第四十三話
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「ああ…痛ぇ…」
「大丈夫かライナー…?」
負傷し布で吊られている右腕をさすりながら、壁上に胡座を掻いて座り込んでいた顔色の悪いライナーに、エレンは歩み寄って声をかけたが、ライナーは深く皺を作った眉間を負傷していない左手でぐっと押さえ込み、喉を唸らせた。
「大丈夫じゃねぇな、巨人に腕を噛み砕かれたんだ。本当に参った。もう駄目かと…」
ライナーが弱気になるところを、エレンは初めて見たような気がした。いつも男気に溢れ勇敢なライナーがはっきりと綻びを見せてしまう程に、ウトガルド城では死と隣り合わせの状況下に置かれ、今は酷く疲弊しているようだった。
古城にエレン達が駆けつけた時の状況は、まさに地獄絵図のようだった。当本人達からすれば計り知れない恐怖があっただろう。
エレンはリフト昇降の補助をしていたアルミンが壁に上がるのを、手を伸ばしてアルミンの腕を掴み、引き上げながら言った。
「っお前程強くても、そうなっちまうんだな」
「なに言ってんだ、こんなのもう二回目だぞ?なぁアルミン?」
「え?」
エレンに引き上げられたアルミンはライナーに話を振られ、キョトンとしてライナーを見た。前の会話が聞こえていなかったので、何の話を振られているのか分からなかったからだ。
ライナーは慄きと疲労を目の下にありありと浮かべながら、一息に言う。
「一度は巨人の手の中にすっぽり納まっちまったことがあるんだ」
「あ、あぁ、あの時の…」
アルミンは漸く話を理解したように少々ぎこちない相槌を打つと、ライナーは頭を抱え、顎を鎖骨に押し付けるようにして項垂れた。
「既にもう二回も死にかけた。このペースじゃあの世まであっという間だ。兵士をやるってのはどうも、体よりも先に心が削られるみてえだ。…まあ、壁を塞がねぇことにはしんどいなどと言ってる暇もねぇが…」
なんとか気持ちを立て直そうとするライナーに、エレンはライナーの肩を励ますようにトンと叩いた。
「ああ。お前ら二人の故郷も遠退いちまうばかりだからな」
「…!」
その時、エレンの言葉を聞いたライナーの顔色が、吹き付けてきた風に攫われて蒼白になったのを、座り込んでいるライナーの傍に佇んでいたベルトルトは、足元に出来た水溜りの水面に見た。
ライナーの目には、動揺と困惑が大きく震えている。
ベルトルトは息を吸い込み、座り込んでいるライナーに身を乗り出すようにして口を開いた。
「っそうだよライナー!故郷だ!!帰ろうっ!もう帰れるじゃないか、今まで苦労したことに比べればあと少しのことだよ!」
「そ…そうか、あともう一息のところまで…来ているんだったな…!」
ベルトルトが長く彷徨い続けた迷宮の終わりが見えた時のような表情をして言うのに、ライナーの表情も又、ベルトルト同様に雲が晴れたように蒼白だった顔に血色を取り戻した。
エレンは今の状況とは真逆の事を嬉々として話す二人に、怪訝な顔になる。
「…何言ってんだお前ら」
「…」
エレンの傍にいたアルミンも、それは同様だったが、エレンよりも少し勘繰るような色が強いようだった。
そんな彼等の近くでは、ミカサがコニーの壁上へ上がる手助けをしていた。
地上からリフトで上がってきたコニーが、ミカサの手を取り壁上へ移ると、両膝と両腕を壁上に付き、ひどく疲れた顔をしながらミカサに礼を言った。
「助かったぜミカサ」
「怪我はない?」
「俺は大丈夫だ。ライナーが腕噛まれて、ユミルとハルは見ての通りだけどな…」
コニーが顔を上げ、ユミルやハル達を見やりながら言うと、ミカサの隣にいたサシャは困惑顔で言った。
「まさかユミルまで巨人だったなんて…それに、ハルは一体…」
「サシャ」
ミカサはサシャを咎めるように向き合い名前を呼んだ。それにサシャはハッとしたように口を噤む。
すると、ユミルとハルの様子を確認していたハンジ達が、コニー達の元へとやってきた。
「皆良いかい?ユミルやハルの件はひとまず後だ。それとコニー、あんたの村には後で調査兵を送る手配をするから、今は兎に角、壁の修復作戦に集中してくれ。いいね?」
「はい」
コニーは唾を飲み下すように返事をして、ハンジに頷きを返した。故郷のことが気掛かりでならなかったが、今はそのことに気を取られている状況に無いということを、コニーは兵士としてしっかりと飲み込んだ。
