第三十五話
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「隣同士なのに、初めてちゃんと入った気がする。君の、部屋…」
ハルはいつも、自身の部屋から、ジャンの肩越しに映るばかりだった部屋に足を踏み入れ、扉ひとつ潜っただけで大きく変わった景色を見回しながら呟いた。
「だよな。お前の部屋と比べりゃ少し狭ぇけど、まぁ…悪くねぇだろ?」
ジャンはそう言いながらベッドサイドのテーブルに乗せられている、小さなランプに灯を入れる。
橙の明かりに浮かび上がった部屋は、少しハルの部屋と比べて狭いようだったが、窓はハルの部屋のものよりも大きく、不思議と解放感があった。
意外にも…というのは失礼かもしれないが、部屋の中の物はきっちり整えられていて、ジャンが言っていた通りハルの部屋のものよりも少し大きめのベッドの上のシーツや掛け布団も、丁寧に整えられている。
「うん、悪くない」
ハルはそう言って微笑みを浮かべると、ジャンはふっと口元に笑みを浮かべ、ダブルベッドに腰を落とし、ハルを誘うように右手を差し出して言った。
「ほら…こっちだ。来いよ…ハル」
「っ!」
ハルは、ランプの光に揺れるジャンの精悍な顔と、真っ直ぐな眼差しに見つめられ、胸の奥が疼く感覚に、戸惑いを隠せなかった。
「…ぇ…えっと…」
その場に立ち尽くしたまま、視線を泳がせ差し出された手を取れないでいるハルに、ジャンは怪訝そうに顔を顰め、首を傾げた。
「…んだよ。…もしかして、意識してんのか?」
「いや、そういう訳ではっ…ない、けれど…」
ハルはそれを咄嗟に否定しようとして僅かに身を乗り出したが、ジャンの切実な視線と目が合ってしまったことで、嘘を吐くことが憚られてしまい、ハルは困り果てた様子で顔の反面を右手で覆って、ジャンの視線から顔を逸らして言った。
「ごめん、嘘だ。…少し、意識、してる…」
ジャンはそんなハルの、指と指の隙間から覗く赤く染まった頬と滑らかな細い首筋を見上げながら、切長の瞳を悩ましげに細めた。
「…なぁ、ハル。お前さ、それわざとか」
「な、何が?」
「こっちが折角、手ぇ出しちまわねぇように努めてやろうって時に…それは、反則なんじゃねぇの」
ジャンは額を抑え、唸るような声音でそう言うと、困惑の色を浮かべていたハルの表情が、ハッとした焦りに変わった。
「お前にそんな可愛い顔されて、意識してるなんて言われちまったら、俺の理性なんて簡単に消し飛んじまうだろーが」
ジャンの熱を帯びた視線を受けて、ハルは顔を覆っていた手で口元を抑え、慌てた口調で言った。
「ま、間違ったっ」
「…はぁ?」
「べ、別に君を意識なんてしてない!全然っ、していない、からっ…!」
自分の発言を今更になって取り消そうと必死になっているハルの、動揺を隠そうとして口元に添えられている手の指の隙間から溢れてくる声は焦りに震え、顔は耳の先まで専ら赤く染まり切ってしまっている。
「…へぇ、そーかよ」
ジャンはそう含んだように呟いて、ハルに差し出していた手を顎に当てると、顔を逸らしたハルの前髪から垣間見える、瞳の中の感情を探ろうとするかのように、射抜くような鋭い目で、じっとハルの横顔を見つめる。
ジャンの視線が、逸らした顔の顳顬に刺さるのを感じながら、ハルは「やっぱり…部屋に戻るよ…」と、締め切った窓の外から僅かに聞こえてくる雨音にさえ掻き消されてしまいそうな程に小さくか細い声で呟く。
それに、ジャンは再びハルへ右腕を伸ばし、ハルの左手首を強く掴んで引き留めた。
「駄目だ」
「っ」
まるで手枷でもかける時のような有無も言わせない語調で、ジャンはハルに言い放った。
ハルは両目に怯えのような色を浮かべて、無意識にジャンから後ずさろうとしたが、ジャンはハルの腕を固く掴んだまま、決して離さなかった。
「絶対に離さない」
「っ」
その燃えるような熱い視線に、思わず息を呑む。
自分の心の周りを覆い尽くしていた分厚い氷の膜が、ジャンの瞳の熱で急激に溶け出すのを、ハルは感じた。
そうして心の拘束具を失って、急激に喉を這い上がってきたのは、哀訴歎願の言葉だった。
「……なら、ずっと離れないでっ」
「!」
その声は、感情が先走り、酷く上擦っていた。
ジャンは、怯え、寂しさ、恐怖を孕ませて、自分を見下ろす蒼黒の瞳を、切実に目を細め静かに見上げながら、ハルの震えた唇から紡がれる声に、耳を欹てた。
