第三十五話
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ハルはもう随分と長い間、死者に囚われ続けているのかもしれない…––––
恐らく、『あの日』からずっと––––失ってしまった家族の事や、仲間達の事を想うがあまりに、彼等の嘆きや無念に、心を砕き擦り減らし続けている内に、自分自身で作り上げてしまった幻影や亡霊に、取り憑かれてしまったのだろう。
ジャンにも、トロスト区襲撃後、仲間達の死を目の当たりにし、マルコの亡骸を見つけ、大勢の遺体が焼かれるのを見たあの日の夜から、幾度もこの残酷な世界から背を向け逃げ出したいと思う度に、仲間達の声を…マルコの声を聞くことがあった。
進め。
立ち止まるな。
俺達の代わりに、この無念を晴らしてくれ。と…––––
その痛みを、苦しみを、ジャンは手に取るように理解することが出来た。
そして、その『声』から逃れる術は、一つしかないということも知っていた。
何処へ逃げ隠れたところで、彼等の『声』から逃れる事は出来ない。
『声』から逃れられる為の唯一の方法は、己の両目を塞ぎ、両耳を塞いで、考えること自体を放棄するしかないのだ。
ジャンは足元に散らばったマッチ一つとその空箱を拾い上げると、傍のランプに火を灯しながら言った。
「ハル…身体、冷えちまうから、もう窓…閉めろよ」
「……」
しかし、ハルは何も答えなかった––––
ただ手の中の御守りを見下ろし、唇を噛み締めるばかりで、ジャンの声は全く、届いていないかのように…
「…ハルっ」
揺れるランプの光が、陽炎のようになって、亡霊に取り憑かれたハルの後ろ姿を悲しげに揺らしている。
余りに痛々しい背中が露わになって、自分で灯りをつけておきながら、それを灯したことを後悔したジャンは、奥歯を食い縛って、マッチの先に残った火を、ランプの傘に乱暴に押しつけて消した。
マッチの先がジュッと音を上げ、細く鼠色の煙を上げるのを眺めながら、ジャンは噛み締めた上歯と下歯の間から、渋くなった茶っ葉でも齧ったような苦い味が滲んで、舌の上に張り付くような感覚に舌を打つ。
これは、自分の声など容易く打ち消してしまう程に、ハルの心に深く抉り込み、捉え込んでいる、アニやライナー、ベルトルト達に対する、明らかな嫉妬心の表れだった。
ジャンは荒立つ心に突き動かされるようにして、立ち尽くしているハルの背中に歩み寄ると、その右肩を掴んだ。
「ハル、今日はもう何も考えるなっ…」
腹の底から絞り出した声は、胸の中で漂う苛立ちに、熱を全て吸い取られてしまったかのように、冷たい響きと唸りを孕んでいた。
「アイツらの事考えて苦しんでるお前の姿を…これ以上、正気保って見てらんねぇっ」
アニが、ライナーが、ベルトルトが、憎らしくて…妬ましくて、途方も無く羨ましい。
そんな浅ましい感情が怏々と苛立ちや悔しさまでも巻き込み、足の先から首元へと鎖のように絡みついているような気がして、声が上擦り、無意識にハルの肩を掴む手に力が篭ってしまう。
「…ジャ…ン…」
そこで漸く、ハルはジャンを認識したかのように、僅かに顔を上げて、吐息のように名前を呟いた。
窓から吹き込んで来る風が、細かな雨水を抱きながら、頬に触れる。
その雨水は肌に触れた瞬間に、音も無く蒸発してしまう程に、ジャンは自身の体が嫉妬に熱く燃えているのを感じていた。
己の事ながら、こうまで筆舌し難く、堪らない心情に溺れることがあるのかと、内心で愕然としてしまう程に、それは理性なんてものでは全くままならない凶暴な獣のような感情だった。
「…なぁ、ハル」
ジャンは追い縋るようにハルの名前を呼び、相変わらず細い右肩を掴んだまま、目の前の左肩へと自身の額を押し当てる。
額に触れた、雨水に湿ったシャツ越しの肩は、酷く冷たくて、胸の奥が無数の針を刺されているかのように傷んだ。
ハルの冷たさは、ジャンにハルの心臓が止まってしまったトロスト区の教会内での出来事を連想させた。
あの時の光景はトラウマの烙印と成り代わり、ジャンの脳裏にまで深く焼き付けられてしまっていて、身体が恐怖で震え始める。
「俺はっ…捨てられる。…お前の為ならなんだって、捨てる覚悟はもう、出来てんだよっ」
もうこれ以上、黙って傷だらけのハルの姿を見ていることなど、耐えられなかった。
今、此処に居ない、自分ではない誰かに思いを馳せ苦しむハルを、嫉妬に狂わず見ている事など、最早今のジャンに出来ることでは無くなっていた。
…ハルの存在は、それを看過出来ない程までに、ジャンの中で大きくなり過ぎていたからだ。
