第三十話
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晩春に吹く乾いた風が、初夏を間近にして生い茂り始めた葉叢の匂いを連れて、見晴るかす先まで整然と並び続いている墓石の合間を吹き抜けて行く。
もう数えきれないほどの死が築かれた墓地は、まるで両耳をやんわりと掌で覆われているかのように閑かで、歩みを進める度に乾いた土をブーツの底が踏みしめる音と、手にしている木の桶の中で、土汚れを混じえた水が揺れ跳ねる音だけが、耳元で囁きかけるように鳴っていた。
ジャンは頭上に広がる澄清な春空を、徐に顎を上げて仰ぐと、視界の彼方此方にタンポポの綿毛が、南の空に高々と昇った陽の光を受けて光の粒のように煌めき、その中の一つが、まだ着慣れていない兵服のロングコートの肩口に張り付くのが見えた。
その小さな綿毛にフッと息を吹きかければ、再び舞い上がった綿毛が墓地の入り口の方へとジャンの視線を誘った。
其処には水を張った大きな木桶の傍に屈み込み、墓石を清める為、この墓地で貸し出しをしている掃除道具の汚れを、束子を使って一心不乱に擦り落とす短い茶髪に白髪を混じえた中年の男が居て、ジャンは彼に歩み寄ると、少々遠慮がちに声を掛けた。
「あの…すみません。使用済みの水は何処に捨てればいいでしょうか」
すると彼は手元から視線を上げ、ジャンを見上げると、首に掛けていたタオルで濡れた両手を拭いながら立ち上がった。
「あぁ…そのまま、こっちで預かるよ」
「助かります」
見たところ五十歳前後くらいの年齢であろう彼は、薄らと日焼けした顔の目尻に皺を作るようにして微笑みながら、ジャンの手から水桶と、桶の縁に掛けられた二枚のタオルを受け取った。
「君は、兵士にしちゃ随分若そうだが…今期の新兵さんかい?」
彼は手慣れた様子で土汚れたタオルを大桶の中にばしゃりと放り込み、桶の中の汚水をすぐ傍にある地面を掘って作った穴の中へと捨てながら問いかけてくる。
ジャンは彼をこの墓地の管理人だと察しながらも、どうして自分が兵士だと分かったのか疑問に思ったが、ふと自分は調査兵団のエンブレムが入ったコートを纏っていることを思い出して、頷きを返した。
「はい」
「そうかい…」
すると彼は、空になった水桶を静かに足元に置き、首に掛けていたタオルを下ろして神妙な面持ちをジャンに向けると、体をゆっくりと折り畳むようにして頭を下げた。
「…トロスト区襲撃は、本当に突然の不幸だった。ウォール・マリアが巨人に奪われた時もそうだったが、奴等が壁を壊すのは、いつだって突然だ。…この度は、南駐屯地に所属していた104期訓練兵団の子達に、深くお悔やみを申し上げる」
その言葉には静かな慨嘆が滲んでおり、ジャンは急に喉の奥が縄で縛られたように苦しくなってしまって、「ありがとうございます…」と、酷く掠れた声でお辞儀を返した。
それに彼は顔を上げ、引き締めていた表情を僅かに緩めると、ジャンが歩いて来た墓地の北側の方を見やった。
「…君は、今日朝早くからこの墓地に来ていただろう?一緒に居た短い黒髪の女の子も、君と同期の子かい?」
此処ディダーク墓地は、王政が管理するウォール・ローゼ壁内で一番大きな墓地であり、多くの戦死者達が眠っている。
一ヶ月前のトロスト区襲撃の際、命を落とした兵士達は皆、ウォール・ローゼの東部に位置する、この自然豊かな墓地に埋葬された。
しかし、巨人掃討作戦後に遺体で見つかった兵士達は、命を落としてから時間の経過があり、肉体の腐敗も酷く、疫病の流行を抑える為、皆その日の夜に火葬しなければならず、建てられた墓の下に遺骨が埋められている者はそう多くは居ない。
ジャンは彼の視線を追うようにして、自分が歩いてきた道を遡るように視線を向ける。
戦死者の数を言葉で聞かされるのは一瞬だが、こうして何処迄も並び建つ墓石の前に疼くまり、嘆く人々の姿を目にする度に、数字で一括りにされた命一つ一つには大切な家族が居て…愛され、そして愛していた人が居たのだということを痛感させられた。
「はい。アイツはいろいろあって、仲間の火葬に立ち会えなかったので…。壁外調査に出る前に、墓参りをと…」
ジャンは乾いた風に短い前髪を揺らし、琥珀色の瞳を細めながら静かな口調で答えると、彼はジャンに再び体を向けて、気遣いげな表情を向けた。
「…確か、次の壁外調査は二日後だったな…。此処に足を運ばなくてはならない人達が、増えてしまわないことを祈るよ…。くれぐれも、気をつけてな」
ジャンは彼に「ありがとうございます」と敬礼を返し、自分が先程歩いてきた道を、戻る。
