第三十六話
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「っ…なぁ、ハル––––このまま、もう少しゆっくりしてようぜ…?会議まで、まだ時間もある。それに、昨日は無理させちまったから、疲れてるだろ…?」
ハルは優しく問いかけてくるジャンの胸元で「…うん」と小さく頷くと、ジャンの背中に腕を回し、独り言のように呟いた。
「…何だか今、とても…贅沢をしている気分だ…」
「…贅沢って?」
ジャンは腕の中のハルの旋毛を見下ろして問いかけると、ハルはゆっくりとジャンを見上げて、柔らかな微笑みを浮かべた。
「朝、目が覚めたら、君が傍に居て…こうやってのんびり出来て……生きているって、本当に…幸せ、だ…」
「…ハル…」
ハルはジャンの逞しい胸元に自分の額を押し当て、力強い心臓の鼓動が伝わってくるのを感じながら、両目を静かに閉じる。
「生きることなんて、辛いことの方が良い事よりもずっと多くて……正直もう駄目だって何度も思って来たけれど…。私……君と、こうやって過ごす為に生まれて来たのかも…しれない。生きる意味とか、価値とか、理由とか…そんなことばかり考えてしまう世の中だけれど、本当はそんなこと、どうでもいいことで……、ただ、こういう瞬間を得るために…今みたいな景色を…見るためだけに……生きているんじゃないかって…––––そう思うことは、我儘なこと、なのかな…?」
ハルはそう言って、泣き笑いのような表情をジャンに向けた。
長く柔らかな睫毛の下にある澄んだ黒い双眸に、自分の顔が鏡のように写っているのが見える。
ハルの瞳を見る度、自分はどうしようもなく心を鷲掴まれたように惹きつけられてしまう。
それは魔法のように、あるいは呪いのようにさえ思えてしまう程に、魂が焼けるような、熱く強い熱情をジャンの胸の内に生み出した。
「…そんなことねぇよ」
ジャンはハルの顔を切なげに見つめながら、肺を満たす熱い空気を吐き出すようにして答えると、ハルの体を抱き寄せる両腕に力を込めた。
「––––俺もずっと、なんでこんな世界に生まれて来ちまったんだろうって…思ってた。巨人も居ねぇ、壁も無い、そんな世界に生まれてたら、もっと楽に生きて居られたかもしれねぇのに…。…まだ、ガキのままで、居られたかもしれねぇのにって、な…––––…でも、俺がこの世界に生まれて来なかったら、今まで選んで来た選択の、どれか一つでも違う道を進んでいたとしたら……お前に出会うことすら、なかったかもしれねぇんだよな…?」
「っ」
ジャンは琥珀の瞳をすっと細めて、自分を切なげに見上げるハルの左頬に右手の指先で触れ撫で下ろしながら、小さな顎を掴み僅かに持ち上げると、ハルの額に、彼女の温もりを確かめるようにして自分の額を合わせた。
「そう考えたら、俺が今までして来たことってのは、強ち間違ってもいなかったんじゃねぇかって…そう、思える。っつーか、褒めてやりてぇくらいだ」
お互いの睫毛が触れ合うほどに近くで煌めく琥珀の瞳が喜色の光を煌めかせ、蒼黒の瞳はその光に魅入られ、風に吹かれた木の葉のように揺れる。
「お前無しじゃ生きて行けない俺が…お前が居ない世界で、一体どうやって生きてんだろうな…?」
そう言ったジャンに、ハルは瞳を大きく一度瞬くと、ジャンの頬にそっと両手を添え、肩を竦めて笑った。
「君は変わらないよ」
その声には、春の日溜りのような温かさと、泣きたくなるような優しい響きがあった。
「私が居ても、居なくても…君はきっと、君のままだ」
ハルはそう言って、ジャンの頬を慈しむように親指でそっと撫でる。
「…優しくて、不器用で、でも本当は誰よりも真っ直ぐで…、人の弱さに寄り添って、足を踏み出せずに居る人を、決して見捨てたりしない。…仲間と手を取り合って、そうやって未来に向かって歩んで行く。…そんな、君のまま––––…ただ其処に、私が居ないだけだ」
ハルはどこか寂しげに、それでも優しく微笑んで言う。
「っ」
その優しさがありがたくて、嬉しいと思う反面、どこか繋いでいた手を離された時のような孤独や不安も感じて、ジャンは追い縋るように自分の頬に触れるハルの両手の細い手首を掴んだ。
「それは、違う」
ジャンはハルに打ち込むような口調で否定する。
「お前から貰ったものは、数え切れない程沢山あるんだ。…だから、お前が居ない俺には、お前が今言ってくれた中の、どれかが欠けちまってる…そんな気がする。だから俺は、お前が傍に居てくれたことで、俺自身のことを、その分だけ好きで居られてる気がする。…それに、俺のこれからも、何かがきっと、変わって行くんじゃねぇかって、気もしてるんだ」
ハルが傍にいる自分と、居ない自分が、何も変わらないことなど、ジャンには有り得ないことに思えた。
ジャンにとってハルは、心臓そのものであり、この残酷で真っ暗な世界ですら、美しく輝かせてくれる光のような存在だった。ハルが傍に居てくれればそれだけで、ジャンは自分が進むべき道を、見失わずに居られるのだと、そう自負していた。
それ程までに、ハルの存在は、ジャンの中では大きなものになっているのだった。
「ありがとな…ハル。いつも俺のことを、支えてくれて」
「私は何もしていないよ…」
「生きてくれてるだけでいいんだ」
「え…?」
その言葉に、ハルは不意打ちを喰らったように目を丸くして、息を呑んだ。
「それだけで、俺は救われてる。お前に、生かされてる」
ジャンはハルにそう優しく微笑みかけると、ハルは喉の奥が喜びで震えて、両目が熱くなるのを感じながら、微笑みを返す。
すると、涙の膜が張っていた両目から、ポロリと雫が落ちて、ジャンの胸元を濡らした。
「支えてくれているのは君だよっ…ジャン…」
震えた声で泣くハルの涙を指先で拭いながら、ジャンは薄いハルの目蓋にそっとキスをする。
「…じゃあ俺たちは、お互いに必要不可欠な存在だって…そーいうこと、なんだよ。きっと…な––––?」
ジャンはハルを慰めるような穏やかな口調でそっと囁くと、ハルは優しく自分の顔に触れているジャンの骨張った手に自身の手を重ね、その温もりを感じながら、とても嬉しそうに、そして幸せそうに笑いながら言った。
「…うん。…それってとても、素敵なことだ…!」
そんなハルの言葉が、声が、微笑みが、ジャンの生きる残酷な世界を、優しく色付ける。
「っ…ああ、そうだな…––––」
ジャンはそんな存在が自分の傍に居てくれる幸せを噛み締めるようにして頷くと、ハルの華奢な体を抱き寄せ、小さく柔らかな唇にそっとキスをした。
第三十六話 生命の翼
ハルが傍に居てくれれば、他にもう何もいらない。
いくらこの世界が残酷に、暗く深い闇に落ちたとしても、もう二度と、太陽が空に昇らなくなってしまったのだとしても…––––
ハルが傍に居れば、世界は美しく、温かく光り輝くのだということを、自分はもう知ったのだから––––この世界を生きる強さを、意味を、幸せを、得ることが出来たのだから。
完