第三十四話
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ハルは厩に辿り着くと、愛馬であるアグロの元へ駆け足で向かった。
アグロは突っ張り棒で仕切られ、藁が敷き詰められた小部屋の奥の方で、四肢を折り座り込んでいたが、未だ眠ってはいなかった様子で、ハルの顔を見るや否や「ブルッ」と鼻を鳴らし、歩み寄って来た。
「アグロ…ごめんね。沢山走って疲れているのに…」
顔を擦り寄せて甘えてくるアグロの額を撫でながら、ハルがそう囁いた時だった。
「何処に行くつもりだ」
「!?」
先程自分が入ってきた厩の入り口から声がして、ハルは弾かれるようにして背後を振り返った。
ハルは耳が良く人の気配にも敏感だが、声を掛けられるまでその人物の接近に気付くことができなかった。
そんなことが出来る人物は、この兵団内にそう多くは居ない。
案の定、そこに居たのは、厩の入り口の縁に左肩を寄りかけて、腕を組んで立っているリヴァイだった。
「リヴァイ…兵長…。何故、此処に?足の怪我は…」
ハルは、女型の巨人と交戦した際、左足首を負傷したリヴァイが何故こんな夜更けに、兵舎の外に居るのかが疑問であったが、リヴァイからしてみれば、外出禁止命令が出ている中で、厩に独り潜り込でいるハルの方が余程不審であった。
「それはこっちの台詞だ。こんな夜更けにコソコソしやがって…新種の奇行種にでもなったのか」
リヴァイは鋭い双眸を細めて、訝しげにハルをひたりと睨め付けた。
淡い月明かりだけが辺りを朧げに照らす薄暗い中、鋭く小さな瞳が、夜行性の獣の瞳のようにギラギラと光っている。
「…いつから、気付いてたんですか」
ハルはその視線に、背中にナイフの刃先を突き当てられているような圧迫感を抱き、固唾を呑みながら問い掛けると、リヴァイは胸の前で組んでいた腕を解き、ハルの方へと歩み寄って来た。
「お前が兵舎を出てからだ」
「!…そう…ですか…」
リヴァイの履いている靴の底が、厩の中の乾いた土を擦りながらゆっくりと迫って来る音を聞きながら、ハルは下唇を噛み、視線を足元へ落として、この窮地をどう乗り切るか必死に頭を回した。
しかし、ハルは嘘を吐くのが壊滅的に下手であり、それを自分自身でも自覚していた。勘が鋭いリヴァイが相手なら尚のこと、ハルの三文芝居は通用しないだろう。…そうなれば、最早ハルは懇願する他無かった。
「…リヴァイ兵長っ…!どうか見逃してくださいませんか!どうしてもっ、これから本部を出て、確かめたいことがあるんです!」
リヴァイが首を縦に振るとは微塵も思っていなかったが、ハルがこの状況下で出来ることといえば、それくらいだ。
リヴァイは明白な目的は公言せずただ漠然と懇願するハルの前で足を止めると、足先の小石を蹴るような口調で言った。
「だろうな…?従順なお前が、エルヴィンの外出禁止令を破ってまで確かめたいことなんざそれなりに重大なことなんだろうが……、まあ、残念だったな」
「っ、兵長…!」
ハルは体の横の拳をぎゅっと握り絞め、何とか説得しようと僅かに身を乗り出すが、リヴァイは低い声で打ち据えるように言い放った。
「俺もエルヴィンから命令を受けている。お前を絶対に、本部の外に出すなってな」
「そ、それはどういう…」
「お前が今晩兵舎を抜け出すことを、エルヴィンは既に危惧していた」
「!?」
ハルは自身が予見していたことが的中していたことをこの瞬間に悟り、胸の中に溜まり量を増し続けていた不安が、石でも投げ込んだように大きく波立ったのを感じながら、息を詰まらせその場に立ち尽くした。
動揺を隠せず瞳を小刻みに震わせているハルに、リヴァイは敢えて、じっくりと獲物を追い詰めるように滲み寄り、ハルの胸元へ人差し指を突き付けると、ゾッとするほど低い声と、眼光鋭く差し迫るような表情を向けて問い質す。
「別に驚くことでもないだろう…。お前は既にエルヴィンが、女型の正体に見当付けてるってことには、気付いてたんだろうが?…だからこうやって、コソコソ薄汚ねぇ鼠みてぇなことをしでかした。…お前は今、重大な違反を起こしていやがるってことを、自覚しているのか?」
両手で首を絞められるような威圧感に、背筋を冷たい汗が虫が這うように流れ落ちていくのを感じながら、ハルは酷く乾いた喉を擦るような掠れた声で返した。
「…勿論です」
「…だったら兵舎に戻れ。さっさと戻れば、エルヴィンには言わないでやってもいい」
リヴァイは僅かに眉間に寄せていた皺を浅くすると、ハルから身を引き、両腕を胸元に組みながら踵を返した。
しかし、ハルがリヴァイの命令に従うことはなかった。
「…っ嫌、です」
「…あ?」
リヴァイは背中で聞こえた言葉に耳を疑い、厩の外へ歩き出そうと踏み出した足を止め、顔だけでハルを振り返る。
「私は戻りません。彼女の口から、直接話を聞かなければっ!」
ハルは握り絞めていた両手をより一層強く握り締め、黒い双眼を薄暗い闇の中で異様に光らせながら、リヴァイを屹と睨んでいた。その瞳の中には、怒りを孕んでいるような興奮も入り混じっているようで、リヴァイには今のハルがとても冷静には見えなかった。
