第四十一話
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「ライナー、通して」
ハルは双眸を細めてライナーを見つめたが、ライナーは「駄目だ」と首を横に振る。
構わずハルはライナーの横を通り過ぎようとしたが、ライナーは負傷していない左手でハルの腕を強引に掴んで引き止めた。
「っ、離して!」
ハルは焦燥を露わにしながら手を振り払おうとしたが、ライナーはハルの腕を離すことはなく、より一層手に力を込めて、珍しく声を荒立てた。
「行くなっ!!」
鼻っ面を叩くような鋭い一声に、ハルはびくりと両肩を跳ね上げて、ライナーの顔を見た。
その顔は酷く苦しげで、眉間に深い皺を刻み、ハルの事を咎めるような厳しい目で見つめていた。
「…お前は何もしなくていい。出来ることが、例えあるとしてもだ…っ!もう、何もするなっ!」
掴んでいる兵士に似つかわしくない細い腕をぐっと引き寄せて、ライナーは頭上から釘を打ち付けるような口調で言い放った。
すると、ハルは珍しく反感を瞳にくっきりと滲ませて、顔を顰める。
「どうしてそんなことをっ…」
ハルからしてみれば、この言葉はナナバ達を見捨てろと言っているように響くのかもしれない。そう捉われても仕方が無いとも思う。実際、間違っては居ないのだから…
ライナーは、再び自ら危険な場所へと身を投じようとしているハルを止めたかったのだ。ハルが、ナナバやゲルガーのことを、必死になって止めていたのと同じように––––
「またお前は、自分を投げ出して人の為に命を張るのか…?そんなの…っ、もう終わりにしてくれよっ、頼むから!!お前の命はお前の為に使え!!他人の為にっ、命張らせる為に…っ、俺はっ…お前を…っ!」
ライナーは、トロスト区襲撃の際、補給塔でジャンに言われた言葉を思い出していた。
『ずっとこいつの傍に居たなら、ハルの異常さに気づいてるはずだろ!?』
ジャンの言う通り、ハルの自己犠牲の精神が常軌を逸しているということは、昔から気が付いていた。
しかし、今ほど酷いものでは、無かったのだ。
寧ろ開拓地で出会った頃のハルは、人と関わる事を自ら避けていたし、愛想が良いというわけでもなかった。ただ、時より声を掛けたり、共に過ごす時間が少しずつ増えていく内に、ハルは閉じていた心を開いて、徐々に、自分達に依存するようになった。––––否…寧ろ、依存するようになったのは自分達の方だったのかもしれない。
何であれ、それからハルの自己犠牲の思考と行動が過剰になり始めたのは確かだった。
だからこそ、ライナーはハルにその危うい性質を植え付けてしまった根源である自分達が、変えてやらなければならないと思っていた。
そして、それは今なんだと…今この瞬間でなければならないのだと、ライナーはハルには大き過ぎる兵服の襟を掴んで言い放った。
「お前にそんなことをさせる為にっ、俺は『あの日』、お前を助けたわけじゃねぇんだぞっ!?」
「っ」
ライナーの言葉に、ハルはこれ以上ないほどに目を見開いて、ひゅっと音が鳴るほど大きく息を呑んだ。
「ライナー…?」
ベルトルトは怪訝な顔になってライナーを見つめた。
ベルトルトが思い当たる『あの日』と、ライナーが口にした『あの日』は、何処か違うような気がしたからだ。
ハルは驚いた顔を一度俯けた後、大きく息を吸って、吐き出した。それからゆっくりと顔を上げて、襟を掴むライナーの手を、ブレードを握っていない左手で掴んだ。
「じゃあ、…何の為に…助けたって言うんだ」
その声は、感情的に震え掠れていたが、ライナーの耳にはハッキリと届いた。
「は…?」と、ライナーはまるで時間が止まったかのように絶句し、固まった。ハルの言葉はライナーの思考回路に直撃して、激しい動揺に瞳を震わせているライナーに、ハルは鷹のように鋭く目を細めた。
「っあの時、『あの日』っ…!私を助ける意味も理由もっ、君には無かった筈じゃないのかっ!?ライナー!?」
乾き張り詰めた空気がきんと音を立てるかのように、ハルの声が悲痛に響いて、ライナーやベルトルトだけでなく、クリスタやユミル、そしてコニーもハルとライナーの二人へ顔を向けた。
「…お、まえ…思い…出していたのか?」
ライナーは、半ば呆然としながら、掠れた声でハルに問い掛ける。
