第三十五話
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だだっ広い兵舎の食堂に漂う空気は、夏を間近にした季節に似合わず、妙に底冷えていた。
廊下に面していない、壁に張り付いているガラス窓の向こうでは、いつの間にやら降り始めていた雨が、ガラスの表面を指先でノックでもしているかのように軽い雨音を立て鳴らしている。
ジャンは人気の無い食堂の長椅子に腰掛け、テーブル上のランプ一つだけを灯して、頬杖を付きながらぼんやりと、ガラス窓の表面を伝い流れ落ちて行く雨の雫を眺めていた。
女型の巨人の正体を明らかにするべく、エルヴィンに召集を掛けられ集まった団長室を後にした一同は、エルヴィンの計らいにより、夜も遅く時間外ではあるが浴場の使用許可を得られ、漸く体の汚れと共に壁外調査の疲労を洗い流すことが出来た。
普段は大勢の兵士でごった返し窮屈極まりない浴場が貸し切り状態で、ジャンとアルミンは滅多に得られない機会に歓喜した。恐らく、ミカサとハルも同様だろう。
いつもより随分長く湯船に浸かり浴場から出た二人は、この食堂で今後の調査兵団の動向についての話をしていたのだが、アルミンは眠気が限界に達し、つい先程部屋へと戻って行った。
ハルの『未知の力』の解明が進んでいない今、壁外調査後もハルの監視は継続されることが決まり、ジャンは今まで通り食堂に残ってハルの戻りを待っていると、ややあって首にタオルを掛け、寝間着にしている緩めの黒いパンツと白シャツ姿のハルが現れた。ミカサの姿がないところを見ると、どうやら先に西棟の部屋へ戻ったようだ。
「ジャン、ごめんっ…待たせちゃったね」
ハルは食堂に足を踏み入れ、長椅子に座るジャンの姿を見つけると、パタパタと軽い足音を立てながら、申し訳なさそうに傍へ駆け寄って来た。
「そんなに待ってねーよ。……ゆっくり、出来たか?」
ジャンはテーブル上のランプの灯を吹き消し立ち上がると、食堂内を照らす光は窓から漏れる月光のみとなり、随分薄暗くなってしまったが、傍にやってきたハルが微笑みを浮かべたのはぼんやりと見えた。
「うん。貸切って至高だねって、ミカサと話してたんだ」
「…だな」
ジャンはふっと口元に笑みを浮かべ、ハルの額に張り付いているまだ少し水気の残った前髪に、指先で梳くように触れると、ほんのりと爽やかな石鹸の香りが鼻腔に触れた。
ハルは団長室でアニが女型の巨人である可能性を、予感から確信へと引き上げられたことによって悲嘆に暮れていたが、首から御守りを外し、エルヴィンから憲兵団に居るアニを拘束する為、明日から作戦の詳細を立てる話が切り出された頃には、精神の均衡を立て直し始めていた。
…しかし、それも表面上のものでしか無いことに、ジャンは気づいていた。
今、微笑みを浮かべて見せてはいるハルだが、ジャンに心配を掛けまいと取り繕っていることは明白であり、目元は未だ赤く腫れ、顔色も良いものとは言えなかった。
ジャンはそれを察して居ながらも、敢えて今は、言及することはしない。
ハルは壁外調査で誰よりも馬を走らせ、巨人と戦った。
その身体と精神の疲労を考えれば、今日は少しでも早く体を休めることを最優先させるべきだと、判断していたからだ。
ジャンは食堂からハルと共に部屋へ戻ると、ハルの部屋の扉の前で、足を止める。
「…じゃあ…また明日、な?俺は昼前にはまた本部棟に行かなきゃなんねぇけど、お前もミケさんの班と合流して、作戦会議に出るのは昼過ぎからなんだろ。朝、起こしには来ねぇからな?ちゃんと寝て、身体休めろよ…?」
気遣いげな表情を浮かべて、ハルの顔を覗き込むようにして言ったジャンに、ハルは「分かっているよ」と苦笑を浮かべる。
ジャンとアルミン、そしてミカサの三名は、当初の予定通りアニを拘束するための極秘作戦に参加することになったのだが、ハルにはやはり、アニの捕縛作戦への参加許可が降りることはなかった。
最終的にはハルも、エルヴィンの判断を受け入れたが、ハルはアニの捕縛作戦が行われている内は、同郷であるライナーやベルトルトの他にも、104期生の中に協力者が居る可能性も仮定し、ウォール・ローゼ南西部にある施設に武装解除をした状態で隔離することになる為、ミケ班に混じり、104期生達の監視任務を担うことになったのだった。
ハルは心配気なジャンに肩を竦め、自室のドアノブに手をかけながら言った。
「…明日の朝はゆっくり休むことにするよ。…じゃあ、また明日ね…」
「…おう」
それにジャンは頷き、自分も隣部屋に戻ろうと踵を返す。
しかし、ハルはドアノブを掴み回そうとした手を、ピタリと止めた。
