第三十四話
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「この馬鹿を放置しておけば、自分で自分の身体も、精神すらも壊し兼ねねぇ……コイツは、てめぇの器の大きさも、容量すらも分かってねぇ癖に、世の中のこと何から何まで背負い込んで、全部がてめぇの所為だと思い込む節がありやがる……そうやって、ゆっくり壊れて行くんだろ…。コイツは自分の心を守っているつもりで居るんだろうが、それは大きな間違いだ。現実から目を逸らし続けてりゃあ、いずれは何も見えなくなる。そうなっちまう前に、コイツに今、それを自覚させてやるべきなんじゃねぇのか、ジャン?」
リヴァイの言葉は、今のハルには酷く残酷なものにも思えるが、ハルがこの先、この世界で生きて行く為には、乗り越えなければならない心の壁があり、それは、決して独りの力では越えていけるようなものではなく、誰かが傍に居て、手を引いてやらなければならないものなのかもしれない。
ジャンはリヴァイの言葉に、今までのハルの思考、行動の違和感の原因を、突き止めることが出来るのは、この瞬間でしかないのだと、そう本能で直感し、リヴァイの肩を強く掴んでいた手から力を抜いた。
しかし、ミカサは苦しむハルを見ていられず、ジャンに続いてリヴァイに制止を掛けようとしたが、そんなミカサの腕をアルミンは掴んで引き留めた。
「ミカサ!!待って!!」
「アルミンっ!でも、ハルがあのままでは可哀想っ…!」
「これは、ハルの為なんだ!!」
「っ…」
打ち据えるように言い放ったアルミンの瞳には、強い意志が込められていて、ミカサは気圧されたように息を呑んで、足を止めた。
アルミンは蹲っているハルの傍へと歩み寄ると、ハルと視線を合わせるようにリヴァイの横にしゃがみ込んで語り掛けた。
「ハル、僕が巨大樹の森で話したこと、覚えてる?…何かを変えられる人間は、何かを捨てることができる人なんだって。…僕は、もう覚悟は出来てる。皆を守る為なら…何を捨てたって構わないって」
「…アルミ…ン」
ハルは徐に顔を上げ、酷く揺れる瞳でアルミンを見た。
そんなハルに、アルミンは空色の瞳を細めると、そっと指先で撫でるような声で、問い掛けた。
「ハルは、どうして調査兵団に入ったの…?僕とエレンと初めて会った時、話してくれた理由とは、きっと今は違っているはず。…そう、だよね?」
切実な思いを乗せて問い掛けてくるアルミンに、ハルは荒立つ呼吸の中で、必死に言葉を紡いだ。
「……生きる意味を失った私に、生きることの素晴らしさを教えてくれた皆の未来を、守りたく…て…調査兵団に入ったんだ」
「…じゃあ、アニは…捕まえないと、駄目だよね。皆を…守りたいなら、ハルは今、アニの元へ行くべきじゃない。ハルはそれを理解出来る筈。ただ、それを抑制されているんだ。アニ達と過ごした、思い出に…」
アルミンの言葉はどこまでも冷静で、辛辣で、揺らぎが無い。
もちろん、ハルの気持ちを理解している上で、それでも心を鬼にして、ハルには現実を見て、これから一緒に生きていて欲しかったからだ。
ハルはアルミンの透き通った澱みのない視線に訴えかけられ、顔を胸元へと落とし、色褪せた御守りを見つめた。
「っ私は…アニ…の…未来…だって、守りたい。アニの、…故郷に帰る…夢を…叶えてあげたい……っ、でも、…アニの、帰りたい場所って、一体…何処なんだ…?」
そんなことを、物言わない御守りに向かって問い掛けたところで、答えなど返ってこないことは分かっている。