ハルは五年前、弟達を失った直後の記憶がないと、ライナー達に話をしていた。実際、トロスト区が巨人の襲撃を受け、巨人化したエレンにミカサと共に命を救われた瞬間まで、思い出せずにいたのは本当だった。
ライナーもその事から、ハルが『あの日』と聞いて連想する日は、自分達が壁を壊した日ではなく、ハルと始めて、開拓地で出会った時のことだと思っていた。
しかし、ハルは鎧の巨人であったライナーが、弟二人を食い殺した巨人に、同じく食い殺されそうになっていた自分を助け、力を使い疲労で気を失っていたベルトルトとアニと一緒に、避難所まで連れて行った––––『あの日』のことを言っていたのだ。
それは、ハルがライナー達の事を、壁を破った巨人であると暗喩しているということに、気づいたのは当本人達だけだったが、ライナーやベルトルトにとっては、言葉を失ってしまう程に衝撃的なことだった。
「ただのっ、気まぐれで助けたの…?!同情して、可哀想で、見ていられなくて!?そんなのっ…勝手だよ!!…私の気持ちも知らないくせにっ!私を助けることでっ、少しでも罪悪感から逃れようって…そんなことでも考えてたんじゃないのか!?私はっ、良かったんだ…っ、あの時…私はみんなと、家族と一緒に…っ!!」
ハルは愕然としているライナーの胸倉に掴み掛かり、その先に続けようとした言葉を、ぐっと奥歯に噛み締めて、顔を足元へと俯けた。
「(どうして…だって…?)」
ハルの問いに答えるのに、ライナーはそう時間は掛からなかった。ハルが今まさに口にしようとしていたことを、ただ、止めたかったからだ。
「…死んでほしく、なかったからだ…」
ライナーは、項垂れるハルの旋毛を見下ろしながら、息を吐くようにして言った。
ハルはゆっくりと顔を上げて、ライナーを見る。
「…お前を見た時、とても放っておくことなんて、出来なかった…。正直言って、理由は自分でも良く分からん。身体が、俺の中の本能みたいなもんが…そう、させた」
「何っ…」
納得がいかないと、目を細め、当惑して眉を顰めるハルに、ライナーも目を細めて、ハルの右肩を左手で掴む。
「こんな答えでお前が納得してくれるとは思ってない。身勝手だと言われても、仕方のないことをしたと思ってる。だが俺は……『あの日』お前を助けたことを、後悔なんてしてない」
ライナーは兵士ではなく、戦士であり、必ず成さなければならない使命がある。
その使命を全うしなければ、自分は世界から、存在を認めてもらうことは出来ない。そしてそれは、家族も同様であった。『善良なエルディア人』であることを、この島で成果を上げ、証明することが出来なければ…人として生きることを、認めて貰えはしないのだ。
だからこそ、ライナー達は、何も知らないハルに対して、同じく何も知らないフリをした。戦士であることも忘れ、使命も脱ぎ捨て、ただのライナー・ブラウンとして、ベルトルト・フーバーとして、アニ・レオンハートとして、ハル・グランバルドという人間と接して来た。
それはライナー達にとって、初めての試みでもあった。
ありのままの自分を晒す事も、ありのままの自分を見てくれる、人と出会った事も。
自分達の故郷では、常に自分は『戦士候補生』であり続けなければならず、家族にとっては、自分達を世界から救ってくれる『道具』としか見て貰えなかった。
それでも、ハルは、何者でもない自分たちの傍に居て、笑って受け入れてくれたのだ。
『戦士』で、なくても。
『善良なエルディア人』で、なくとも…
だからこそ、初めて自分が、自分自身の意思で、守りたいと思ったハルのことを、ライナーは絶対に手離したくなかった。己に課せられた使命よりも、何よりも大切な存在に思えた。ハルを失うという事は、ライナー・ブラウンとしての自分自身を失う事と、限り無く等しいように思えてならなかったからだ。
「お前は…っ、お前だけがっ、この残酷な世界で…何者でもない、ありのままの、俺達自身のことを受け入れて…傍に、居てくれた…。…だからっ、例えお前があの時、死ぬことを望んでいたんだとしても俺はっ、お前を救ったことを…間違いだったなんて思ってない!!」
ライナーは胸倉を掴んでいるハルの白い手を掴み、身を乗り出すようにして心中を吐露すると、ハルはライナーの胸倉から手を離し、ライナーの腕を振り払って数歩後退りながら、顔の反面をブレードの握っていない手で覆い隠した。
それから、乾いた笑い声を溢し始める。
「…ははっ、あはははっ…!!」
「ハル…?」
