第四十話
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見渡す限り広がる風景は、色落ちした布のように褪せていて、すべての色に灰を混ぜ込んだようだった。
長く雨が降っていない所為で、乾きひび割れを起こしている大地を踏み締め、列を成して水を運ぶ奴隷、土を只管耕し続ける奴隷、大量の木材を背に背負った奴隷。その誰の顔にも生気や希望は微塵も無く、生きる屍の能面を貼り付けている。
そんな奴隷たちの間を掻き分けるようにして、一人の黒髪の少年が、風の噂で耳にした出来事を確かめるべく、酷く焦燥した表情で息を上げながらも駆けていた。
「ちょっとすみませんっ、通してください!」
人にぶつかり、地面に埋もれた石に躓きながら、少年はやがて一部の奴隷達が集まり、この国を統治する王に向かって跪く奴隷達の背中を視界に捉えると、その集団の少し手前で、顔見知りの中年男を見つけ、男の左肩を後ろから掴んで声を掛けた。
「おじさん一体これはどういうことですか!?」
呼吸を整える時間さえも惜しいといった様子で、一息に問いかけてきた少年に、中年の男は血の気の失せた沈痛な面持ちを向けて答えた。
「あ、ああ、それが…ユミルちゃんが、家畜の豚を逃しちまったようでな…。王様から、罰を下されることになったんだよ…」
「なっ…!?ユミルがっ…?」
男の返答に、少年は波が引いたように顔がさっと青ざめると、奴隷たちが跪く王の元へと取り乱した心のまま再び走り出した。
「おい!?待てっ!!」
男は少年を慌てて呼び止めたが、少年が振り返ることはなかった。
豚を逃したというユミルは、自分よりも年下でまだ幼い少女だが、真面目で与えられた仕事はしっかりと熟す子だった。寡黙ではあるが、囲っている家畜を外へ逃してしまうなどというミスを犯すような子ではない。
「(きっと、何かあったんだ!)」
心根の優しいユミルのことだ、もしかしたら誰かを庇って、自分が他人の罪を被ることを選んだのかもしれない。
少年はそう信じて、跪く奴隷達の間を抜い、事を終えて馬車へ戻ろうと兵士の護衛を受けながら歩き出した王の元へと走った。その最中で、ユミルが服の首襟を乱暴に掴まれ、兵士数名にずるずると引きずられるようにして、野生の獣が多く生息している森へ連れられて行く光景を目にし、少年は奴隷達の集団から抜け出すと、王の前へ飛び出して、その勢いのまま地面に両膝を付き、額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「王様っ…お待ちを…王様ッ!!」
「っ貴様!奴隷の分際で王の歩みを止めるとはっ、どういうつもりだぁ!?」
すると、すぐに王を囲んでいた護衛の兵士達が、手にしていた槍の刃先を平伏している少年へと突きつけ、あっという間に周りをぐるりと取り囲んだ。
しかし、王は意外にも自分を守ろうと動いた兵士達を手で制した。
「まぁ、待て」
王は馬車へと向かっていた足を少年へ向け、顎に蓄えた髭を触りながら、興味深そうに目を細めて地面に平伏す少年を見下ろした。
「まだ若いのに凛々しい事だ…ああ、それにお前は、稀な東洋人の奴隷ではないか?顔を上げよ」
地面に額を押し付けていた少年は、王に促されゆっくりと顔を上げた。
王は興味深そうに少年のことを見下ろしていたが、薄笑いの中に光る冷たく鋭い双眸に、筆舌し難い恐怖と威圧感を身体に注ぎ込まれるようで、少年は声が上擦ってしまいそうになるのを懸命に堪えながら、喉の奥から言葉を絞り出すようにして口を開いた。
「王様…っ、ユミル…は、豚を逃してはおりません。豚を逃したのはっ、自分です」
何とかそう言葉にすると、王は「……ほう」と細めていた瞳を更に細め、目尻の皺を深くした。
少年は蛇に睨まれた蛙のような気分になり、地面に付いている手がぶるぶると震えるのを、乾いた土を巻き込むように握りしめることで王から隠そうとした。
しかし、王の瞳は全てを見透かしているような、まるでこの世界に生きるもの全てを掌握しているかのような、そんな絶対的な輝きを孕んでいて、本能が彼に逆らってはならないと警鐘を鳴らし始めるのが分かった。
王は恐怖を表情に浮かび上げる少年をフンと鼻で笑うと、視線を先程から跪いたままの奴隷達の方へ向けながら言った。
「そうか…そうだったのか。それはあの娘に悪いことをしてしまったなぁ。……だが、あの奴隷共は皆、満場一致で、あの娘が豚を逃したのだと言っていたが…?お前が言っていることが本当だとすれば、奴等は奴隷の分際で、私に嘘を吐いた…ということになるが?」
「っ!?」
その言葉に少年はハッとして、視線を奴隷達へと向け、そして身体を巡る血が一瞬で凍りついて、息を大きく呑んだ。
奴隷達は王に向かって平伏しながらも、前髪の隙間から怒りと恐怖に満ち溢れた瞳を、少年へ向けていた。
その視線に、少年は全てが分かった気がした。
ユミルはそんなに自発的な子ではないが、誰よりも自由を求める強い意志を心の内に秘めていた。そして、誰かに愛情を注ぎ、そして愛されることを望んでいるようにも見えた。