その途中で、104期の同期だったミーナと、トーマスの墓の前を通り、ジャンは足を止め、哀悼の意を表すよう敬礼を捧げる。
二人の墓の前には、黄色い菊の花束が置かれ、春の風にその花弁を揺らしていた。その花は昨日、ハルが訓練終わりに閉店間際の花屋に飛び込んで、急かされるように選び、今日の為に用意していたものだった。
今日は第57回壁外調査が行われる二日前の、調査兵団に入団して初めて迎えた休暇日だった。
ハルは調査兵団から監視を受ける身ではあったが、エルヴィン団長に友人の墓参りに行きたいと外出許可を貰いに行ったところ、監視役のジャンが同伴し、夕方までに本部に戻ることを条件に許可が貰えた為、朝一番のウォール・ローゼ東部に向かう馬車に乗って、このディダーク墓地にやって来たのだった。
ジャンはしばらく墓地の北側に向かって歩いて行くと、真新しい墓の前で両膝を折り、じっと墓石を見つめているハルの姿が見えた。
その墓石には、マルコ・ボットと名前を刻まれていて、ハルが供えた勿忘草の花束が、小さな白い花を風が吹く度、波紋のように音も無く揺らし、同じ風がハルの長く伸びた前髪を指先で梳くように靡かせていた。
「……」
ジャンはその前髪から時頼垣間見える、黒い瞳の輝きを、その場に立ち尽くし、無意識に息を潜めるようにして見つめていた。
元々色白のハルの横顔は、春の陽光に照らされて、より白さと儚さを増し、柔らかな短い髪の黒を、際立たせている。
ハルは調査兵団に入団してから、少し痩せてしまった。
自分の身に未だ隠れている『未知の力』の解明が中々進んでいないことによる心労が大きな原因の一つだろうが、味覚を失って以前のように食が進まなくなったのも影響しているだろう。その上、リヴァイ兵長による回転斬り習得の為の特訓にも明け暮れ、夜は自室のデスクに突っ伏したまま眠ってしまって、ジャンがベットまで運ぶことが何度もあった。
しかしジャンにはもっと他に、別な理由があるとも考えていて、それはジャンだけではなくハルの同期であるサシャ達も同じ懸念を抱いていた。
それは、ハルがトロスト区奪還作戦後に目覚めてからまだ一度も、涙を流せていないということだった。
訓練兵時代は酷く涙脆く、同期達のみならず後輩達にまで笑われていたハルが、だ。
ハルはマルコの墓石を見つめながら、徐に纏うロングコートの上から、左胸に手を押し当て、其処を握りしめた。…そして、ぐっと下唇を、噛む。
すると墓地に乾いた風が吹き抜け、その風に靡く前髪の隙間から、ハルの瞳が悽愴に揺れているのが見えて、ジャンは咄嗟に口を開いていた。
「っハル」
名前を呼ばれて、ハルはハッと我に帰ったように両肩を跳ね上げて、ジャンを見上げた。
「っ、ジャン…」
ハルはその場に立ち上がると、左胸を握りしめていた手を頭の後ろに隠すように回して、目元を震わせるような、ぎこちない微笑みを見せた。
「ごっ、ごめん!気づかなくて…、水の捨て場所は墓地の入り口の方で正解だった?」
「…ああ、丁度此処の管理人が居たから、借りた桶も回収して貰えたよ」
「そっか、良かった」
そう言って肩を竦めるハルに、ジャンは浅く息を吐いて歩み寄ると、ハルと掃除したばかりでまだ水気を残しているマルコの墓を見下ろした。
この墓には、マルコの名前が刻まれているものの、墓の下に遺骨はない。それは、ミーナやトーマス達も、同じだった。
あの夜、全てを焼き尽くす大きな赤い炎に焼かれ、残った骨はもう、誰のものとも分からなくなってしまった。
「…もう、あれから一ヶ月が経つんだな」
ジャンは墓石に刻まれたマルコの名前を見下ろしながら、独り言のように呟きを落とすと、ハルもジャンと同じように、マルコの名前を一文字一文字、目で追いながら呟いた。
「…うん。本当に、あっという間だった。まだあの日のこと、昨日の事のように思い出せるのにね…」
解散式を終えた翌日、壁上固定砲台の整備をしている時、突然現れた超大型巨人が外門を蹴り破ってから、多くの人が死んだ。
巨人に仲間が喰われる姿を目の当たりにし、鼻を突くような血の匂いと、耳を劈くような悲鳴が、ハルの人生に置いて最悪の日を彷彿させた。
父と母を失い、最愛の弟達を失い、帰る場所も失って、もうこれ以上失うものなんて、ないと思っていた。
それでも、また失ってしまった。
家族の次に失ったのは、全てを失った先で見つけた…大切な友人達だった。
ハルはふと、自分の手首に巻きついている、色とりどりの糸で紡がれたミサンガへと視線を落とした。それはハルの誕生日に、仲間達が交互に紡いで作ってくれた、ハルの中で胸元に揺れる母の形見と同じくらいに大切なものだった。