言葉一つ、息遣いすら聞き逃してしまうことがないように…––––
「…傍にいて…生きていて…っ…もうそれ以上何も…望んだりなんてしないからっ…」
その声は、まるで神に祈りを捧げる時のような懇願の響きがあった。
掴んでいた細い手首が小刻みに震えながら掌の中で回り、細く白い指が、ジャンの手首に縋るように絡み付く。
ジャンが背に負っている、カーテンに覆われた窓から滲む月光と、ランプの光が、ハルの白い顔に滲み合い、まるで泡沫のような儚さを揺らしている。
「…君は私をっ、置いて行かないで…!」
それはまるで、親に見捨てられた子供のような顔だった。
孤独の沼に足を囚われ、身動きが取れなくなっているハルを見つめながら、ジャンはハルの手首を掴む手に力を込め、吐息のような声で問いかける。
「本当に…?」
ハルを救うには、今、彼女が口にした願いを叶えてやるだけでは、事足りはしない。
ハルが両足を囚われている孤独の沼は、あまりに深い。
ただ、傍に居てやるだけでは、ハルを其処から救い出してやることは、決して出来はしないのだ。
「本当に、それ以上何も望まねぇのかよ…?」
今掴んでいる腕を引いて、抱きしめてやらなければ、孤独の沼から引き上げてやることも、孤独に食い散らかされた心の穴を埋めてやることも、出来はしない。
ジャンにはそれを、理解することが出来た。
「俺はもっと、お前に求められたい。必要とされたい。…それに、お前が言った以上の事だって、以下の事だって…何だってしてやりてぇって思ってる––––」
ハルは震わせていた瞳を切なげに細めると、ジャンと繋いでいない方の手を握りしめ、「…君は、私に甘すぎるね」…と、歯の間を漸く洩れるような声を、悲しい余韻を残すように、視線と共に足元へと落とした。
再び孤独に沈み始めたハルの心を引き止めるように、ジャンは明朗な声で、言い放った。
「お前が好きだ」
「っ…」
その言葉に、ハルはハッと息を呑んで、顔を上げる。
ジャンの琥珀色の瞳に、驚いている自分の顔が、鏡のように写っているのが見えた。
「…だから、甘やかしてやりたくなんだよ。…お前が、俺のことを特別、甘やかしてくれてるってなら、尚更…な?」
ハルは、切なげに目元を緩ませているジャンへ、以前、ジャンに対して特別甘い人間で居てもいいと思えると言った時の話をしているのだということが分かった。
それと同時に、ジャンはハルの気持ちを、本人以上に理解し、そして見透かされているのだということも、理解出来てしまった。
そして、今胸の中で膨張を始めた感情の正体を、目の当たりにしてしまうことが急に怖くて堪らなくなって、逃げ出したい、目を逸らしたい、背を向けてしまいたいと思うのに、ジャンの射抜くような視線と、力強く腕を掴んで引き止めている右手が、それを許してはくれなかった。
ハルは、大切なものを、この世界で失い過ぎた。
それも、あまりに突然で、無遠慮で、残酷な形で…
だからこそ、ハルは人を愛せなくなってしまったのだ。
人と触れ合い、関心や関係を持ってしまうことが怖かった。
再びそれを失った時の苦しみを、痛みを、思い出してしまうことが怖かったからだ。もう二度と、味わいたくはなかったからだ。
だのに、その心とは裏腹に、孤独に打ちのめされた心が、安息を求めることを止められなかった。
人の温もりを、欲してしまった。
そうして掴んだ絆が、アニ達だった。
「…怖いんだ」
しかし、掴んだ絆は、決して触れてはいけないものだった。
繋いではいけない、絆だった。
そうして、また、失ってしまった。
己の心の弱さが、救いを求めて掴み、触れたものは全て…この世界は自分から容赦無く奪い去っていく––––、…そういう風に、運命付けられているのだと…。
「君を求めてしまうことが、怖い。…傷つけてしまうことが、失ってしまう事が…怖くて堪らないんだっ」
だからこそ、自分は目の前の彼に…眩しく太陽のような光に、触れ求めてはいけないのだと、規制線を張った。
幾ら惹かれようとも、焦がれようとも、その感情の名前を、決して口にしてはいけない。見つめては、いけない。
…だってもうきっと、私は目の前の光を失ったら、この世界で生きてはいけないから。耐えられないから。本能が、ずっと警鐘を鳴らし続けていたから。
