第三十八話
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「うっぐ!?」
ハルは急に頭蓋骨の中で脳みそが弾けたような衝撃と頭痛に見舞われて、目眩と不快感にえずき、体を大きくくの字に折り曲げて、胃から這い上がってきた嘔吐感を、右手で口を押さえて耐える。
その瞬間、背中にあった黒白の翼が、蒸気を上げ、段々と氷が火で炙られたように溶け始めた。
アグロは首の後ろにハルの冷たい額が押し付けられ、駆け足を戸惑ったようにたたらを踏んで止めた。
「ハルっ…、しっかり、しろ!」
ハルの身体が大きく傾いで、危うく落馬しかけたところを、後ろに同乗していたミケが両腕で支えた。呼吸を苦しげに荒らげ、項垂れているハルの顔を覗き込んで、あまりの蒼白さに息を呑む。
「っ…ハルっ、お前顔が真っ青だぞ…大丈夫なのかっ?」
「は…っ、ミケさん…、止血、しましょう…」
ハルは顳顬からたらりと冷や汗を流し、口元を押さえた細い指の隙間から、掠れた声を漏らした。
ミケはハルの身体の異様な冷たさを、支えている両腕の兵服越しに感じ、それとは相反してハルの背中から翼が消えた途端に、辺りの冷え込んでいた空気が、ゆっくりと暖かさを取り戻して行くのが分かった。
「俺のことはいいっ、それよりも、お前だハル…!身体が氷のようだぞっ」
ミケは体温を確かめようと、左腕でハルの体を支え、足の傷口の血が僅かに手の甲に付着している右掌で額に触れる。その瞬間に、掌が額に張り付くような冷たさを感じた。
「っ」
すると、ハルは大きく息を呑んで体を強張らせた途端、額に触れているミケの右手首を、口元に添えていた手で反射的に掴んだ。
「ハル…?」
ミケは驚いてハルの顔を見下ろすと、ハルは黒い瞳を小刻みに震わせながら、ミケの顔を見上げ、何かに耐えているような苦しげな表情で言った。
「私がっ、よく無いんです…!っちょうど、向こうに家が見えます。彼処で、一旦…応急処置させてください」
ハルは酷く切羽詰まった声音と口調で、アグロの顔の先の方を目配せしながら言った。其処には一軒の平家があり、多少崩れてはいるようだったが、障害物のない平原で巨人達から身を隠し、一旦体を休めるにはうってつけの場所だった。
ミケもこのまま、足の出血を放置していれば、出血多量で意識を失ってしまう可能性があった。
この状況下では自分だけではなくハルの身にも危険が及んでしまうと、ミケは平家を見やり再びハルの顔を見下ろすと、眉尻を下げて「すまないな…」と謝罪する。
それにハルは「謝らないでください」と首を横に振って、ミケの手首を離し、再びアグロの手綱を握り直して、平家へと向かった。
ハルは平家の傍の広葉樹の横でアグロから降りると、手綱をその木の幹に括り付け、鞍のポシェットから医療キットの入った袋を取り出して肩に掛けた。
「ミケさん、降りられそうですか?」
「ああ。…っぐ」
ハルが差し出してくれた手を取って、ミケは頷き、慎重に鞍から降りる。しかし、足を地についた瞬間傷口に激痛が走って、呻き声を上げながら倒れそうになったミケの体を、ハルがすかさずミケの脇に肩を入れて支えに入る。
「痛い…ですよねっ…頑張ってください」
「いや、すまん…助かる」
ミケは自分事のように顔を顰めて言うハルに、相変わらずお人好しだと内心で苦笑しながら、礼を言った。
ハルはミケの足に極力負担が掛からないよう注意しながら、扉が開け放たれている平家の中へと足を進めた。
平家の中は彼方此方に蜘蛛の巣が張り、荒れてはいたが、腰を下ろせそうな頃合いのソファーを見つけて、ハルはそっとミケを座らせた。
ミケは漸く緊張の糸を緩められた様子で、ソファーの背凭れに背中を押し付け、埃で白くなっている板張りの天井を仰ぎ、深く息を吐き出すと、それからスンと鼻を鳴らした。
「…獣の巨人達が、こっちを追いかけてくる気配はないな…?」
それにハルは「はい」と頷き、此方に向かってくる巨人の足音がしないことから、一旦ベルトから立体起動装置を外し、ミケの応急処置をしやすいよう身軽になると、肩に掛けていた医療キットを足元に置き、ミケの前で両膝をついた。
「…むしろ、あの獣の巨人達は此方から遠ざかっているようです。一体、どういうつもりなのかは分かりませんが、何はともあれ、今の状況では…助かりました。ミケさん、これから応急処置に入りますね?痛んだら、すみません」
ハルが緊張した様子でミケを見上げて言うと、「それは気にするな」とミケはハルが気兼ねしないよう笑ってみせる。そんなミケに、ハルも頬に浮かんでいた緊張を僅かに緩め微笑みを返すと、医療キットから消毒液とハサミを取り出した。