今はもう、会うことは出来なく無くなってしまったマルコの温もりが、此処にはまだ残っているような気がして、ハルは右手でぎゅっと、ミサンガを巻いた左手首を握り締めた。
その時、隣に居たジャンが、マルコの墓石を見下ろしたまま、ゆっくりと息を吐き出すように、掠れた声で話し始めた。
その声は閑かな墓地に漂う空気に溶けて消えてしまいそうな程に、儚げだった。
「…トロスト区の本部でガスの補給してた時…マルコから、言われたことがあるんだ」
ハルはゆっくりと瞬きをしながら、視線を隣に立つジャンへと向けると、マルコの墓を見下ろすジャンの瞳の中には、陽炎のような憂いが漂い、目元には寂しげな影が揺れていた。
「…マルコは、何て言っていたの?」
ハルはそんなジャンの横顔を見つめながら静かに問い返すと、ジャンは顎を上げ、晴れた空を流れ行く真っ白な綿雲を眺めながら、頭の中にある記憶の本のページを捲るように、ゆっくりと話し始めた。
「『ジャンは強い人ではないから、弱い人の気持ちがよく理解できる。それでいて、現状を正しく認識することに長けているから、今、何をすべきか明確にわかるだろ?』って。だから指揮官向きだって…そう言われてよ」
「…マルコが…」
ハルはジャンの言葉の中にマルコらしさを感じて、口元が自然と綻ぶような笑みをそっと浮かべて、ジャンと同じように、青々と透き通った空を仰いだ。
「…けど、そう言ってくれたあいつは死んじまった。誰に看取られることも無くな。…山のような仲間の死体を焼いたあの夜、次々と骨になってくのを眺めてたら、もうどれがマルコか分からなくなってよ。でも、足元に落ちてた誰のものとも知らねぇ骨の燃えカスを見てたら、あいつの言葉を思い出したんだ。…それで俺は、調査兵団に入ることを決めた」
終わりのない広大な空を、一羽の鷹が大きな翼を広げて、ディダーク墓地の上空を優雅に旋回して飛んでいる。
ハルはそんな鷹を見上げながら、マルコと共に過ごした時間を思い起こすようにして言った。
「…マルコは物事を俯瞰して見れる力があって…、人の本質をしっかりと見つめてた。独断とか、偏見っていう言葉の概念が、マルコには全く無くて……。だからこそ、マルコがくれる言葉は全部、此処に…残るのかもしれないね…」
胸元に手をそっと置いて、囁くようにして言ったハルを、ジャンは見つめる。すると、ハルもジャンの琥珀の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「…マルコがジャンに伝えた言葉は、君の本質を突いていて、自分自身でも大切にしなきゃならないことなんだって、そう思っていることだから…。きっと、ジャンの心の中に、残ってるんだって…私は、そう思うよ––––」
ハルは纏うロングコートの胸元をぐっと握りしめ、まるで花開くように、澄んだ瞳を綻ばせて優しく微笑む。
若草の香りを乗せた微風に柔らかく細い黒髪を靡かせて、自分を真っ直ぐ見つめてくるハルの姿が、瞳と心臓の奥深くに焼き付いてくるようで、ジャンは微睡みの中にいるやうな心地で、浅く吐息を吐き出すように、「…ハル」と呟いた。
するとハルは瞳を撫でるようにゆっくりと瞬きをして、視線をマルコの墓石へと落とし、片膝を付いた。
それから、まるで壊物に触れるかのように優しく、細い指先でマルコの名前をなぞりながら言った。
「…マルコは、私達にとって…止まり木みたいな存在だったから…、何だか、また一つ、帰る場所を…失ったみたいだよ…」
「っ」
ハルの寂しげな声に、ジャンは悲しみが胸の底から突き上げてきて、喉の奥が引き攣って息を呑む。気を抜けば嗚咽が喉を鳴らしてしまいそうで、喉につっかえている熱い塊を飲み込もうと握りしめた掌に、爪が食い込む感触がした。
「マルコ…、私もジャンも、君が居ないと…寂しいよ」
ハルの嘆きが、乾いた風に攫われて行く。
この風がもしも、マルコが居る場所まで届いたらなら、あいつはハルに似て涙脆いからきっと、泣き出しちまうんだろうなと、ジャンは墓石に額を押し当てるハルの背中を見下ろしながら思い、奥歯を噛み締めた。
そんな時だった…
「…あの」
不意に女性の声がして、ジャンとハルは顔をそちらへと向けた。
其処には、胸元まで伸びた栗色の髪と、頬に薄らとそばかすを浮かべた女性が、腕に紫陽花の花束を抱えて立っていた。
「…もしかして、息子の、お友達…ですか?」
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