その時、ハルはきっと、エレンと同じ道を歩くことになるのだろうと…、三日三晩続いた長い戦いと、多くの仲間達との別れが重なり、疲弊した頭でぼんやりと思った。
一時エレンの身柄は憲兵団扱いとなっていたようだったが、昨日行われたらしい兵法会議で、エレンの身は調査兵団が受け持つことが正式に決定された。
ハルの場合は、エレンとは違って目撃者が少なかったことと、脅威性がエレンと比べて低いという観点から、エルヴィン団長は憲兵団にハルのことを公言しないことにしたらしいが、それは恐らくハルの力を使ってウォール・マリアを奪還する為であり、ハルの身を案じて取られた人道的な決断では無い。
しかし其処まで理解出来ていても、エルヴィン団長がハルの力を利用しようとしていることに、苦言を呈することも、ジャンには出来なかった。
何故なら、今の人類は滅亡の危機に瀕していて、それを打開するためには、エレンのような飛躍的手段となる存在が、必要不可欠なのだと、何処かで思って居たからだ。
今回のトロスト区奪還は、エレンという人知を超えた存在が無ければ成し得なかった。
そして尚のこと、ウォール・マリアを奪還する為には、エレンと同様の飛躍的手段となる存在が必要不可欠になるということは明らかだった。
そして、その手段の一つに、ハルは選ばれたのだ。
ジャンは「分かりました」とエルヴィン団長に敬礼を向けながらも、内心自分自身に反吐を吐いていた。
『そいつは一体何だ?』
そう問いかけてきたリヴァイ兵長に、ハルは人間だと啖呵を切っておきながら、結局自分はハルが人としてではなく、未知の力を宿した人成らざるモノとして利用されることを、受け入れたのだから–––。
そうして、クリスタ達に腕を引かれながら、兵舎の食堂へとやってきたハルの顔は、想像して居た通りの顔をしていた。
三日振りに見たその顔は、即席で作ったツギハギだらけの仮面を被っているかのように不自然で、その双眸は悲壮感で溢れかえって居た。
「ハル。…お前此処に来てから、吐かなくていい嘘、いくつ俺達に吐いたんだ?」
先日掃除したとはいえ、長いこと使われて居なかった部屋特有の、底冷えた空気が漂う部屋に、外に浮かんだ月光を分厚いカーテンが遮って、ランプの火の光だけが、ぼんやりとハルの後ろ姿を照らしていた。
ハルは今にでもこの場から消えてしまいそうな、そんな危うい儚さを背中から滲み出していて、ジャンはその背中に追い縋るような思いで、自分よりも一回り小さな体に覆い被さるように、縫い止めるように右手を壁に突き、その耳元に、脅迫染みた響きを孕んだ声で問い質した。
すると、ハルは白い喉元を引き攣らせて、酷くか細い声を溢した。
「…え…?」
その声には、必死に何かを取り繕うとするような響きがあった。
––––馬鹿だな。
ジャンはそう思った。
嘘を吐くのが下手で、ずっと馬鹿正直に、馬鹿真面目なその背中を晒して来た癖に…今更になって、自分を騙せるとでも思っているのか、と。
「俺が気づかねぇとでも思ったのか?…お前があいつらに隠さなきゃいけねぇことがあるのは確かだが、それ以外の事まで偽る必要なんか…ねぇだろっ」
感情が昂って、声が上擦ってしまわないよう耐えるように、ジャンは壁についた右手を、爪で引っ掻くよう握り締めた。
「…顔色も良くねぇ声に覇気もねぇ…っ、体調悪ぃのは誰が見たって明白だ。その上、仲間の死にいつ迄も立ち止まってられねぇとか…っ、お前が出来るはずもねぇこと抜かしやがって…!仲間の埋葬もまともに出来てねぇのにっ、気持ちに整理付けられるような器用な人間じゃねぇだろお前は…っ?!」
「っ嘘なんかじゃないよ!!」
ハルはジャンの言葉を振り払うように、肩を跳ね上げて声を上げた。
それから両手をぐっと握り締めると、力なく肩を落として、もう一度、今度は溜息のように、「嘘、なんかじゃない…」と呟いた。
必死に、自分の弱さや不安を、見せないよう腕に抱えて覆い隠そうとしているハルを、このまま見過ごしておくことは、とても危ういことだと、ジャンには思えてならなかった。
それは以前にも、家族を失った悲しみや罪悪感に押し潰されそうになって居た時と同じで、このまま彼女の腕に抱えたままにしておけば、いつか取り返しが付かないないことになってしまう。…そう、本能が訴え掛けてくるのだ。
ジャンはハルの偽りの仮面を剥がすために、心を鬼にして、ジリジリと獲物を追い詰める獣のように、喉を唸らせる。
「だったら、俺の目ぇ見て同じ事、言えんのかよっ…!」
「!?」
ハルが怯えたように小さく息を呑み、項垂れると、黒い髪の襟足がサラリと落ちて、青白い頸が顕になる。
普段は黒いハイネックを着ていた為気づかなかったが、そこは酷く細く脆そうで、その儚さはハルの心の弱さを、惜しげなく曝け出しているようだった。
「出来ねぇだろ…?それはお前が、ビビってるからだ。自分の嘘が見抜かれちまうって分かってるから、俺の目が見れないんだろっ…」
「っ…」
残酷だとは分かっていても、それでも、今引き剥がさなくてはいけない。引き剥がしてやらなきゃいけない。何故ならハルの手は既に傷だらけで、もう自分の手で、顔に張り付いた仮面を、外すことが出来ないからだ。