アニが…否、アニ達が帰りたいと思いを馳せていた故郷は、自分と同じ場所では無かったのだ。
アニ達とはきっと、出会った時から、向いている場所が違っていたんだ。
それなのに、自分はずっと、勘違いをしていた。
アニ達は、自分と同じ痛みを抱えていて、自分と同じ場所を見つめているのだと…そう、勝手に思い込んでいたんだ。
家族を失った悲しみ、孤独、独り生き残ってしまった罪悪感、そんなものに苛まれ続けて、生きている内に、自分は本当の自分の感情というものを、何処かに落としてきたのかもしれない。或いは、丈夫な鍵を何重にも掛けて、心の奥深く、手の届かない場所まで沈めてしまったのかもしれない。
そうして自分は自分を見失って、空っぽの蝋人形のようになった。
でも、そんな自分に温かく触れてくれたアニや、ライナー、ベルトルトに、心の温もりを忘れ切れなかった、捨て切れなかった自分の弱さが、拠り所を求めてしまったのだ。
彼等は、私が生きる為に必要なものを、全て奪った存在かもしれないというのに…
ハルは、身体の芯が突然凍り付いたような感覚に身震いをした。
顔色が明らかに変わったハルに、リヴァイは鼓膜を直接撫で付けるような低く明朗な声で問い掛けた。
「ハル。真実を知った今、お前が為すべきことはなんだ?」
それはまるで、極刑を下す裁判官の言葉のようにも感じて、ハルは息を詰めた。
胸が、苦しい。
心臓は鳴らない筈なのに、どうして、こんなに酷く苦しいのだろう。
自分の心臓に巻きついている鎖が軋む音が聞こえるような気がする。
「ま…待って、待ってください…っ」
心臓の内側を、見知らぬ誰かに指先で引っ掻かれているような疼きが、徐々に強くなってくる。
それが漠然とした不安や焦燥を駆り立てて、右と左の肺すら締め付けている。
「わ…っ、わた…し…」
その所為で呼吸が不規則に乱れ始めて、ハルの顔には脂汗が浮かび始めた。
ハルははくはくと口を動かしながら、左胸を両手で握りしめるように抑え込み、額を床に押し付ける。
喉が引き攣って、舌が硬っているせいで、口端からみっともなく唾液が漏れ始めた。
「…っ、ハルっ!しっかりしろ!!もうてめぇの都合や私情だけで、どうこうできる問題じゃねぇんだぞ!!」
リヴァイはそんなハルに表情を痛々しいと曇らせながらも、蹲るハルの後頭部に向かって叩きつけるような声で言った。
その言葉に、ハルは自分が無意識に掛けていた感情のタガが吹き飛ぶ感覚があった。
鉄のように重く頑丈な箱の蓋が開き、溢れ出した感情が、喉から蹴り上げられ、悲鳴になって飛び出した。
「ぁぁぁあああああああああ!!!!」
それは血を吐くような悲痛な響きをしていた。
ハルは気が違ったかのように地面に顔を押し付け、のたうち回りながら叫んだ。
そんなハルを、ジャンとアルミンとミカサは、腑を切れ味の悪いナイフで何度も引き裂かれているような思いで、唇を噛み締め、立ち尽くしていた。
ハルの叫び声は、鼓膜と、眼球と、皮膚と心臓に、無数の針のようになって突き刺さるようで、もう一生忘れることなど出来ない程の痛みが伴っていた。
対してエルヴィンとリヴァイは、真っ直ぐにハルを見つめている。
ハルの感情を全て真っ向から受け止め、そして見守ろうとしている。そんな決死の表情にも見えた。
ハルはアニやライナー、ベルトルトの名前を時頼悲しげに呼び、一頻り叫んだ後、床に顔を押し付けたまま両手を握り締めて、潰れ枯れた声で呻くように言った。
「…団長の、命令に、従います、もぅ、勝手なことは、しま、せん……だ、から…少しだけ…待ってくださいっ…!…怖い…んです…そっちに、足を踏み出すのが…私、また空っぽになってしまう気がしてっ…」
