第二十六話
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調査兵団本部から兵舎までは左程遠くもなかったが、ミケは初めての場所で知らないことも多いだろうと、本部周辺の施設について軽く説明を混じえながらハルを一般兵舎前まで送り届けてくれた。
南駐屯地の訓練兵団兵舎と違って、寮と食堂は一体型になっており、西棟と東棟で男女の寮が分かれているらしい。訓練施設の規模も、暗がりで見ただけだけでも倍の広さがあるということが分かった。
ハルは兵舎前までミケに抱きかかえられたまま、結局下ろしてはもらえ無かったが、遅い時間にも関わらず体調を気にかけ送り届けてくれたミケに礼を言うと、ミケは「早めに寝ろよ」とだけ言い残し、ひらひらと片手を振りながら幹部兵舎の方へと戻って行った。
ハルはミケの背中が闇夜に見えなくなるまで見送ると、踵を返して兵舎の開扉のノブを掴んだ。
「…」
しかしそのまま扉を開いて、兵舎の中へと足を踏み入れることが出来なかったのは、此処を潜った先に居る、大切な仲間達に、これから嘘を重ねて行かなければならないのだということが、心に重く伸し掛かってきたからだった。
それに、エルヴィン団長から心臓が人のモノでは無くなっているのだと聞かされてから、以前の自分と今の自分が、大きく変わってしまったような気がしてならなかった。
意識を取り戻してから聞かされた多くの出来事を、頭の中で処理することに必死で、自分の身体のことに気を回すことが出来ずに居たけれど、今一人になって漸く、気が付いたことがある。
それはまず、耳が以前よりも良くなっているということだった。今、扉の向こうにある食堂で、一体誰が居て、何を話しているのか、ハルにはとても明瞭に聞き取ることが出来ていた。
何よりも大きく変わってしまったことは、心臓のある左胸に、ぽっかりと大きな穴が空いて、まだ春の肌寒い夜風が吹き抜けていくような…自分自身が、人であるということを確かに肯定できる、とても大切なものを、失ってしまっているのだという感覚が、確かにあるということだった。
ハルはそれが何もよりも悲しく、恐ろしいことだと思えて、ドアノブを掴んでいた手に力が篭った。
今、この扉の開けた先に居る、大切で、大好きな友人達に、今の自分を晒す事が、怖かった。
ジャンとフロック以外の同期達は誰も、ハルの身体のことを知らない。出来ることなら永遠に、知って欲しくない。そう思った。また幼い頃のように、アイツは異物だとと後ろ指を刺されて、拒絶されることが、怖くて堪らなかった。
ハルはドアノブを掴んだまま、重たい息を吐き出して、目の前の扉に額を押し付けた。
そうすると、扉の向こうから聞こえてくるサシャ達の声が、空っぽになった心に響いて、会いたいと思うのに、顔を見たいと思うのに、その気持ちを乗り越える感情が、ドアノブを引いて仲間の元へと向かうことを、許さなかった。
「…私はもう、人間じゃ…ない…」
ハルは無意識に口から溢れ出した言葉が、呪いのように頭に響いて、身体に纏わりつくような気がした。
––––そんな時だった。
「おい、其処の馬鹿」
不意に背後から声を掛けられて、ハルは弾かれるようにして後ろを振り返った。
「!?…ユ、ユミル」
其処にはランタンを持った、ユミルの姿があった。
どうやら兵舎周辺の警備帰りだったようで、手にしていたランタンを顔の高さまで持ち上げたユミルが、橙色の灯火に照らされた顔を、怪訝そうに傾げた。
「…お前、怪我はもう良くなったのか?」
「う、うんっ…!お陰様で…心配かけて、ごめんね」
まだ友人と顔を合わせる心の準備を整えていなかったハルは、歯切れの悪い返事をして、それは引き攣った笑みを口元に浮かべる。それをユミルが変だと思わないわけもなく、怪訝な表情をさらに顰めて、ハルの方へと歩み寄った。
「別に心配なんてしちゃいねぇけどよ……っつーか、そんなところで突っ立って、一体何してんだよ?寒ぃんだから、早く中に入れよな?」
「い、いや…」
ユミルの心を内を探ろうとするような眼光と視線に、ハルは両足の踵と背中を扉に押し付けた。背中で木造の扉が、ギシリと軋む音が鳴る。
ユミルは挙動不審且つ自分と目を合わせようとしないハルの前で足を止めると、ランタンをハルの顔の横に寄せた。