何時しか己が仮面を付けていることすら分からなくなってしまう前に、彼女ではない他の誰かが、その仮面の紐を緩めてやらなければいけない。そしてその役目を担うのは、自分でありたいのだと、ジャンは強く思っていた。
ジャンは不必要にハルが周りを偽っているという決定的な証拠を突きつける。
「甘く、ねぇんだよ」
「!」
「お前がさっき飲んだスープ。訓練兵団の食堂じゃ甘く作られてたが、こっちの食堂では辛口で作られてんだ」
恐らくハルは同じカボチャのスープだと思い込んで、それは甘い味がすると口にしたようだが、調査兵団の食堂で作られているカボチャのスープは、疲労回復の効果を得るために生姜やスパイスが多く使われているため、甘さ無く作られているのだ。
「そ…う、なんだね…」
ハルは耳を欹ていないと聞き取れないほど、小さな声で、足元に向かって呟く。
「……味が、分からなくなっちまってんだろ?」
ジャンがそう囁くように問い掛けると、ハルは握りしめていた手を、急に握力を失ったように解き、目の前の壁へトンと額を押し付けた。それから、糸よりも細い声で言った。
「…味が…しなかったんだ…」
その言葉は、静寂に包まれた部屋に、降り積もる前の地上に落ちる雪の粒のように、瞬く間も無く溶けて消えた。
「…味がしなかった…冷たいとか、熱いとか…そんな温度さえも…感じられなかったんだ…」
そしてハルは徐に、自身の左胸に右手をぐっと押し当て、シャツごと握り締める。
「ねぇ、ジャン…。胸に穴が開いてるんだって…っ、そう感じるのは、私の心臓が人のモノじゃ無くなってるから…なのかな…?」
ハルはジャンの名前を呼んでおきながら、ジャンの方は見ずに、額を押し付けている壁に向かって、自分自身を責め問い質すように言った。
「っ!」
ジャンはそれがやけに不快で、ギリッと音が鳴るほど奥歯を噛み締めると、ハルの肩を掴み半ば強引に振り向かせる。すると、ガラス玉のような双眸が見えた。その瞳はあまりに生気に欠け、温度が感じられず、背中をナイフの刃先で撫でられるような不安が胸に迫り上がって来た。
「っハル…」
「…すごく……れた…、疲れているんだ…」
ハルは独り言のように呟きながら、額をジャンの胸元に寄りかかるように押し当て、ズルズルと崩れるようにして床に両膝をつき、へたり込んでしまう。
「だから、泣けないんだよね…?みんなが死んだって、マルコが死んだって聞いても涙が少しも出てこない程っ…疲れてるんだっ…、…そうじゃなきゃ…嫌だ……だって、こんなっ、こんなのっ…!」
そして、ハルは両手で自身の左胸を、爪を突き立てるように握りしめ、悲痛な声で言った。
「人間だなんてっ、言えないじゃないかぁっ…!」
自分の足元で蹲まるハルを見下ろしながら、ジャンは酷く、打ちのめされていた。
自分のものではない他人の痛みが、こうも胸を抉り、身を焼く事などあるものなのかと、唖然としてた。
トロスト区の市街地で、体を半分巨人に噛み千切られ、変わり果てたマルコの死体を見つけた時も…、命を落とした仲間達が積み重ねられ、炎に焼かれて、もう誰が誰であったのか、焼け残った骨が、一体誰のものだったのも分からなっていくのを眺めていた時だって…、
たまたま足元に転がっていた骨の燃え滓を拾い上げて、マルコが言った『ジャンは強い人では無いから、弱い人の気持ちが理解できる。それでいて、現状を正しく認識することに長けているから、今何をすべきか明確に分かるだろう?』–––その言葉を、思い出した時だって、こんな気持ちには、成らなかった。
友人を、仲間を失った。胸に抱いていた希望や夢も、崩れて消えた。
それが酷く悲しくて辛かった。そして自分たちが今何をすべきなのかということを、マルコが言うように理解してしまった瞬間、それは途方もなく恐ろしいことなのだと分かっていながら、調査兵団に入団することを決めた時だって…、
体が震えて、涙が出た。
それなのにどうして、今は体も震えず涙も出ないのか。
それはきっと、あまりにハルが抱えている感情が、大き過ぎるからだ。
自分の心では受け止め切れないほどの痛みを、悲しみを、孕んでいるからだ。
だから手を差し伸べ、その地獄から引き上げてやることも、受け止めてやることでさえも、今の自分には出来ていない。だから、こうやって嘆くハルをただ見下ろして、立ち尽くすことしか出来ないのだ。
そう気づいた時、なんて自分は浅はかで自惚れていたのかと、自己嫌悪が胸に這い上がってきた。
自分になら、出来ると思っていた。ハルが身につけた偽りの仮面を、外してやれると思っていた。
でも、それは違った。
彼女の仮面は、彼女にしか外せない。
その現実を今、突き付けられたような気がした。
自分が今、ハルにしてやれることは、傷だらけになったその両手に滲む血を、ただ拭うことぐらいしか、してやれないのだ。
ジャンは己の未熟さが憎らしくて、爪が皮膚に食い込むほどに拳を握りしめる。それから両膝をつくと、ハルの震える体を、せめてもの思いで抱きしめた。
「…お前は、人間だ」
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