ハルはハサミの刃を消毒し、ミケの両足のブーツを傷が痛まないよう慎重に脱がすと、脚部のベルトを外し、ズボンを裾から患部の膝上まで切って行く。すると、痛々しい巨人に噛みつかれた傷口が露わになって、ハルの眉間に皺が寄る。それは無意識だったが、ミケはそんなハルの顔を見下ろしながら、いつものミケらしくない、少し力の抜けた声音で言った。
「ハル…すまなかったな」
「…何が、ですか」
ハルはミケの謝罪に、傷口に消毒液をかけながら問い返すと、ミケは痛みに喉を引き攣らせながらも言葉を連ねる。
「っ上官、としてっ、情けない…。お前は勇敢にあの獣の巨人に立ち向かっていたのに、俺は、何も出来なかったからな…」
ハルはミケの血が混ざった消毒液を拭き取り、医療キットから大きめのガーゼと包帯を取り出すと、皮膚を抉られている患部を押さえ、キツめに包帯を巻きつけながら言う。
「何もしていないだなんて、そんなことありませんよっ。…ミケさんは、私のことを、命をかけてまで救おうとしてくれた……そんなミケさんが傍に居てくれたから、あんな状況でも、恐怖に立ち向かうことが出来たんです。…一人じゃ怖くて、きっとどうにもなりませんでしたよっ」
「…ハル…」
ハルは右足の傷に包帯を巻き終え、端をギュッと縛ると、すぐさま左足の応急処置に移った。
「それに、謝るべきは私の方です。ミケさんの命令に、私は従わなかった。それは大きな、違反行為です」
「っ、だとすれば…俺も同罪だ」
左足にかけられた消毒液がしみて、ミケは再び息を詰めたが、先程の右足の痛みで少し慣れたのか、痛みは少しばかりマシに感じた。
ミケは生理的に額に滲んできた脂汗を、兵服の袖で拭いながら言ったのに、ハルはミケの足の消毒液を拭いながら、ミケの顔を見上げた。
「どうしてですか?」
ミケは困惑顔のハルを、真摯な眼差しで見下ろしながら言った。
「兵士としてなすべき事よりも、俺は私情を優先した。命を掛けて、人類のために命を投げ打つことではなく、生き残ることを…生き残って、お前が切り開く未来を、見てみたいと…そう思った。…俺の長年の思いを、誓いを、打ち砕いたお前ならきっと、この世界を変えられる。…そんな、予感がした–−–−」
「…ミケ…さん」
ハルには、ミケの評価は己には過大だと感じたが、そうだとしても、命を投げ打つ事ではなく、生きる道を選ぶきっかけを作る事が出来たのなら良かったと、内心ではほっとしながら、ミケの左足に包帯を巻き始めた。
「だが、ハル。俺はその未知の力を間近で見て確信したことが一つある」
そんな中、ミケは声音を穏やかなものから真剣なものに変えて、ハルの小さな旋毛を見下ろしながら言った。
「その力は俺たちにとってかなり貴重で、ウォール・マリア奪還にも大きく役立つものだろう。…だが、闇雲に使うべき力じゃない」
「…」
「それは、お前が一番分かっているんだろうが…。お前の翼は、お前の命を糧にしているように、俺には見えていた。…実際、どうなんだ?」
ハルはミケの包帯の端を処理し終えると、鋏や消毒液を医療キットの中にしまい込みながら、何処か他人の話をするような口調で、言う。
「…ミケさんが言うように、翼が生えている間…何だか体の血が、体温が、背の翼に吸い上げられて行くような感覚がありました。それから、ある一定の時間が経って突然、身体に激しい倦怠感が襲いかかって来て……それで、」
酷く、喉が渇いて。
そう言葉を連ねようとした時、ハルは、ミケの血が両手に付着している事に今更になって気がついて、目を見開いた。
視線が、その鮮やかな赤に縫いとめられ、両目の瞳孔が無理矢理抉じ開けられていくような感覚に、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ハル…?」
ミケは自分の両手を見下ろし、口を閉ざしてしまったハルを怪訝に思って声をかけると、ハルはハッとしたように肩を跳ね上げ、ゆっくりと顔を上げる。
「い、いえ…その、兎に角、身体から血の気が、引くというか…段々と凍りついて行くような感覚があったのは、確かです」
必死に取り繕っているかのような、強張ったハルの表情に、ミケは違和感を覚えたが、その違和感の理由を見出すには至らなかった。
「…だろうな。青白いを通り越して、顔が白いぞ…」
ミケは蒼白なハルの顔を、気遣うように目を細めて見つめながら言うと、ハルは苦笑を浮かべ、肩を竦めた。
「それは、お互い様では?」
「いや、俺の方がだいぶマシだろう」
「ご自分の顔も見ていないのに、ですか?」
ハルは根拠もなく言い張るミケがおかしくて、くつりと喉を鳴らすようにして笑い、首を傾げる。それから、しまい込んだ医療キットの袋を手にして、その場から立ち上がった。