「しかし、現場はもっと巨人だらけだと思っていたが…」
ハンジは壁上からウォール・ローゼ側の地上を見下ろした。壁に穴が開けられて暫くが経っているというのに、巨人と出くわしたのはウトガルド城付近でのみであり、少ないに越したことはないのだが、とても奇妙な状況だった。
ハンジが思案顔でいると、ふと壁に沿うようにして地上を走る駐屯兵団の一部隊がこちらを見上げて接近して来るのに気が付いた。
「…ハンネスさん?」
その班を率いるのは、アルミンやミカサ、エレンが幼い頃からよく知る駐屯兵のハンネスだった。
「駐屯兵団の先遣隊か、穴の位置を知らせに来たんだ…!」
ハンジは漸く穴の場所が分かると安堵していたが、ハンネスの状況報告からは、想像していた答えを得られることは無く、寧ろ一同に困惑を生む事になった。
馬を一旦班員に預けて、ハンネスだけが壁上に上がり巨人にあけられた穴の場所について報告を入れるが––––
「穴が何処にもない」
「え?」
その言葉に、壁上に居た全員が唖然とする。
「夜通し探し回ったが、少なくともトロスト区とクロルバ区の間で壁に異常はない」
「なんだって!?」
巨人が一番最初に目撃された場所から考えるに、その間で穴が無ければ、これまでの事象に説明がつかなくなってしまう。
動揺するハンジ達に、ハンネスは剣呑な顔で報告を続けた。
「クロルバ区の兵とかち合って引き返してきたのさ…道中で巨人とも出くわさなかった」
「っでも、巨人は実際に壁の内側に出てるんだよ?!」
「ちゃんと見たのか?まだ酒が残ってるんじゃねぇのか?!」
アルミンとエレンにそう責め立てられて、ハンネスは「おいおい」と呆れ顔になる。
「飲むかよ…!っていうか、お前ら何でこんな所に居るんだ?」
ハンネスの言葉に、エレン達は最早口を開けたまま何も言えなかった。訳の分からない事がいっぺんに起き過ぎて、思考が今の状況に全く追い付かなくなって居た。
そんな中、ナナバとゲルガーがハンジに向かって言った。
「ハンジ、参考になるか分からないけど、ハルが言っていたんだ。夜、壁の穴を探していた時、『何か妙だ』ってさ」
「ああ。もしも壁に穴があけられているとすれば、ウォール・マリアからローゼに、或いはローゼからマリアへ、風が吹き抜ける音がする筈だってな。ハルには一切、その音が聞こえていなかったそうだ」
ナナバとゲルガーの言葉に、ハンジは「…なるほどね」と下唇を軽く噛んだ。ハルの耳から得られる情報の信憑性は非常に高い。これまでの報告から算出するに、壁に穴はあけられていないと考えて行動するべきなのだろう。
「穴が無いなら仕方がない。一旦、トロスト区で待機しよう。今後の対応も大きく変わるからね。作戦の練り直しだ」
ハンジは調査兵達に指示を下すと、それにハンネスも慌ただしくアルミンとミカサ、そしてエレンに声を掛けた。
「兎に角、まだ気を抜くなよ。俺達は先に戻るぞ」
そう言い残して、ハンネスも立体起動で地上へと降下して行く。
「異常は無いってなんだよ…」
エレンは不気味な状況と嫌な予感が胸に広がって、溜息を吐くように呟くと、アルミンは顎に手を当て、考え込みながらハンジ達の後について行く。
「どういう事だろう…この五年間に無かった事がこんなに一度に起こるなんて…」
「本当にこの世界はどうしちゃったんでしょうかねぇ…」
サシャも理解出来ないことが多すぎだと最早呆れた様子で肩を竦めながら、コニー達と共にハンジ達の後を追った。
エレンも少しハンジ達から間を空けて、ついて行こうとした時、不意にライナーに呼び止められた。
「エレン、ちょっといいか。話があるんだが」
「…?」
エレンはライナーを振り返る。
其処には、やけに真剣な面持ちをしたライナーが立って居た。その隣には、何やら不安げな顔でライナーの表情を窺っているベルトルトの姿もある。
エレンは何やら二人に、不穏な雰囲気を感じた。
そして、エレンの不安は的中することになる。
ライナーは徐に、とんでもないことを口にし始めた。
「俺たちは5年前、壁を壊して人類に攻撃を始めた。俺が鎧の巨人で、こいつが超大型巨人だ」
「は…?」
エレンは、生真面目な顔で冗談にしては笑えない事を口走り始めたライナーに、表情を大きく曇らせた。あまりに突拍子も無く口火を切られた茶番に、エレンは自分の耳を疑っていたが、その会話が聞こえたミカサは一人、ハンジの後ろをついて行く足を止め、ゆっくりとエレン達三人を振り返った。
