第四十二話
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「俺にはやっぱり、理解できねぇな。…化け物を凌ぐ為なら人間性さえ捨てる…そうでなきゃ、勝てねぇか…–––」
ストヘス区の兵舎は、トロスト区にある調査兵団本部に比べ、随分と広く豪勢な造りをしていた。
至る所に庭や吹き抜けがあり、無駄に長い廊下も彼方此方に伸び繋がっていて、まるで大きな迷路のようだった。
ジャンとアルミンは、夕焼けが落ち、建物の影が長く伸びた庭横の渡り廊下を肩を並べて歩きながら、事情聴取が行われる小部屋へと重い足取りで向かっていた。
「人類が巨人に勝つための可能性の一つだよ。エレンなら、出来ると思う」
アルミンはジャンの問いかけに、その足取りと同じく重々しい口調で答えた。ジャンは身を切るような苦悩を眉間に作った皺に浮かべ、物憂げな口調で疑問を重ねる。
「なぁ…そんな化け物になって巨人を駆逐したとして、それは人類の勝利なのか?」
ジャンはアルミンが以前、巨大樹の森で口にした言葉を、頭では理解したつもりで居た。
『何かを変える為には、何かを捨てなければならない。』
––––それでも、巨人化し暴走したエレンが、女型の巨人を食い殺そうとする姿を目の当たりにして、思ったのだ。
「(人が人である尊厳を捨ててまで得たものが、果たして勝利と呼べるものなのか…?)」
そしてそれは本当に、壁内人類が救われる未来に繋がるものであると、胸を張って謳えるものなのかが、疑問でならなかった。
ジャンから投げ掛けられた問いに、アルミンは沈鬱に視線を足元に落とす。
すると、何処からか鳥の羽が、アルミンの前にふわりと舞い落ちてきた。
「…っ」
その羽に誘われるようにふと顔を上げると、二羽の雁が並んで夕空を飛び、翼を大きく広げて、いとも簡単にシーナの高い壁を越えて行く様子が見えた。
「––––簡単には…越えられない」
あの翼を持つ鳥達のように、人類は目の前に立ちはだかる壁を、容易に飛び越えて行くことは出来ない。
その次点で不自由を強いられ、地を歩む人間が世界を広げるには、幾度も繰り返し、聳え立つ障害、壁を乗り越えていかなければ、世界の真実に辿り着くことは叶わないのだろう。
「…アルミン」
雁が飛んでいく姿を見上げながら、まだ随分と遠い場所にある未来に思い馳せていたアルミンを呼び止め、ジャンは歩みを止めた。
「?」
アルミンも少し遅れて足を止めると、立ち止まったジャンを振り返った。
「どうしたの?ジャン」
怪訝顔で首を傾げるアルミンに、ジャンはやり切れない、消化不良な思いを額に浮かべて問いかけた。
「…もしも、ハルがこの作戦に参加していたら、アニのことを、説得出来たと思うか?」
ハルは、人類で唯一、背に翼を持つ存在だ。
だからどうだと云う話でもないが、ジャンにはその翼ではなく、ハル・グランバルドという人間の性が、壁内人類の行く末を変えることも有るのでは無いかと、根拠があるわけではないが、感じていた。
現に、ハルがその場に居たからこそ、救われた命は沢山ある。トロスト区奪還作戦の指揮を執り、被害を最小限に抑えるため策を講じて多くの兵士の命を守り、壁外調査でも柔軟な対応と戦闘能力を遺憾なく発揮して、失われていたであろう命も、そして、失ってしまった仲間の遺体も、家族の元へと連れ帰ることが出来たのだ。その功績から考えても、今回の作戦にハルが参加していたことで、何かが変わったのでは無いかと、考えずには居られなかった。
しかし、ジャンの問いに、アルミンは首を横に振った。
「それは…分からないよ。…だけど、アニは大勢の人間を殺しても、目的を達成しようとしていた。そう簡単に、アニが意思を変えたとは思えない。それに…、あの状況になったら、ハルもきっと、最後の最後でエレンと同じことをしたと思うんだ。何となくだけど、ハルってさ…エレンと似てるところが、ある気がするから」
アルミンの終わり際の言葉に、ジャンは条件反射で顔を顰めた。
「はぁ?!アイツと、ハルがか?」
「あれ?ジャンもそう思わない?」
アルミンは意外そうに目を丸くして小首を傾げる。
ジャンはまさかと首を横に振って、胸の前で腕を組んだ。
「あの悪人ヅラのエレンとハルの、何処が似てるってんだよ」
「いや、そういう話じゃなくて、中身の…性格の話だよ。例えば、そうだね…仲間の為なら向こう見ずに突っ走っちゃう所とか?それと、何か目的を果たす為なら…『自由』を手に入れる為なら…僕たちのことを置いて行ってしまうくらい…どんどん、先に…進んで行こうとするところとか。……意外に泣き虫なところ、とかさ?結構沢山、あると思うけど…」
アルミンは顎に手を当てて、自分の中のハルとエレンを見比べるようにして言うのに、ジャンは胸の前で組んでいた腕を「やれやれ」と呆れ顔で解き、肩を竦めて見せた。
「エレンはただの死に急ぎ野郎なだけだ」
それから、ジャンは徐に夕焼けに染まった空を見上げると、両手を腰に当てがい、何処か遠くを見るように目を細めた。
「…それに、ハルにとっての『自由』と、エレンにとっての『自由』の形は、まるで違ぇだろ」
「え?」
アルミンは首を傾げて、ジャンの顔を覗き込む。