だからこそ、ユミルは塀に囲われ自由を奪われた家畜に己を重ね、その結果、外へ逃すという行動を取ったのだ。
少年は打ちひしがれながら、奴隷たちの視線に耐えられず、乾いた地面に視線を落とし奥歯を噛み締めた。
すると、王は口元に恐ろしい程楽しげな円弧を描いて、項垂れている少年の肩に腕を回し、耳元で囁いた。
「お前の言っていることが事実であるなら、皆の片目を…罰として抉らねばならぬが…。お前は本当に、豚を逃したのか?」
地を這うような、恐ろしく冷たく残酷な、悪魔の化身の声に、少年の喉が大きく引き攣った。
「…っ」
自分はユミルを守りたかった。
それは何処までも私情であり、自分はどうなってもいいと、その覚悟を持って嘘を吐いた。
しかし、その嘘で、自分だけではなく多くの人達が巻き込まれ、苦しむことになるのなら……
「……い、え……」
乾き、みっともなく震えた声が、唇の隙間から溢れ落ちる。
「自分は…っ、逃して…おりません」
少年は、そう口にして、下唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
それに、王は腹を抱え、さぞ愉快そうに哄笑を響かせた。
「ハハッ…はははは!!そうかそうかっ!!では、お前は私にホラを吹いた罰を受けねばなぁ?」
口の中に鉄の味が広がる。
悔しいのか、悲しいのか、やるせ無いのか。
ただ、自分の愚かさと浅はかさに絶望して、目の前で笑う悪魔の化身に、胸の中がマグマのような憎悪で一杯になる。
「王様っ、私はいくら罰を受けても構いません!ですが、ユミルはまだ幼い子供です!!どうか、どうかお慈悲をっ」
少年は先程の恐怖や焦燥を表情から引き剥がして、怒りに満ちた攻撃的な視線と声で王に訴える。
すると、王の愉悦に満ちた表情が掌を返したようにガラッと変わった。
「黙れ。類稀な東洋人だからと甘く見ておれば調子に乗りおって!お前は私を謀っただけでなく、私の前に立ち塞がり、奴隷の分際で意見した罰も受けるべきなのだ!!寧ろ死罪にならなかっただけ、私の慈悲深さに感謝すべきだと分からんかっ!?」
王は癇癪を起こして少年を叩きつけるように言い放つと、その場に立ちあがり、周りに居た兵士たちに「やれ」と少年を顎でしゃくった。
王はそのままこの寂れ枯渇した奴隷区には見合わない豪華な馬車へと足早に歩いて行く中、兵士達は少年の体を羽交い締めにする。
「王様っ!!待って…待ってください!!」
「動くな!!この薄汚い奴隷風情がっ!!」
兵士はそれでも王を呼び止めようと暴れる少年を叱責する。
少年の華奢な身体を後ろから羽交い締めしている兵士とは別の兵士が、少年の前髪を掴んで乱暴に上を向かせると、もう一人の兵士が懐から小型のナイフを取り出した。
ナイフを持った兵士は、少年の前にしゃがみ込むと、ギラギラと奇妙に輝く刃先を少年の右目に向ける。
少年は自分の心臓の音がドクドクと頭の中に直接響くようで、急に嘔吐感が胸に迫り上がってくるのを感じた。
「ぁ。ぁ…っ…ぇ」
もはや逃れられない恐怖と痛みに思考が回らず、口からは言葉にならない意味もない声が溢れ出る。
そして、ナイフの刃先が、
眼球に、触れる。
右の顔の半面が弾け飛んだような激痛に襲われて、脳みそがぐちゃぐちゃになるような衝撃と、視界が真っ白に発光する。
「うわぁぁぁあああああああ!!?」
声帯が破れるような強ばった悲鳴が、喉から跳ね上がる。
真っ赤な血が、乾いた地面にボタボタと音を立てて落ち、血溜まりを作って大きくなって行く––––
何故か、
その血を見ていると、私は酷く昂った。
血溜まりに、私はどうしようも無く引き寄せられ、抗いようのない誘惑の赤に、顔を押し付ける。
生温かい血に、冷え切った身体の細胞が歓喜しているかのように身震いして、妙な安堵感に包まれ、無意識に顔が綻ぶのが分かった。
「ハル」
しかし、突然耳馴染んだ声に名前を呼ばれて、私は血溜まりから顔を上げ、後ろを振り返った。
気がつけば、辺りには自分を取り押さえていた兵士達の姿も、奴隷達の姿もなくなっていて、そこには、見慣れた友人の姿だけがあった。
金髪の髪と、空色の瞳。小柄な身体。
彼女は泣きそうな顔で笑いながら、私を指差しながら言った。
「起きな、馬鹿ハル」
その言葉に、顔をべったりと濡らしていた血の生温かさが急に温度を失って、えずいてしまいそうな程の眼球を抉り取られた右目の痛みが、段々と治っていくのを感じた。
辺りの景色も、まるで白いペンキでも零したかのように、色を失い溶けて行く。
そしてそのペンキは、彼女の身体をも飲み込んでいくのに、私は必死になってその場から立ち上がり、腕を伸ばして叫んだ。
「アニッ…!アニィッ!!!」
しかし、私が伸ばした手は、アニに触れることはなかった。
指先がアニの身体に触れる前に、無情にも視界が白で埋め尽くされると、ぼんやりと何もない世界に、人の掌が浮かび上がってきて、その手がゆっくりと、私の体を捉えようと伸びてくるのが見えた––––
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