その蝋燭の灯火が眩しくて、ハルは首を竦めて目を眇めると、ユミルはハルの顔を凝視したまま、呟くような声で言った。
「お前、何か…顔色悪くねぇか?」
その言葉に、ハルはじわりと首筋に冷や汗を滲ませて、うろうろと黒目を泳がせながら、視線を足元に落とした。
「え…あ、そうかな?別に、いつも通りじゃっ」
「…」
ハルを知らない誰が見たところで、様子がおかしいということは最早明白だったが、ユミルにはハルが何か隠し事をしているという所まで見抜いていた。
「お前…」
何隠してるんだ。
そう、ユミルが問いかけようとした時だった。
ガチャッ
突然、ハルが寄りかかっていた扉が開いた。
「うわぁあっ!?」
体重を全て扉に寄せていたハルは、バランスを崩してそのまま後方に倒れ込み、思い切り背中と後頭部を床に打ちつけた。
「え!?何!?ハル?!ごっ、ごめんまさか扉に寄りかかってるなんて思ってなくて!」
クリスタは扉を開けたことで倒れ込んできた人物に驚き、慌てふためきながら床に仰向けに倒れたハルを抱え起こす。
「ハル大丈夫?!」
「だっ、大丈夫だよクリスタ…いててっ」
心配顔で顔を覗き込んでくるクリスタに、ハルは大丈夫だと微笑みながら打ちつけた後頭部を摩っていると、玄関のすぐ横にある部屋の扉が開いて、其処からサシャとコニーがひょこっと顔を出した。
「あああ!!ハル!?やっと帰ってきたんですね!?」
「おお!?退院できたんだな!?」
二人はハルの顔を見るや否や傍へと駆け寄ると、サシャはハルの首元に抱きつき、コニーはバシバシとハルの背中を打楽器のように叩いた。
「ハル?!体はもう大丈夫なんですか!?病院の場所も教えてもらえなくて、面会も謝絶だって言われてっ!もう心配で心配でぇええ!!」
「マジでずっと心配してたんだぜ!?巨人に掴まれて投げ出されたって聞いて、その後のこと知ってる奴全然居なくてよっ…!マジで、マジで良かった!!」
「サシャ、コニー…本当にごめんよ、心配沢山、かけちゃったね…っゲホ」
サシャにグラグラと体を激しく揺さぶられ、コニーに背中を強打され続け思わずむせ返りながらも、二人の気持ちが嬉しくてハルは馬車酔いのようになりながらも微笑んでいると、次にサシャ達が出てきた部屋から現れたのはライナーとベルトルトだった。
「ハルっ…!」
「ライナー、ベルトルト…!」
ハルは二人の顔を何だかとても久しぶりに見たような気がした。ライナーはホッとしたように微笑んだハルの顔を見ると、ぐっと唇を噛み締め、それからハルの元へと駆け寄ると、近くに居たサシャとコニーごとハルを抱き締めた。
「お前っ!!本当に心配したんぞっ!!一体今まで何処に居たんだっ!?」
「ぐえええ、ライナー!!顔が近ぇよ!!俺とサシャを巻き込むなよっ!!」
「ひぃぃいいい!!苦しい!!死ぬっ!!」
しかしライナーは構わず抱きしめる力を強めるので、三人とも窒息しそうになっていると、ベルトルトは「ライナー、許してくれ」と言いながら、ライナーの首にドスッと手刀を入れた。
するとライナーは、バタンと立てていた本が倒れた時のように意識を失い床に転がった。
ベルトルトは白目を剥いて倒れているライナーを気にする様子も無く、ハルの傍に片膝をついて、眉を八の字にして顔を覗き込んだ。
「ハル…大丈夫なの?今は、どこか悪いところはない?」
「う、うん。大丈夫だよ。少なくとも、ライナーよりは元気だ…」
それにベルトルトは「手加減したから大丈夫」と笑って、床で伸びているライナーの脇に腕を入れて引きずって行くのを、顔を引き攣らせながら見送っていると、次にはアルミンとミカサが部屋から現れ、ベルトルトに引きずられて行くライナーを見て「何があったの?」と困惑した。
ベルトルトは二人に「いろいろあって…、ハルが
病院から戻ってきたんだよ」とハルの方へと視線を向けて言うと、二人はハルの方を見てホッと胸を撫で下ろしたように表情を綻ばせた。
「ハル!良かった!戻って来れたんだね!?」
「すごく…本当にすごく、心配していた…!」
駆け寄って来た二人はハルに怪我がないか確認しながら、笑顔を向けてくれるので、ハルも二人の優しさに嬉しくなって、表情を和らげた。
ハルは戻って来てから仲間達に揉みくちゃにされっぱなしだったが、久しぶりに皆の顔を見ることが出来て、声も聞くことが出来て、いつものように変わらず接してくれていることに、安堵と喜びを感じていた。