「それは俺達の仕事だ。お前の仕事じゃねぇ」
リヴァイはそんなハルを遇らおうとしたが、厩から出て行こうとするリヴァイの右肩を荒々しく掴んで、ハルは引き止めた。
「っ俺達…、とは、どういうことですか?」
「…」
リヴァイの短い返答の中に、ハルには到底無視出来ない意味合いが含まれていた。
それは、女型の正体を突き止める為、何らかの作戦が行われることは既に決定されているものの、その作戦に、自分は参加することが出来ないということだった。
ハルは納得が行かず、灼然と反感を滲ませた声でリヴァイを問い質そうとする。
「エルヴィン団長は既に、何か手を打つことを決めていらっしゃるんですか!?それにっ、俺達…とはっ…?私は…私は其処に含まれていないんですかっ…っ!?」
しかし、リヴァイは肩を掴んでいたハルの腕を容易く跳ね上げると、負傷していない右足で、ハルの顔面に容赦無い回し蹴りを繰り出したのだ。
ハルはあまりに一瞬の出来事で、顔面に激痛と衝撃が走ったことを認識した時には、乾いた土の地面に倒れ込んでいた。
「うっ…ぐ」
顎の骨が軋んで、口の中に血の味が広がる。
頭と視界がくらくらして、切れた口の中が酷く熱く、蒸気を上げるのを感じながらも、ハルは地面に両手を付いて、呻きながら体を起こそうとする。
そんなハルの後頭部を、リヴァイは冷たく見下ろしながら、舌を打つような口調で言った。
「ぎゃあぎゃあ煩ぇな。…ハル、何度も同じことを言わせるな。さっさと兵舎に戻れ」
しかし、ハルはキッと反抗的な目でリヴァイを睨み上げる。
今にでも喉元に飛びついてきそうな程の獣じみた目を、リヴァイはすっと白羽を合わせるようにして睨み返した。
「…ほう」
その目は、地下牢の中で『巨人をぶっ殺したい』と兇悪な本能がのたうち回るような眼付きで言い放っていたエレンの瞳と、リヴァイの中でぴったりと重なった。
「そこまでエレンと同じ地下牢にぶち込まれたいのか。…ハル」
「っぐ」
リヴァイは自身を睨み上げるハルの頭に左足を乗せ、乾いた土の地面に押し付けるようにして、グリグリと踏み付けた。
ハルは顔の皮膚が擦り剥がれそうな痛みに耐えながらも、唸るような声音で言った。
「っ行くなと仰るなら…っ、力ずくでも…通りますっ…!」
「…お前がそんなに馬鹿だったとは、知らなかったな。…だが、まあいいだろう。退屈凌ぎにはなるか…。お前が相手なら、手加減しなくて済みそうだからな」
リヴァイは鼻を鳴らすようにして言うと、ハルは地面の土を引っ掻くようにして握りしめていた両手で、自分の頭を踏み潰すリヴァイの右足をがっしりと掴んだ。
「!」
その手にはハルの細腕からは想像出来ないほどの握力と腕力があり、リヴァイの靴底がハルの後頭部から僅かに引き離され、リヴァイは僅かに目を見開いた。
ハルは顔を地面に擦り付けながら上げると、リヴァイに射抜くような視線を向け、氷のように冷たい声音で啖呵を切った。
「っ…手負の貴方になら、勝ち目だって少しはありますよ」
「…調子に乗るな、クソガキ」
自由への強い渇望と執着、己を抑制されることに対しての過剰なまでの拒絶。
幾ら首輪や枷を付けたところで、絶対に手懐けることは出来ない……まるで進み続けることを、戦うことを強いられる呪いに掛けられているようなエレンの、今のハルはまるで写身のようだと、リヴァイは思った。
しかし、そんな人間をただ野放しにしていては、調査兵団だけではなく、壁内人類にとっても、大きな脅威と成り得てしまう危険性もある。
ハルはこれと決めればそう簡単に意志を変えることはしない。良い意味では直向きと言えるが、悪く言えば頑固者だということを、リヴァイも良く理解していた。
それはハルの長所でもあるが、いつかハル自身を危険に陥れる大きな原因と成りつつもあると、密かに懸念していた。
だからこそ、リヴァイはハルを守る為にも、早々に抑制の釘を打たなければならなかった。
「ハル、これは持論なんだがな…躾に一番効くのは、痛みだと思う。今お前に必要なのは言葉による教育ではなく、教訓だ…」
「っ!?」
リヴァイは自分の中に残っていたハルへの情けを捨て去って、ハルに押し止められていた右足に力を込める。
「!?」
その圧倒的な力にハルは敵わず、再びリヴァイによって後頭部を強く踏み躙られてしまう。
ハルが足の裏で苦しげに呻く声が聞こえるが、もう容赦はしないと、リヴァイは体をぐっと折り曲げるようにして屈み込み、地面に這いつくばるハルの耳元に口を寄せると、ドスの効いた低い声で言い放った。
「しっかり味わって、精々その身に刻むんだな…ハル」
薄い刃物で背を撫でられるような戦慄を感じて、ハルは怯えた目をリヴァイに向けたが、リヴァイはそんなハルの骨を折るような非寛容な目に、犯しがたい物憂げな影を浮かべるばかりであった。
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