「私、…君に出会ってからどんどん…臆病者になって行く。私から、大切な人達ばかりを奪い去って行くこの世界にっ……この残酷な世界から、何時か私が死んで……大好きな皆と…っ君と、離れ離れになってしまうことが…怖いっ…!」
喪失の連鎖を重ねていく事が、私の宿命なのだとするのなら、失われる存在は、作るべきではない。
それでも、心は求めてしまう。
孤独から逃れたがる。
他人との繋がりを、築き上げようとする。
この途方もない寒さから、逃れようとする。
温もりを求める。
そうしてまた、傷つくことも、分かっているというのに…–––
「怖いよっ、ジャンッ…!」
どうして、止められないんだろう。
ハルは、細い糸が絡んで輪を作った、七色に輝く絆に縋るように、右手でジャンの手ごと左手首を掴んだ。
「っ!!」
その言葉に、ジャンは心のたがを外し、強く掴んでいた腕を引いて、ハルの身体を自身の胸に引き寄せ、抱き竦める。
「だったらもっと弱くなれよっ…臆病に、なればいいだろっ!?それでお前自身が死を遠ざけて、生きることを望むようになるなら俺はっ…!」
ハルの細い腰と、肩を抱いて、感情に波立つ声で言い放つ。
「っ俺はお前が臆病者で居てくれた方が、ずっと良いっ……!」
耳元で放たれた言葉に、ハルは胸の中の感情の核が喉から這い上がってくるのを感じ、それを押し留めようと飲み込む事なく、吐き出してしまった。
「…っ…き…」
最初は、言葉にならないただの熱い吐息だった。
「…っす、き…だ…」
「っ」
二度目でやっと、意味を持った言葉に形を作ると、耳元でジャンが息を呑んだのが分かった。
ハルは譫言のように言葉を溢す。
両目から溢れ出す、涙と共に。
「君が…好き…、好き…なんだ…っ」
そう何度も繰り返すハルに、ジャンはハルの白い首筋に唇を押し当てながら、上擦った声で囁く。
「っハル…もっと、もっと言ってくれ…もっと俺を、求めてくれっ…」
ポロポロと両目から涙を溢しながら、只管自分を求めるハルの声に、ジャンは胸が甘く疼き、頭の芯が熱を持ち始めるのを感じていた。
「そうやって弱くなって行けばいい…、臆病者になって行けよ…」
ハルの鼓膜に直接触れるような低い声で、暗示にでも掛けるような口調で言うと、ハルは両手でジャンの胸元をシャツごと握り締め、幼い子供ように泣き腫らした顔を、ジャンに向けて言った。
「…っきみが…す、き…!」
涙でしゃくり上がった喉が連ねた言葉が、ジャンの胸を切なく、そして酷く甘く、締め付けた。
「…お前…そんな顔、するんだな…」
ジャンは自身の胸元に縋り付くハルの頬に両手をあてがい、今まで見たことがない程に、涙で濡れた弱々しいその表情を食い入るように見つめて呟いた。
今、ハルが自分に見せている表情こそ、ハルの本質なのだ。
今まで見せてきた凛々しさは、この弱さを隠すための虚勢でしかない。
本当は誰よりも臆病で、怖がりなのが、ハル・グランバルドという人間の、本来の姿なのだ。
そして、ジャンはそんなハルの有りの儘の姿に、今まで以上に強く心惹かれ、魅了され、ハルを求める本能のままに、行動した。
「すげぇ…綺麗だ…ハル––––」
すき、と、何度も繰り返す唇に、吸い寄せられるようにして、ジャンは自分の唇を押し当て、目蓋を閉じる。
柔らかな唇は冷たく震え、涙の味がした。
触れた唇を濡らしている涙を拭うように、ジャンは舌先でその唇をなぞると、ハルの身体が反射的に逃げ腰になる。
それをハルの頭の後ろと腰に腕を回し引き留めて、そのままベッドに押し倒すと、狭い部屋に大きくベッドが軋む音が響いた。
ハルの部屋のベッドよりも柔らかなスプリングが、二人の体ごと抱き竦めてしまうと、どちらからともなく両掌を重ね、指を絡め合い、いつ尽きるとも知れない口づけを幾度も交した。
そうしているうちに、ハルの体の冷たさが、ジャンの体に流れ込み、ジャンの熱が、ハルの体を溶かしていって、まるで互いの身体の境界線が失われてしまったかのように、もう何がなんだか分からなくなってくる。
「っジャ、ン…」
「ハル…っ、ハル…」
何度も名前を呼び合って、熱く荒立つ息が混ざり、舌が絡まり合う。
すぐ傍の窓の外で降り頻る雨音が、段々と、とても遠いところで鳴っているように感じてくる。
二人の中の本能が、心に空いた穴を埋めるように、互いの熱と、呼吸と、肌を求めて身を寄せ合い、熱く深い、湖の底へと沈んで行く–––––
第三十五話 触れて、確かめ合う
そうして二人は、篠突く雨の降り注ぐ夜を、共に超えた。
完