「何を言ってるんだライナー!」
ベルトルトは酷く焦った様子でライナーの肩を掴んだ。
しかし、ライナーが口を閉じることも冗談だと笑うことも無かった。
「俺達の目的はこの人類すべてに消えてもらうことだったんだ。だが、そうする必要は失くなった。エレン、お前が俺達と一緒に来てくれれば、俺たちはもう壁を壊したりしなくていいんだ。…分かるだろ?」
「は?いや待て、全然分からねぇよっ…」
「だから、俺達と一緒いん来てくれって言ってんだよ」
動揺するエレンに、ライナーは少し苛立ったように言う。
「急な話ですまんが、今だ」
「今から!?何処に行くんだよ!?」
「詳しくは話せない。だがまあ、俺達の故郷ってやつだな。…で、どうなんだよエレン。悪い話じゃないだろ。一先ず危機が去るんだから」
ライナーが連ねて行く言葉に、エレンは頭の中の回路がぶつりと切れたような感覚と疲労感で、小雨を落とす曇天の空を仰いだ。
「…どうだろうな」
自分の頭の中と同様、空は酷く曇っている。むしろ自分の頭の中に漂っている雲は、グルグルと渦を巻いているようだった。
「おーい!行くよー!!」
少し離れたところから、なかなかついて来ないエレン達をアルミンが手を振りながら呼ぶ声する。
「…参ったな…昨日からとっくに頭が限界なんだが––––」
本当に、この短期間で、いろんなことが起こり過ぎた。
もうどうして、何でと考え頭を動かすのにも、エレンは愈々限界を感じていて、判断力も乏しく低下していた。
ああ、そうかとエレンは思った。自分がこの状態ならきっと、ライナーも今の自分と同じ精神状態にあるのかもしれない。いや、きっとそうだと。そうであって欲しいと……
「お前さ、疲れてんだよ。なあ、ベルトルト?こうなってもおかしくないくらい大変だったんだろっ?」
エレンは無理やり作った笑顔で、ライナーの隣に立っているベルトルトに問い掛けた。すると、ベルトルトは過剰な程大きく頷いた。
「ああっ…!ライナーは疲れているんだ!」
「大体な、お前が人類を殺しまくった鎧の巨人だったら、なんでそんな相談を俺にしなきゃんなんねぇんだ?そんなこと言われて、俺がはい、行きますって頷くわけねぇだろ?」
すると、ライナーは大きく目を見開いた。
もしも、人の感情を生み出すのが心というものであるのなら、それがぐるりと180度、裏返ったようだった。
「…ああ」
ライナーは、自分が何であるのか、自分に課せられている使命が何なのか、完璧に思い出した。
そして、自分の弱さを、狡悪さを、体全身で感じ反吐が出そうになる。
「…そうか…、その通りだよな。何を考えてるんだ俺は。本当におかしくなっちまったのか…っ」
左手で額を抑え、項垂れ立ち尽くしているライナーに、エレンは踵を返して背中を向けた。
「とにかく、行くぞ」
すると、壁上をやけに生温い風がびゅうと音を立てて吹き抜けた。今まで穏やかだった風が、急に強さを増し、まるで物語の流れを大きく変えてしまうようだった。
その荒々しい風に、レッドラインを記す赤い旗が折れ、壁面に打つかりながら地上へ落ちていった。その甲高い音は、まるで勝鬨のように辺りに明瞭に響いて、ハンジ達ははっとして歩みを止めた。
その風は空に浮かんでいた重々しい雲までも攫っていって、雲間から光の筋が地上に降り始める。
「そうか…、きっと…ここに長く居過ぎてしまったんだ。…馬鹿な奴らに囲まれて、三年も…いや、五年も暮らした所為だっ…!俺達はガキで、何一つ知らなかったんだよ!!こんな奴らが居る何て知らずに居れば、俺はこんな半端なクソ野郎にならずに済んだのにっ!!」
ライナーは体を己への嫌悪と絶望に震わせながら、石を奥歯で噛み砕くような口調で言った。
「は…?」
エレンは短く息を吐き、急に仰々しく唯ならぬ雰囲気を纏い始めたライナーの負傷している右腕から、聞き慣れてしまった蒸気の音を聞いて、ライナーから後ずさった。
ライナーは、自身の胸元で揺れる御守りを見下ろした。
先ほどの風で、纏っていたシャツの下から、外に引きづり出たのだろう……四年前に貰った時とは、かなり色も褪せているのに、受け取った時の記憶は未だ、はっきりと手に取るように思い出すことが出来た。
『皆が、故郷に帰れますように』
そう願ってくれたハルの優しさも、信頼も、友愛も、全て裏切り、傷付けることになることを、分かって居たのに、手離せなかった。