「お前に嫌われて、恨まれても構わない。…それでお前が救われるなら、お前が…その苦しみから少しでも解放されるなら俺はっ…何だってする…っ!」
「!?」
ジャンは右手で掴んでいた細い肩を強く引き、ハルの体を傍のベットに乱暴に押し倒すと、覆い被さるようにして顔の横に両手を激しく付いた。
ハルの左手から、御守りがこぼれ落ちて、ベッドの端に転がり、スプリングが二人分の体重を受けて、ギシリと苦しげに軋み上がった。
「…ジャン…?」
月光を受け、黒橡色に光る瞳を見開くハルを見下ろしながら、ジャンは自棄に翻弄され、胸から迫り上がってくる熱く震えた息を吐き出した。
きっと、この先に進んでしまえば、もう二度とハルと、今までのような関係に戻ることは出来なくなる。
他愛のない話をして笑い合うことも…、朝何気なく挨拶を交わすことすら、出来なくなってしまうのかもしれない。
それでも、今のジャンには、ハルをこの途方もない悲しみから引き上げ、亡霊達の『声』から救い出してやれる方法は、これしか考えられなかった。
それが例え、瞬きのように短い安らぎしか、与えてやることが出来ないのだとしても…
ハルの頭の中から、心の中から、彼等の記憶を、消し去ってしまえるのなら…
この悲痛の雨が降り注ぐ夜を、少しでも早く、終わらせてやることが出来るのなら…
「俺がっ…!力尽くでもお前の中から、アイツらの事を引き摺り出してやるからッ…!」
薄く冷たいシーツを、引っ掻くようにして握り締めながら、ジャンは自身の腹にナイフを突き立てるかのような沈痛な面持ちと声音で、ハルに言い放つ。
「っ俺を、使っていいからっ…忘れる為に利用して構わねぇからっ…!…っ全部、全部俺の所為にしていいから…。…っ、アイツらのことばかり、考えるのはやめてくれっ…!もう、耐えらんねぇよっ…!」
体の奥が、熱い。
喉の真下が、焼け落ちていく。
あまりの熱さに息が詰まり、
まるで沸き立った熱湯の中に身体を押し込まれているようで、身も心もバラバラに引き千切れてしまいそうだった。
それでも俺は、ハルに見て欲しかったんだ。
アニ達のことばかりではなく、もう此処に居ない、仲間達でもなく…俺自身の事も…心のほんの片隅でもいいから、受け入れて欲しかった。
それが、どんなに醜い姿をした自分だったとしても…
アニ達と同じように、愛してくれなくても…いいから…
「俺をっ…俺を見てくれっ…!ハルっ!!」
そう口にした途端、ジャンは不意に嫌悪感が喉から突き上げて来て、大きく喉を引き攣らせた。
「っ」
それは酷く黒々と醜い不快感を胸に広げ、思わず嘔吐きそうになって口元を片手で抑えて息を呑んだ。
結局自分は、ハルを救う為ではなく、自分の欲求を押しつけ、満たしたかっただけなのだと、気づいてしまったからだ。
何処までも身勝手な自分の劣情に唖然として、途方もない自己嫌悪に苛まれる。
「っく、そ…」
口元に片手を押し当てたまま、ジャンは掌に向かって忌々しげに吐き捨てた。
「…!」
すると、不意に、両頬にそっと冷たい何かが触れた。
それは、ハルの細い、両手の指先だった。
「…君を嫌って、恨む事で、私がこの気持ちから開放される筈なんか…ない…」
その声は、外から聞こえてくる雨音に掻き消されてしまいそうな程に、小さな囁き声だった。
「っんなこと…分からねぇだろっ…」
ジャンは酷くやるせ無い気持ちで、熱く腫れ上がっているかのように強張った喉を振り絞るようにして言い放ち、唇を噛み締める。
すると、頬に触れていたハルの両手の指先が、酷く優しく顔を撫でながら、目元に触れた。
「分かるよ」
ハルの唇から紡がれた声には、ささくれ立って血が滲む心に、そっと薬を塗るような温かさと安心感を生み出して、ジャンは思わず息を呑み、大きく瞬きをした。
すると両目の端から、視界を歪めていた原因が、頬を伝って流れ落ち、大きな雫になって落ちて行くのが見えた。
その雫はハルの白い頬の上で弾け、白いシーツに丸いシミを広げて行く––––
ハルは濡れたジャンの目元を、両手の親指の腹で壊れ物にでも触れるかのようにそっと拭いながら…黒い双眸を細め、静かで柔らかな、泣きじゃくる子供を宥めるような、優しい口調で言った。
「そんな顔をしている君を…、恨む事なんて…出来る訳がないよ…」
「っ」
そう言ったハルの瞳に、自分の顔が映っているのが見えて––––…そこで漸く、ジャンは自分が泣いて居たことに、気がついたのだった。
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