第三十六話
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夕暮れ時––––蝉時雨が降り注ぐ中、小さな川の土手で駆け回るまだ幼い二人の少年を、彼らよりも少し大人びた顔立ちをしている少女が、草花生い茂る堤防敷に膝を立てて座り、特に何をするでも無くただ見守っていた。
トロスト区育ちの自分には見覚えのない場所である筈なのに、目の前に広がる河原や河川敷の景色は、不思議とジャンを長く離れていた故郷に戻ってきた時のような、そんな懐かしい気持ちにさせた。
川風に柔らかな黒髪をふわりふわりと揺らしながら、呂色の瞳を優しげに細め、穏やかな微笑みをたたえている少女の口元には、小さな黒子が一つ浮かんでいる。
そこで漸く、ジャンは夢を見ているのだということに気がついた。
否…、これは夢ではなく、ハルの記憶の中という方が、正しいのかもしれない…
何故なら、目の前に広がる景色も、足が土草を踏む感触も、夕風が頬を撫でる感覚も、その風が運んでくる夏の薫りすら、何もかもが現実であるかのように鮮明だったからだ。
ジャンは和やかな川のせせらぎと、鳥の囀りに耳を傾けながら、目線の先に三角座りで座る、幼いハルの元へと歩み寄り、傍で片膝を付いた。
「ハル」
あどけないハルの横顔に、呼び掛けてみる。
もしも此処が彼女の記憶の中だというなら、自分の声にハルが答えることはないだろうと思っていたのだが、意外にも、ハルは反応を示し、黒く子供らしい大きな瞳を丸くして、驚いた顔を向けた。
「ぇ…あれ?お兄さんいつの間に…、全然、気づかなかったです」
自分が知っているハルよりも、ずっと幼い顔立ちをしているというのに、話し方は今とあまり変わりが無く、落ち着いた年端に合わない穏やかな口調のハルに、ジャンは思わず笑ってしまう。
「此処で、何してるんだ?」
「ぇ?…何って…」
ジャンの問いかけに、ハルは初対面で急に声を掛けて来た相手に対して、やや警戒している様子で眉間に眉先を寄せて見せた。
しかし、ハルは穏やかな微笑みを向けてくる深緑のシャツを纏ったジャンに対して、不思議と彼が自分や弟達に危害を与える存在だとは感じられず、再び視線を弟達の方へと向けると、立てていた膝に口元を埋めるようにして呟いた。
「…何…してるんだろ。…ただ、弟達のこと、見てただけです。…特に、何かしてる訳じゃない」
短い前髪と細い膝の間に浮かぶ、弟達を見つめる黒い瞳は慈愛に満ち溢れ、夏夕空に浮かぶ夕日を反射してきらきらと輝く川面の光を、細められた瞳の中に揺らしている。
ジャンはそんなハルの横顔を優しげに見つめながら、片膝を地面から持ち上げ、ハルの隣に並ぶようにして河川敷に腰を落とし座り直す。
「…その割には、ずいぶん嬉しそうな顔、してたけどな」
それに、ハルは視線だけを隣に座ったジャンに向けて問い返してくる。
「…そんな顔、していました…?」
「ああ、してたな」
ジャンは頷き返すと、ハルは膝に埋めていた頤を上げて、河原を駆け回り、楽しげに戯れている弟達を見つめながら、少し照れ臭そうに肩を竦めて笑った。
「…じゃあ無意識に、自分がやりたいこと、やっていたのかもしれませんね…」
「ぁあ、かもな」
ハルとは違って、弟二人は黒髪黒目ではなく、金髪と空色の瞳をしていた。
東洋人であった父親の方ではなく、母親に似た二人の、背が高く活発そうな、恐らく兄であるヒロと、兄よりは少し小柄で、線の細い方が弟のユウキだとということは、ハルが以前家族の話をしてくれていた事があったので、何となく察することが出来た。弟のユウキの方は少し、アルミンに似ているようにも見える。
ヒロとユウキは纏う服が砂や泥まみれになることを厭わずに、地面に転がって取っ組み合ったり、川の浅瀬を駆け回ったり、その最中に物珍しい生き物でも見つけたのか、急に二人で追い駆け回したりしている。
無邪気な二人のことを見ていると、パルシェやフィンの姿とも重なって、面白げに眺めているジャンの横顔を、いつの間にやらまじまじと見つめていたハルが、怪訝そうな顔で問い掛けてきた。
「…お兄さん、この辺じゃあまり見かけない人ですよね?シガンシナのこんな街外れに…お仕事ですか?」
「いや…俺は…。ま、…まあ、そんなところだ」
ジャンは返答に困りながら、首の後ろを触って苦笑を浮かべると、ハルは小首を傾げる。
「どんなお仕事、してるんですか?」
「…調査兵団の兵士だ」
ジャンには何と無く口にしていいものなのかと憚られたが、他に見合った答えも見つからず正直に答えると、ハルは黒い瞳を大きく瞬いた。