『もう私には、何が正しいことなのか…何が間違っているのかも、分からないよっ…』
ウトガルド城で見たハルの、絶望に失墜した顔を、悲痛に塗れた顔を、何度も何度も悪夢の中で見て来た。
もしも、俺が『自由』だったら。兵士でもなく、戦士でもなく、使命などに囚われずに生きていけたのなら…
迷わずハルのことを、ハルのことだけを考えて、生きて居られたのに。あんな顔をさせずに済んだのに……
「もう俺には、何が正しいことなのかわからん」
「ライ、ナー…」
ベルトルトは息を呑んだ。
腕に巻かれた包帯を外し、ライナーは胸元に揺れるお守りを固く握り締めると、愕然と立ち尽くしているエレンを睨め付けた。
「ただ、俺のすべきことは、自分がした選択や行いに対し、『戦士』として、最期まで責任を果たすことだっ!!」
ライナーの右腕には蒸気と、そして巨人化する前の兆しとして発生する細い電流が駆け巡っていた。
エレンはこれ以上ない程に目を見開いたまま、喉を酷く震わせた。
両足が地面にベッタリと張り付いて動かなくて、呼吸困難になったかのように肺が強張って息苦しくなり、冷や汗がどっと額に吹き出してきた。
「ライナー、やるんだな!?今、此処でっ!!」
ベルトルはライナーの背中に、意を決した顔で言い放つと、ライナーはエレンに掴み掛かろうと足を踏み出した。
「勝負は今っ、此処で決める!!」
しかし、その刹那に先手を打ったのは三人の会話を聞いていたミカサだった。
ミカサはブレードを引き抜き、ライナーとベルトルトに切り掛かったのだ。
そのブレードは、ライナーの負傷していた右腕と、そしてベルトルトの首元を切り裂く。
「ぐぁぁああああっ!!!」
ベルトルトは血が噴き出す喉を両手で押さえ、壁上に倒れ込む。
ミカサはもがき苦しみのたうち回るベルトルトの上に跨ると、ブレードを大きく引き上げて叫んだ。
「エレンっ、逃げて!!」
それに、ライナーはベルトルトを叱責した。
「ベルトルトッ!!」
「あ“あっ…!!」
ベルトルトは血で泡立つ喉を唸らせ、体に電流を駆け巡らせた。
「あぁっ…」
エレンは動けなかった。
目の前に広がる光景を、ただ絶望して眺めていた。
予感はしていた。
予想もしていた。
ただ、アニと同様に、信じたくなかった。
三年間苦楽を共にしてきた仲間のことを、最後まで信じて居たかったのだ。
「エレンっ、逃げろ!!!!」
アルミンの逼迫した声が、背中から聞こえた。
しかし、時は既に遅かった。ライナーとベルトルトの二人に、激しい稲妻が落ち、竜巻のような風が発生して壁上に居た一同に襲い掛かった。
兵士達は体が暴風に吹き飛ばされそうになって、壁上に伏せ耐え凌いでいると、大きなムカデの脚のような骨が、壁上を這うように黄金の光が発光する中から現れた。
激しい風はユミルとハルを担架ごと空中へ吹き飛ばしてしまうと、巨人化したベルトルトの大きな腕が伸び、上空でハルとユミルを捕らえてしまったのを、クリスタは見た。
一方、ライナー達から近かったミカサとエレンは、激しい風に吹き飛ばされて宙を待っていた。
「っエレン!」
ミカサは懸命に空中で状態を立て直しながら立体機動に移るが、鎧の巨人となったライナーの腕に問われてしまったエレンを見て叫んだ。
エレンの目の前には、紛れもない鎧の巨人の顔があった。
それは5年前、シガンシナ区から離れる連絡船の上で見た、鎧の巨人で違いなかった。
『帰れなくなった故郷に帰る、俺の中にあるのはこれだけだ』
そしてその正体が、自分たちと同じ目的を持ち、故郷を目指し、同じ兵士を志して、共に過ごしてきたライナーとベルトルトであるということも、否定しようがない事実となった。
あぁ…
きっと、ハルも、今の俺と同じ感情に襲われて居たんだろうか…。
「ベルトルト、ライナーっ…この、裏切りモンがああああああ!!!」
エレンはライナーの手の中で、泣きながら右手にがぶりと噛み付いた。
憎い、悲しい、否…言葉では決して表すことなど出来ない凶暴な感情が、見開いた目尻から溢れて、空に舞って行く…
エレンの体は激しく黄金に発光し巨人の姿へ変わると、混沌の渦に呑まれた世界で喘ぐ様な咆哮が大地を揺らすように響き渡り、哀しき戦いの狼煙が、上げられる事となったのだった––––
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