しかし、それと比例するように、罪悪感が胸に擡げて来る。
「皆…、本当にごめん」
ハルはそう言って唇を噛むと、皆に向き直り、そして膝に両手を乗せると、深々と頭を下げた。
「トロスト区が襲撃されてから、皆が巨人の掃討作戦で戦っている間も…、行方不明者の捜索をしている間も、私はずっと気を失って…眠ったままで、何も力になって、あげられなかった。…皆の火葬にも出られなくて…本当に、本当にごめんっ…!」
「ハル…」
言葉を噛み締めるように吐き出して、床に手をつき額を押し付けるハルに、ミカサは痛んだ胸元をギュッと握り締めた。
「そんなのっ、俺たちは気にしてねぇよ!だってお前のお陰で、巨人の誘導作戦は上手く行った訳だし、奇行種の討伐だって殆どお前に任せきりだったんだぜ?」
コニーは首を振って、頭を下げるハルの肩を掴んだ。それにアルミンも頷く。
「そうだよ!ハルは巨人が入ってきてからずっと駆け回りっぱなしだったんだから、少しくらい休んだって、誰も文句なんか言わないよ」
「…っごめん」
優しく声をかけてくれる仲間の気持ちが有り難いのと、自分の不甲斐なさが入り混じり、胸が苦しくなって再びハルは喘ぐように謝罪をする。
それに、ユミルは手にしていたランタンの灯を吹き消して、玄関の棚に戻しながら問いかける。
「お前さ、…マルコのこと…、知ってるのか?」
その問いに、ハルは一瞬身を強張らせ、額を床からゆっくりと引き離しながら頷いた。
「…うん。…聞いてるよ…」
「…そっか。…知ってたんだね」
それに、クリスタが風に木の葉が掠れるように、短く呟いた。僅かに俯けられた目元には、悲しみや痛みの影が浮かんでいる。
「私達のことよりも… ハルの方が心配ですよ」
サシャはハルのことを案じ、どこか不安げに見つめながら言った。
「私たちは、行方不明者の捜索と…火葬で、皆との別れも、気持ちの区切りも、少しは出来ましたけど… ハルは、その機会がなかったですから…」
ハルはサシャの言葉に、ゆっくりと一度瞬きをして、自身の心の内を整理するように、浅く息を吐き出した。
それでも、覗いた心は酷く鬱蒼としていることに気がついて、ハルは自身の左胸に右手を押し当て、虚しさの塊を砕こうと、シャツを巻き込みながら握りしめた。
その手が酷く震えていることに、傍に居たクリスタは気づいていた。
「…そう、だね。…皆とお別れ…ちゃんと出来てないし、気持ちの区切りだって…今出来てるのかって聞かれると、良く分からない。…だけど、」
ハルは握りしめていた胸元から手を離すと、その掌を見下ろす。其処には何もなかったが、ハルにはまるで掌に、欲しいと焦がれ続けていたものが、見えているかのようだった。
「私たちの時間は、ずっと進み続けていくから…立ち止まったままじゃ、何も変えられないんだ」
そしてその掌を握りしめると、周りに居る仲間達の顔を一人一人見ながら言った。
「私…さ、皆が調査兵団に入ったって話を聞いて、その時はどうしてって…思ったんだ。あんな辛くて恐ろしい経験をしたのにもかかわらず、どうしてまた巨人と戦う道を…選んだんだろうって。でもさ…皆の顔見たら、何と無くだけど、分かった気がするんだ」
そして、ハルは傍に屈んでいたコニーの着ている兵服の、腕についた刃のエンブレルムに触れる。
「皆は、死んでいった仲間達の思いを代わりに背負って…引き継いで、前に進んで行こうとしてる。命を掛けてでも、皆が守りたかったもの…そして自分の守りたいものを守るために、その道を自分の意思で…選んで、進み始めているんだって…」
「!」
ハルの言葉にコニーは丸い瞳を大きく見開いて、それから唇を噛み締めた。それに、ハルはコニーの肩を叩いて、その場に立ち上がる。
「皆がもう、足を踏み出してるのに…私だけ立ち止まってなんて、居られないよ」
そうして仲間達の顔を見据えて言った。
「私もみんなと一緒に、進んで、…いきたいから」
ハルの言葉に、アルミン達は顔を見合わせると、ほっとしたような、どこか胸の中に薄くかかっていた霧が晴れるような思いで、笑い合った。
そしてサシャが、パンと胸の前で手を叩くと、明るい声を弾ませて、如何にも彼女らしい台詞を言った。
「だったらまずは、腹ごしらえ!ですね!」
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