「…っ、ジャン」
「あ?…どうした?」
不意に名前を呼ばれ、ジャンは足を止めると、再びハルに向き直って首を傾げる。
しかし、ハルはドアノブを掴んでいる右手を見下ろしたまま、左手で顔の半面を覆い隠し、吐息のような掠れた声で言った。
「い、いや…ごめんっ…何でもないんだ…。ジャンもゆっくり休んでね。…おやすみなさい––––」
微かに外の雨音が響くほの暗い廊下に、徐に捻られたドアノブの音が、やけに大きく鳴り響いた。
黒い前髪とは対照的な白い手が、ハルの横顔をジャンの目から覆い隠してしまっていて、表情を窺うことは出来なかったが、その手の下に浮かぶ悲痛な顔が、ジャンには透けて見えたような気がした。
ガチャリと音を立ててハルの部屋の扉が開かれると、中から冷たい空気が廊下へと流れ込んで来る。それは微風となって、ハルの長い前髪を揺らし、ジャンの頬とシャツの襟元を擽った。
ハルは暗く寒い部屋に足を静かに踏み入れ、ジャンに顔を見せぬまま、後ろ手に扉を閉めた。まるで読み終えた本を閉じた時の様な、物寂しい音が鼓膜を震わせ、扉一つ隔てただけだというのに、何故かハルが何処か遠くへと行ってしまったような気になって、ジャンは胸に名状し難い焦燥感に似たものがひしひしと染み入ってくるのを感じながら、拳を握り締めた。
「…何でもないって…んな訳ねぇだろっ…」
ジャンは溜息のような感慨じみた声で呟くと、先程ハルが触れていたドアノブを掴み、扉を開けた。
「ハル…っ、入るぞ…っ!」
灯の無い暗い部屋の中に足を踏み入れると、やけに陰湿な重々しい空気が、体に纏わりついてくるのを感じた。
部屋にある唯一の窓に引かれたレースのカーテンが、窓に張り付いた雨水の影を映し出しながら、月光に照らされ青白く輝いている。
ハルはその窓の方に身体を向け、ジャンには背中を向けたまま、部屋の中で立ち尽くしていた。
「…ハル?」
薄暗い部屋に浮かぶハルの兵士らしくない細いシルエットは、息を吹きかければ消えてしまいそうな程に儚くジャンの目には映り、漠然とした不安が胸を過ぎって、開け放った扉のドアノブを掴んだまま、その存在を確かめるようにハルの名前を呼んだ。
すると、ハルは少し間を置いてから、酷く掠れた声で言った。
「…声が、するんだ」
「…声?」
ジャンは朧げなハルの背中に、戸惑いながら問い返す。
「…皆の声…、家族や…仲間達の声…ずっと遠い所に居る筈なのに、すぐ傍に居るみたいに…聞こえてくるんだ…」
ハルは、ジャンの問いかけに答えるというよりは、独り言を溢すように呟くと、窓の傍へと足を進め、青白く光るカーテンの端を掴んで開いた。
レールが弱々しく音を立てて滑り、カーテンが開かれた分だけ光を覆う膜が剥がされて、薄暗かった部屋とハルの体の輪郭が照らし出される。
外は相変わらず凄雨が続いている様子だったが、ハルは構わずカーテンを掴んでいない右手で器用に窓鍵を外すと、ガラス窓を押し開いた。
すると雨水を含んだ風が、びゅうと音を立てて部屋になだれ込んで来て、ジャンの背後の廊下まで吹き抜けて行った。
ハルが左手に掴んでいる薄いカーテンが、風に踊らされ不規則に靡き、レールがカタカタと忙しく音を上げる。
窓の傍のデスク上に置かれていた教本のページが、一風に掬われ蛇腹のように半円を描いて捲れて行く。
そして、ジャンの立つ部屋の入り口に置かれていた棚上から、ランプの火をつける為のマッチの入った小箱が落ちて、バラバラと床に弾けて散らばった。
「っ」
ジャンは荒々しい風を弱めようと、後ろ手に扉を閉めた。
すると、風の音とカーテンのレールが軋む音が弱まり、ハルの黒髪の毛先も、纏う白いシャツの袖や裾も、舞い踊るのを止めた。
ハルは雨が降り頻る窓の外の闇夜を眺めたまま、先程口にしていた、『声』の主達に語り掛けるようにして言った。
「…私は前に進むって、決めたんだ…。下はもう向かないって、決めた。ちゃんと決めたから、私は…私のすべき事をするからっ…」
ハルはカーテンから手を離すと、徐に白シャツの胸ポケットから、色褪せた御守りを取り出した。
何時も肌身離さず、大切にしてきたそれを掌の上に乗せ、そっと見下ろす。
「…ちゃんと、全部…手放してみせるから…」
「…っ」
開け放たれた窓の外から聞こえてくる、雨音に紛れて落とされたハルの別れを告げる声に染み込んでいる深い悲しみが、自分の心にも染み入ってくるようで、ジャンは胸が詰まり、沈痛な面持ちになって下唇を噛んだ。
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