もはやそれは泣き声だった。
ハルは徐に顔を上げ、目の前にいたリヴァイに顔を向けた。
その瞳にも、目の下にも、泥を塗り込んだような絶望の影が揺らいでいる。
「何にも無くなって、空っぽな人形みたいな私に…もう一度生きるための心臓をくれたのが…アニ達…だったんです…」
「ハルっ…」
そんなハルの打ち拉がれた顔を見て、ジャンは背中から体温が抜け出して行くのを感じながら、震えた息を浅く吐き出した。
ハルの絶望感が、自分の体にも纏わりついてくるようだった。
「私が今、此処に居るのは…アニ達のおかげで…でも…アニ達は、私の心臓を奪った…張本人だとしたら……私は…っ、わたし、は……っ!」
ハルはそこまで口にすると、はっと何かを見つけたように、一瞬、黒い瞳を大きく震わせた。
その瞬間、丸く黒い瞳には、確かな感情の色が浮かんでいた。
そして、その感情は…ハルの瞳がジャン達の前では決して映し出して来なかった色をしていた。
「ハル、お前…今何を考えた?」
リヴァイはそれを見逃さず、ハルの両頬を手で挟み込んで迫るように問い掛けた。
「…ぁ」
「お前が今抱いてる感情こそが、本当のお前の、感情なんじゃねぇのかっ」
リヴァイは、ハルの顔を自身の方へ僅かに引き寄せながら、ハルの瞳の奥に隠れようとしている感情を逃さんと睨め付けるように瞳を鋭く細め、言葉をハルの心に訴えかけるように打ち連ねて行く。
「お前の心臓を作った奴らは、お前に現実を見ることを抑制させてるんじゃないのか?…そうだ……お前が、巨人に対して抱くべき憎悪を、自分自身の罪に塗り替えちまうように、暗示を掛けてるんだ」
「!?」
ハルはリヴァイの言葉に、はっと息を呑んだ。
自分が自分自身に抱いてきた違和感の根源を、リヴァイは、自分の体の中から拾い上げて、眼前に差し出してくれたような気がしたからだ。
「…もうやめろ。…人の罪を自分の罪に塗り替えて生きるのは、今日で終わりにしろ」
リヴァイはハルの心臓のある場所である、左胸にドンと右の拳を叩きつけて言い放つ。
「人から貰った心臓じゃなく、生まれ持ってきたテメェの心臓動かして、もう一度生き直せっ!」
そこには、父親の言葉と重なる程の、威厳と慈悲が込められていた。
「…ぁ、あ……あ」
その瞬間、ハルは鳴らない心臓が、燃え上がるように熱くなるのを感じた。
自分の体の奥底から、凶暴な感情が這い上がってくる。
それはとても、己が持つ理性などでは、到底押し留めることなど出来ない獰猛な怪物のようだった。
「何でなんだ……っ…何で私の家族を…っ、大切なものを…奪ったんだ…」
ハルは間近にあるリヴァイのアッシュグレーの瞳を見つめながら、喘ぐように嘆き始めた。
ジャン達は、ハルの感情が剥き出しになっている声を、今、初めて聞いた。
自分たちが知っている、穏やかで、優しく、理性的な声とは全く違った。
酷く震えている声には、荒々しく暴力的な感情が滲んでいる。喉の奥で、それが沸だった熱湯のように泡を噴き上げ、上擦った響きを作る。
「私の家族が、何か罪でも犯したの?この世界に生まれて、ただ生きて居ただけだ…それだけで、罰せられたのか…?」
ハルはリヴァイの両掌から、顔をずんと床に落とし、硬く握った拳を、ダンダンと地面に何度も叩きつけて激情した。
「何でっ、あんなことをっ…!!あんな酷いことが出来たんだ!?父さんと母さんを瓦礫の下に押し潰してっ!?弟を喰った…喰い殺した!!私の目の前で!!頭だけ残してぇ!!」
ハルは拳から血が滲む程に床を叩き続けた。