泣き笑いのような表情は、どこまでも表面的で、その薄い膜を破いた先には、迷いと、そして絶望の闇が渦巻いているようなハルの顔に、ライナーは不安になって名前を呼ぶ。
ハルは喉をコツコツと鳴らすような笑い声を、「あぁ…」と疲労を滲ませた溜息で終わらせて、顔を覆ったままがくりと力無く項垂れてしまう。まるで背に亡霊が取り憑いているかのように、体が重くて前を向くことが出来ない。
「もう、分からないよ…私には何も。…何が間違っていて、何が正しい事なのか…っ」
ハルは頭の中も心も、輪郭を保てない程ぐちゃぐちゃになっていた。
今は私情に翻弄されている場合ではないと頭が必死に足掻いていても、思考が途切れ途切れになって、心が儘ならない。
ライナー達に対する、怒りや悲しさも、ナナバ達に対する焦燥も、全てが入り混じって、とても冷静を保っていられる心情ではなかった。
地面に足の裏がベッタリと張り付いてしまって、動かない。…動かすことが、できない。体を支えている気力の柱に亀裂が入り、バラバラと朽ちて崩れ落ちていくようだった。
此処まで来て、漸くハルは、とっくに心も体も疲れ果てて居たことに気が付いた。
それでも、自ら鞭を打って、無理矢理前を向いて進み続けて来た。だがそれももう、限界だった。
「(あぁ…もう、前も後ろも…右も左も…分からないや…)」
ハルは耳を、塞ぎたくなった。
耳元でずっと聞こえている、彼等の声から逃れたくなった。
巨人に奪われた、ハルにとって大切な仲間達の声から、家族の声から、もう解放されたい。そんなことを思いながら、ハルは手にしていたブレードを、手放そうとした時だった。
ドォオオンン!!
塔が激しく音を立てて、大きく揺れた。
恐らく巨人が塔の外壁に倒れ掛かったのっだろう。
塔の下から、ナナバの切羽詰まった悲鳴が聞こえてきた。
「ゲルガーッ!!」
「!?やばいぞっ、ナナバさんとゲルガーさんがっ!!」
塔の端に立っていたコニーが、ナナバ達に巨人が群がり迫っている状況を見て、危機迫る声を張り上げる。
「っ」
ハルはコニーの声に、頬を打たれたように息を呑んで、身を強張らせた。
「(塔の下でっ、ナナバさんとゲルガーさんが戦っている。私達の為に、命を賭けて…そして、私のことを信じて待っているんだ!だからっ、動揺している暇なんか、今の私には無いんだ!)」
何が正しいかどうか、分からなくても。何が間違っているのかも、分からなくても。自分の中で、今何がしたいのかだけは、ハッキリしている。
ハルはライナー達に背を向け、手放しかけたブレードを握りなおして、塔の下へ…巨人と戦う為に歩き出した。
「ハル…?おいよせっ…何を、何をするつもりなんだっ!」
ライナーはハルの背中を追い、呼び止める。
ハルは、「…ごめん」と静かに口にすると、足を止めて仲間達を振り返り、そして自嘲じみた笑みを浮かべた。
「私、みんなにずっと…隠し事をしていたんだ」
「え?」
ハルの言葉に、クリスタ達は困惑して表情を曇らせ、月光浴び、乾いた風に黒髪を揺らすハルの青白い顔を見つめた。
「おい、何だよ…その顔、なんか怖ぇよっ、ハル!」
コニーは今のハルが月光に溶かされて消えてしまいそうな程に儚げに見えて、不安から声を上擦らせると、ハルに数歩歩み寄った。
ハルは、手にしているブレードを見下ろして、マルコのエンブレムが縫い付けられた柄を、額にそっと押し当てる。
「こうすることが、正しいかどうかは分からない。けど、皆が助かるなら、この選択肢を選ばない理由が無いんだ…」
心を決めるように目蓋をそっと閉じたハルに、ユミルは堪らなくなって、体の横の拳をぎりっと握った。
「…ふざけんなよ、ハル」
「ユミル?」
クリスタは、隣に居たユミルの唸るような声を聞いて、ふと視線を持ち上げた。ユミルは憤りを目の下にくっきりと浮かび上げ、目尻を震わせていて、ここまで感情を剥き出しにしているユミルの顔を初めて目の当たりにしたことで、思わず慄いて息を呑んでしまう。
ユミルは荒々しい足取りでハルへ足早に歩み寄ると、胸倉に激しく掴み掛かった。
「私はっ!お前のそーいうとこが大嫌いだって何時も言ってんだろ?!何でっ、何で分かんないんだよ?!そんなこと、此処に居る誰も望んでないって……さっきライナーが言った通りだ!!他人の為じゃなくて、もっと自分の為に生きやがれ!!この大馬鹿野郎っ!!」