「ハル、面倒かけたな…助かった。ありがとうな」
そんなハルを見上げてミケは礼を言うと、ハルは「気にしないでください」と首を横に振って見せる。
「これくらいお安い御用ですよ。ミケさんは少し、此処で休んでいてください。私はアグロに水を飲ませてきますから」
そう言ったハルにミケは「ああ」と頷くと、ハルは平家を出てアグロの元へと向かい、足元の草を齧っていたアグロの鞍のポシェットに、医療キットをしまいながら疲労を滲ませた声音でぽつりと呟く。
「喉…乾いた…それに、少し寒い…」
季節は初夏で、寒い筈もないのに、まるで身体が、真冬の外に投げ出されたみたいに冷え切っている。それに、先程からずっと、妙な喉の渇きが、段々と酷くなって来ていた。
ハルは渇いた喉を潤そうと、ポシェットから水筒を取り出し、口に流し込む。
しかし、全く渇きが治らない。
「…っ全然、変わらないや…一体なんなんだろ、この感覚は…」
ハルは溜息混じりに溢すと、水筒を握っていない、左の掌を見た。
薄暗い平家から出たせいか、先ほどよりも、ミケの血が鮮やかで眩しく見える。
まるで、高価な宝石のように輝く赤に、ハルの意識は根刮ぎ奪い取られ、辺りの風の音や、アグロの息遣いが段々と遠くなって行く。
頭の芯がぼうっと熱を持ち始め、喉の奥が震え、口の中に唾液が滲み出す…––––
「ブルル!!」
「っ!?」
すると、不意に耳元でアグロが大きく鼻を鳴らして、ハルははっと我に返り、体をびくりと強張らせた。
不自然に赤に染め上げられていた視界が広がり、世界が音と奥行きを取り戻す。
そうしてハルは、いつの間にか自分が、左の掌に口を寄せて、付着している血を舌で舐め上げようとしていたことに気付く。
「(何やってるんだっ!?)」
自分が無意識の内にしようとしていた、人間離れしている行動に愕然として、ハルは慌てて血が付着している両手を、水筒の水で洗い流した。
びしゃびしゃと、雑草が生えた地面に、血を含んだ水が落ちて行く。
自分自身が何だか無性に怖くなって、不安が胸に蔓延り、酷く頭痛がし始める。
そんなハルの項垂れている頬に、不安げにアグロが顔を擦り寄せて来た。
「ブルル…」
「っアグロ…ごめん。不安にさせちゃったね……ありがとう。もう大丈夫だよ。ほら、水飲んで…」
ハルは自分を引き戻してくれたアグロに感謝をしながら、血を洗い流した両手に水筒の水を乗せ、アグロに差し出した。
アグロも喉が渇いていた様子で、大きな舌で一心不乱に水を飲む。水筒に残っていた水は全てアグロに与え、ハルは南の空に上がっていた太陽が、段々と傾く気配を滲ませる空を見上げながら、先程のことは忘れてしまおうと、これから為すべきことを考えることに集中した。
「(夕暮れ時になる前には、ゲルガーさん達と合流して、獣の巨人のことを伝えないと……それに、アグロも大分疲れてる……あまり期待は出来ないけれど、何処かの村で馬も調達して、アグロとミケさんはシーナに戻って、休息と治療を受けないと駄目だろうし…)」
しかし、頭を回せばそれだけ頭痛が悪化して、ハルは空を仰いでいた目を、痛みに耐えるようにギュッと押し瞑って、下唇を噛んだ。
「ハル」
すると、背後から名前を呼ばれて、ハルは振り返ると、そこには壁を伝って自力で歩いて来たミケが立っていた。
「っ!?ミケさんっ、一人で動かないでください!」
ハルは無茶をするミケの元に慌てて駆け寄り、体を支える。しかし、ミケは「平気だ」と首を振り、ハルの両肩を掴んで、神妙な面持ちで言った。
「あまり、暢んびりもして居られない。日が沈み始める前には、ゲルガー達と合流しなければいけないからな。…恐らく、ここから一番近いのはラガコ村だ。運が良ければ、そこで合流出来るかもしれない」
「ラガコ村…確か、コニーの故郷だったような…」
ハルは聞き覚えのある村の名前に、南西の方へと視線を向けながら呟く。…と、ミケはそんなハルの肩に、自身の兵服の上着を脱いで掛けた。
「…ミケさん?」
ハルは視線をミケに向け首を傾げると、ミケは少しハルから目線を逸らしながら、言いにくそうに肩を竦める。
「翼が生えたせいで、お前のシャツと上着の背中に、穴が空いてる」
「!っ、すみません、気づきませんでした…ありがとうございます」
ミケに言われるまで気づかず、ハルは少し恥ずかしくなって頭を下げると、ミケはそんなハルの頭の上に大きな手をポンと乗せて、微笑みながら問い掛けた。
「俺はもう出られるが、お前は平気か?」
それに、ハルは気を引き締めるように一度大きく深呼吸をした後、ミケを真っ直ぐに見据えて頷いた。
「はい…!…行きましょう!」
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