ジャンはそんなアルミンをちらりと一瞥して、僅かに口端を上げて見せると、再び夕焼け空を見上げた。
「エレンにとっての『自由』ってのは、何にも縛られないことっつーか……誰にも、何にも干渉されず、自分の意思を尊重出来る世界を得ることのように思える。…でも、アイツ…ハルにとっての『自由』は、壁の外に出て世界を広げるっていう事じゃなくて、ただ俺達と一緒に寿命を全うして、…当たり前に死んでいくこと……なんじゃねぇかって思うんだよ」
「…僕達と一緒に生きて…死んでいく事…」
アルミンはジャンの言葉を復唱しながら、まるで愛おしい人を想うように、穏やかに、それでもどこか切なげな表情を浮かべているジャンの横顔を、まじまじと見上げた。
アルミンは、ジャンが調査兵団に入団してから、いい方向に目紛しく変わっているのを感じていた。そして、それは少なからず、ハルからの影響を受けているのだという確信があった。
ジャンが淡い夕日を受け、今浮かべている表情は、ハルが時頼見せる大人びた表情に、相似ていたからだ。
「…ねぇジャン、ハルと何かあった?」
そう問い掛けると、ジャンは「はあ!?」と一気に顔を赤くして声を上げた。分かり易く動揺し、アルミンから天敵に遭遇した鹿のように数歩後ずさる。
「なっ、何かって何だよアルミンッ!!?」
思いの外過剰な反応を見せたジャンに、アルミンは少々驚きながらも、頬を指先で触りながら肩を竦める。
「い、いやぁ…何か、ハルのこと考えてるジャン見てると、何だか別人を見てるみたいだなぁって思って…も、もちろん!いい意味でだよ?」
「どういう意味だよ!?」
ジャンが赤い顔のまま両肩を張り上げるのに、アルミンは何だかおかしくなって、笑いながら答えた。
「だって、ジャン。『愛おしくて堪んない。』って、そんな顔してるからさ」
「は?」
アルミンの言葉に、ジャンはきょとんと虚を突かれたように小さい瞳を丸くして固まる。
「ハルとの距離が、少し近づいたのかなぁって…思ったんだけど。違った?」
アルミンはニッと口端を上げて、ジャンの呆けた顔を見上げながら首を傾げて見せるのに、ジャンは「う…」と眉間を手で押さえて呻くと、もう片方の手を腰に当てて、アルミンから顔を逸らす。
「……アルミン」
「何?」
「それは、思っても心の中に留めておいてくれ…」
「あははっ、ごめんっ」
ジャンの頬が赤く見えるのは、夕日の所為だけではないだろう。
アルミンは照れているジャンが微笑ましいと思いながら、軽く謝罪をする。
いつの間にやらジャンとハルの関係が進展していたようで、ジャンの長年の想いがハルに伝わったのだと思うと、アルミンも自分の事のように嬉しかった。
アルミンは、先程ジャンが見上げて居た夕焼け空を見上げ、ふと青い結晶の中で眠りについていたアニのことを考えた。
自分が今見ている景色も、匂いも、温度も、アニが手放したものばかりだ。捨てるには大き過ぎるものばかりだというのに、アニには此れ等を手放してでも守りたいものがあった…或いは、果たしたい目的があったのかもしれない。
「…アニにも、あったんじゃないかな。ジャンにとってのハルと同じくらいに、大事なものがあったから、あんな事が出来たのかもしれない。…とも、考えられるよね––––」
独り言のように呟くと、ジャンが小さく息を呑んだ気配がして、アルミンは視線をジャンへと戻した。
ジャンは、昔よりも少し伸びた前髪を、眉間を押さえていた手で掻き上げて、伏目がちに沈んだ声音で言った。
「だったらどうして…最後の最後に、アイツから貰った御守りに縋ったりなんてするんだ。アニは、ハルを捨ててもその道を選んだ。だったらそんな矛盾っ、俺には到底理解出来ねぇよ…」
アルミンは、ジャンの言葉を受け止めるように、一度大きく瞬きをする。
「うん。…でも、知らなきゃいけない。僕達は、アニ達のことを、何も知らないままだから」
その言葉に、ジャンは悲痛な苦悩を湛えた瞳を揺らし、早口に声を震わせる。
「それを知ったところで俺はアイツらを、許せるとは思えねぇよ…アルミン」
ジャンからは、静かだが明瞭に、燃える炎のような怒りと憎しみ、そして憤りを感じた。
だがそれは、とても人間らしい感情ばかりだと、アルミンは思った。だからこそ、それは何処までも正しく、美しいとさえも感じられる。
「…うん」
アルミンはジャンを否定することも咎めることもせずに、ただ頷いた。
今ジャンが露わにしている感情は、エルヴィン団長が未来を切り開く為に幾度も捨ててきたものだったとしても、ジャンからはその感情を奪うべきではないと、本能的に感じたからだ。
「……そろそろ、行こうかジャン。あんまり遅れると、憲兵に怒られちゃいそうだし」
「ああ…そうだな」
アルミンに促され、ジャンは波立つ感情をゆっくりと瞬きをして無理やり胸の奥へと飲み下す。
そして二人は、事情聴取が行われる部屋へと、再び歩き出したのだった。
–––その後、調査兵団とエレン・イェーガーの王都召喚は凍結され、地下深くに収容されたアニ・レオンハートの管理は調査兵団に委ねられる事となった。
しかし、人類が、自分達が何に囚われているのかを知るには、まだ時間と犠牲が必要だった––––
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