「…許せないよ…っ、絶対に…!!あぁっ、母さん…っ父さん…ユウキ、ヒロッ…私も一緒に死にたかった…!!あの時、一緒に連れて行って欲しかった。辛かったっ、寂しかったんだ…!!怖かったんだ…っ!!!」
其処には自分の全てを奪い取った巨人が居るかのように、何度も、手の骨が折れて腫れ上がり、蒸気が上が始めても、床を叩きつける腕を止めることは無かった。
「あぁ…また…独りになるのか…いや、ずっと私は独りだったのか…っ、今まで傍に居て、くれた言葉は、全部嘘だったのか…っ、アニッ…ベルトルトッ、ライナーぁあッ…!!」
悲鳴、と云うには、怒りがあまりに強すぎて…
叫び、と云うにも、あまりに脆すぎる…
ハルの中で、『あの日』の傷がどれ程深いものであり、三人の存在が如何に大きなものであるのかが、痛い程に伝わってくる…そんな声だった。
ミカサとアルミンは『あの日』、巨人に襲撃を受け、故郷を離れる連絡船の上で、巨人を睨め付けながら「駆逐してやる」と唸ったエレンの姿を思い出していた。
それと同時に、『あの日』に受けた心の傷を、鮮明に思い起こされて、噛み締めた唇から血が滲んで、握りしめた拳に、爪が刺さった。
ジャンはハルの声が響く度、身体が火に炙られたように強張って、喉の奥が震えた。
ハルを苦しめている原因が、本当にアニ達なのだとすれば、自分は三人のことを決して許すことが出来ないと思った。
ジャンはずっと、ハルと決して揺らがない、切れない心の絆で繋がっている三人が、羨ましいと感じていた。
自分がどれだけ努力しても、彼等との絆以上のものを、ハルと築き上げることは不可能だと感じてしまうほどに、その絆はハルの心の深い場所で硬く結び付けられているように見えていたからだ。
しかし、それが偽りの紐で結ばれていたものだとしたら、ハルの心の絶望は、計り知れない。
「く…そ…っ」
ジャンは筆舌し難い衝動に、奥歯を軋む程噛み締めて、ダンッ!と傍のテーブルを拳で叩きつけた。
もう悲しいのか、腹立たしいのか、悔しいのか、自分の感情が混沌と渦巻いていて、馬車酔いをしている時のような目眩すら感じながら、ジャンは額に冷や汗が滲むのを感じた。
「…そうだ、ハル。それがお前の、『本当』の感情だ」
リヴァイは喘ぎ嘆くハルの背中を見下ろしながら、酷く静かな口調であるのに、手に取れそうな程はっきりとした徹る声で言った。
「もう明確だろう。お前が今、何をすべきなのか…」
ハルは、床に顔を押し当てたまま、地面を殴りつけ蒸気を上げる右手で、徐に胸元の御守りを握り締めた。
いつも触れれば、心温まるようなそれは、酷く冷たく無機質なものに感じられた。
それが、とても悲しかった。
ハルは下唇を噛み締め、徐々に右手に力を込めて、首に巻きついている紐を、引き千切った。
そうして緩慢に顔を上げると、涙で濡れた顔で、リヴァイを見上げて言った。
「…この、情を、切り離すことですよね…?」
その声も、表情も、酷く痛々しく、悲しいものだった。
「…ああ…、そうだ」
リヴァイはそんなハルの顔を見た後、首から切り離した御守りを握り締めている、ハルのボロボロの手を見下ろし、静かに瞳を細めると、吐息を吐くように呟き、頷いた。
白く小さな震えている手には、絆を捨て切れていない、ハルの弱さがあった。
まだ希望を捨て切れていない、そんな望みを手放せないでいる、ハルの願いが溢れているようにも見えた。
それでも、リヴァイは咎めなかった。
見なかった事にした。
その感情すら抑制してしまうことは、ハルの翼を捥ぎ取ることと等しいように、思えてならなかったからだ。
第三十四話 『偽りの心臓』
完