「調査兵団って…壁の外に出て、巨人と戦う…?」
「ああ、そうだ」
ジャンは川が流れ続いていく先に高々と聳えている南の壁に視線を向けながら頷くと、ハルは少し悲しげな面持ちになって、徐に立てている膝を両腕で抱え、視線を履いている革靴の先へ落とした。
「壁の外に出る事は……怖く、ないですか?」
「……」
不安げな声音でジャンに問いかけたハルは、足先に落とした視線を、河原を駆け回る弟たちへ向ける。
そんなハルの横顔を、ジャンは少し驚いた顔で見下ろした。
「…大事な人達と、離れ離れになってしまうかもしれないのに––––」
そう言ったハルの哀愁漂う横顔も、口振りだけに限らず、やはり随分と大人びて見えてしまう。
その顔に浮かべられる表情も声音も、まるで大事な人を失う辛さや悲しみを、ハルは既に理解しているかのような…そんな達観したものにも見え、聞こえる。
ジャンはふと、ハルが幼い頃、自分は歳の近い周りの子供達とは少し違っていたのだという話をしてくれた時のことを思い出した。
大抵のことは一度教えられれば難無くこなせてしまい、教えられていないことですらも、以前から知っていたことのように、幼いハルはまるで誰かから記憶を引き継いでいるかのように理解することが出来たのだ。
恐らくハルはそれと同じ原理で、既に誰かを失う記憶を、もう何度も見てきていたのかもしれない。…そうでなくては、こんなに幼い子供が、死という漠然としたものに対して、こうまで明白な怯えを露わにすることはしない筈だからだ。
「……怖いよ」
ジャンはハルの問いに独り言のように呟くと、頭上に広がる夏夕空を見上げた。
橙に輝く空には、分厚い入道雲が夕日に向かって立ち昇るように浮かんでいる。
それはまるで、決して触れることが出来ないと分かっていながらも、必死にその光に触れようと、腕を伸ばしているようにも見えた。
「なら、どうして調査兵になったんですか…」
ハルは頭に純粋な疑問符を浮かべて、隣に座り夕空を見上げているジャンの横顔を見上げた。
ジャンは短く色素の薄い光悦な茶色い髪を、穏やかな風に靡かせながら一度大きく瞬きをすると、琥珀色の瞳をゆったりとハルへ向けて言った。
「…大事な人と、離れ離れに、ならない為だよ」
「!」
「俺が、大事な人と一緒に生きていける、未来の為に…。仲間達が見たかった景色を…見させてやる為に…」
ジャンは左胸に右掌を押し当て、自身の心臓の鼓動を感じながら、幼いハルに真摯な眼差しを向けると、晴れ晴れとした、裏表のない微笑みを浮かべて見せた。
「その為に、俺は調査兵をやってる」
ジャンの微笑みは、まるで雲間から現れた光が地に差し込むような眩しさと温かさがあり、ハルは彼の周りの空気が星を散りばめたように煌めいているように見えて、思わず目を眇める。
「……じゃあ、私も…将来は、調査兵になる」
「は?」
ぽつりと雫のように落とされた言葉に、ジャンは虚を突かれたように目を丸くする。
ハルはそんなジャンに苦笑を浮かべると、先程ジャンが見上げていた空を徐に見上げた。
––––風が、吹く。
草花香りを抱いた川風が、ハルの色白の肌を滑り、柔らかな綿毛のような黒髪と、白いシャツの襟元を揺らした。
長い睫毛の下に光る、夕日を受けた黒い瞳は、まるで溶けかけた飴のように瑞々しく輝いている。
「……」
ジャン自分の意志とは無関係に、目蓋が開いていくのを感じた。
瞳の渇きを潤そうと瞬きすることさえも忘れ、その儚げな姿に、ひたすら魅入られる。
「…そうすることで、大事な人の未来を守れるなら、…大事な人と、離れ離れにならなくて済むなら…私、調査兵になる」
ハルはそう呟くと、ゆっくりとその瑞々しい瞳を目蓋でひと撫でして、ジャンを見た。
その顔は幼いハルのままだったが、ジャンの左胸に小さな右の掌を押し当て、心臓が脈打つ振動を感じながら、浮かべられたどこか安堵しているようで切なげな微笑みは、ジャンの良く知るハルのものだった。
「…だから、ジャン。…其処で、待っていてね…?」
左胸に触れているハルの手から、日溜りのような温もりを、確かに感じる。
「…ああ、待ってる」
ジャンはハルの手の甲に自身の右手を重ねると、左腕でハルの小さな体を抱き寄せた。
「お前を信じて、待ってる」
そうハルの肩口で囁くと、ハルが胸元で、「…うん」と小さく頷いた。
その時の顔を見ることは叶わなかったが、ジャンには何となく、嬉しそうに微笑んでいるような……そんな、気がしたのだった。
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