ハルは黒い目を丸くして、ユミルの叱責を受け止めていたが、すぐに微笑みを浮かべて、ユミルが胸倉を掴む手に、左手を重ねた。
「––––誰の為でもない。…全部自分の為だよ、ユミル」
「は?」
「私さ…もう分からないんだ。どうすることが一番、正しい事なのか…何をすることが間違いなのかも…。でも、自分が何をしたいのか…何を守りたいのか…それだけは不思議と、私の中で明白なんだ」
そう言ったハルの黒い双眸が、真剣さを増して、真っ直ぐにユミルの目を見つめた。
「私は、死にたくない。皆と、ずっと生きて居たいって、今は思ってる。それに、此処にいる誰にも、死んでほしくない……っだから、私は今出来る事をしたいんだって。それが、自分の正直な気持ちなんだってさ」
「っ」
何処までも真っ直ぐで、一点の歪みも無い言葉と意志を突き付けられて、ユミルは息が詰まった。
そんなのは偽善だと言ってやりたかったのに、その言葉が喉から出てこない。
「…っ認めたくねぇって…そんな、馬鹿げたことっ」
代わりに唇から零れ落ちたのは、諦めの悪い自分の思いだった。
こんなクソみたいな世界に、こんな馬鹿みてぇな人間なんて、存在する筈がないと思っていた。そんな、聖者みたいなことを本心で言うような奴は、この世に絶対に存在しない。例え口にしたとしても、行動など伴いはしない。そんなことが出来る奴は、誰かが空想で作り上げた、目には見えない女神様くらいだろうと…––––
「そんな奴が、この世界に居るってのかよ…!?自己犠牲が自分の為だなんて本気で言う奴が、いる筈がないんだ…っ!そんな馬鹿なこと、本当にしちまうような奴はっ…」
しかし、目の前で微笑みを浮かべている、ハルの顔を見ていると、痛い程に思い知らされてしまう。
「お前くらいしか居ないじゃねぇかよ…っ…!クソったれ!!」
今のハルに、偽善なんてものは何一つ無いのだということを––––
ユミルはハルの歩みを止められない無力感に唇を噛みしめて、顔を俯ける。そんなユミルの虚脱した肩に、ハルは左手で優しく触れた。
「ユミル」
名前を呼ばれて、ユミルは僅かに顔を上げると、ハルはユミルの耳元に口を寄せる。
「ありがとう。ずっと…騙されたフリを、していてくれて」
それは、ユミルにしか聞こえないほどの小さな声だった。
「っ…ハル。お前っ…」
ユミルは気づいていた。
トロスト区襲撃後、調査兵団の兵舎へとやって来た日から、ハルはずっと何かを隠しているということに。
やたらとミケ達に呼び出しを掛けられては、遅い時間に兵舎に戻ってくるし、いつも疲れ切った顔をしていて、時よりひどく思い詰めているような時もあった。その癖、呼び出しが掛からない日は夜遅くまで自主訓練に明け暮れて、挙げ句の果てにはリヴァイ兵長から回転斬りの指導まで受けていた。
何よりも、ハルだけが個室を与えられ、ジャンの監視が付いているのも謎だった。
ハルはユミルの肩をポンと叩いて離れると、ハルには大きすぎる、兵服をばさりと脱いだ。
そして、破れた白いシャツから除く、月光に照らされた凛々しい背中が現れる。
ハルは歩みを進め、塔の断崖に立った。
塔の下から外壁を這い上がってくる風に、ハルの柔らかな黒髪と、シャツの裾が舞い上がる。
足元を見下ろせば、巨人達がナナバとゲルガーの身体に掴み掛かろうとしているのが見えて、ハルは右手のブレードの刃を、右目の目蓋に当てがった。
その時ふと、ハルは先ほど見ていた夢のことを思い出した。
––––否、それは夢ではなく…ハルの、祖先の記憶だ。
それはずっと遠い、昔の話。
自分と同じ奴隷の少女を守れなかった、あの少年のように…、私は後悔なんてしない。
例え多くのものを捨てることになっても、自分が本当に守りたいものを選んで、取り戻すべきだったのだと––––
自分の思いに忠実に、正直な選択をするべきだったのだと。
右目をナイフで抉り取られ、激しく焼けるような痛みの中で、強く後悔をしていたんだ。
でも、
「私は、君みたいな後悔はっ…しないよ」
ハルはブレードの柄を固く握りしめて、塔の下へと飛び降りる。
背中で、ライナー達が必死に自分を呼ぶ声を遠くに聞きながら、ハルは右目を切りつけた。
そして、ハルの身体は、黄金に瞬いた。
漆黒の翼と、純白の翼を携えて、黒白の羽を、月下に舞い散らしながら––––
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