第二十八話
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その後、エレンはリヴァイ班の一人であるオルオに戻ってくるよう指示を受け、ミカサ達も夕食の時間が近づいてきていた為、名残り惜しく思いながらもエレンと別れ、食堂へと戻ることにした。
ハルはジャンを探してから食堂に向かうとミカサ達に伝え、ジャンが向かった武器倉庫の裏口へと足を進めると、木造の開き扉の、木と木のつなぎ目の間から、ジャンが裏口の扉に寄り掛かっているのが垣間見えた。
それにハルはふっと笑みを浮かべて、その扉は開けず、薄く古びた扉越しに、ジャンと背中を合わせるようにして寄りかかった。
「…ジャン、此処に居たんだね」
「!」
不意に寄りかかっていた扉が小さく軋み、板越しだがハルの背中の温もりを感じて、少し驚いたように息を呑んだジャンだったが、振り返ることはせず、背を扉に寄せたまま、徐に橙色に染まった空を仰いだ。
「…ああ。…エレン達はどうした」
「エレンはリヴァイ班のオルオさんに呼ばれたから、皆も先に食堂に戻ってるよ」
「そうか…、悪かったな。フォロー、してもらっちまって」
「謝ることない」
ジャンが重々しい溜息を吐きながら、頭上を流れて行くわた雲をぼんやりと眺めながら言うのとは対称的に、ハルは涼風のように楽観的な言い方で返した。それは軽く放たれた短い言葉だったが、不思議とその中にハルの人情深さのようなものを感じて、ジャンはその情に導かれるように、胸の内を打ち明けた。
「俺だって分かってんだ…アイツも今、辛ぇんだってことくらい…。…だが、俺達だって、簡単に譲れない大事なもんを賭けて調査兵になったんだってことを、アイツの頭にどうしても叩き込んでおきたかったんだよっ……俺自身の為にも、アイツらの為にもよ…–––」
恐らく壁内の人類は、この先エレンという存在失くして、ウォール・マリアを奪還することは不可能に限りなく近い。
よってエレンの活躍次第で、人類の行く末が決まると言っても、過言ではないのが現状だった。
104期生の中で一番の現実主義者であるジャンが調査兵になることを選ぶに至ったのには、マルコ達の死によって背中を押されたというものもあるが、巨人化が可能なエレンという飛躍的手段を得たことによって、ウォール・マリア奪還への道が開けたという点も、少なからず決断に影響を与えていた。
ハルはジャンの言葉に頷き、緩く瞳を閉じると、詩集を読む時のような、ゆっくりと穏やかな口調で言った。
「うん。分かってる。…自分が背負っているものが何なのかを、知っておくことは大事なことだ。それは、私もジャンも、トロスト区襲撃の時に、痛い程思い知らされたもの」
「…っ」
ジャンはトロスト区が巨人によって襲撃された日、ガスを補給するため本部へと向かった時のことを思い出して、唇を噛んだ。
死の恐怖に慄く仲間たちにはっぱをかけ、本部へ向かうよう指示を下したあの瞬間に、仲間たちの命が自身の背にのし掛かかった時の恐ろしさが、鮮明に蘇ってくる。
それはハルも同じだった。
エレンがトロスト区の広場にあった大岩を運ぶため、巨人達を壁に引きつける作戦の指揮補佐を担っていた時も、自分の判断ミスが仲間の死に直接繋がるのだという恐怖を、今でも手に取るように思い出すことが出来た。
だからこそ、ハルにはジャンがエレンに向けた言葉の中に、彼なりの不器用な思いやりがあったのだということも、理解していた。
「それにさ、…誰かの命を背負って前に進まなきゃいけないことが、どれだけ辛いのかってことも、ジャンは良く分かっているから。…自分やみんなの為だけじゃなくて、エレンの為でも、あったんだもんね?」
「っ!」
その言葉に、ジャンは思わず吸った息を引き切った。
「相変わらず君は仲間思いで、優しいね」
そして次に続けられた言葉に、顔の半面を片手で覆って、苦笑しながら俯く。自分に対して優しいだなんて言う馬鹿は、ハルと、そしてマルコぐらいだろう。
「っお前な、少し人に甘過ぎじゃねぇか?…なんか、年下扱いされてるみてぇで…、気に喰わねぇ」
少し拗ねたような口調になって言うジャンに、ハルはくつりと喉を鳴らして笑い、顎に手を当てる。
「まぁ、実際に私の方が年上ではあるけれど…」
「っ」
ジャンはその言葉が妙に気に掛かって、思わず後ろを振り返った。古びた扉の、板と板の間から、ハルの背中が見えた。
「でも歳上だからって、君や皆に甘いわけじゃない」
ハルは囁くように、それでも切実な思いを乗せるようにして言った。
「ただ、好きなだけなんだ。…みんなのことも、ジャンのことも。堪らなく、好きなだけだよ」
そう言って自身の左胸に掌を押し当ててたハルが、今どんな顔をしているのか、ジャンは見たくて堪らなくなった。
しかし、今ハルの顔を見てしまうと、本能的に危うい気がして、ジャンは扉を開けてしまいたくなる気持ちを押しとどめるように、額を片手で抑え、溜息混じりに言った。
「…お前ってほんとに、しょうがねぇな」
ハルの言葉にはいつも翻弄されている気がするが、一度も不快と思ったことがないのが、我ながら不思議だった。
ハルに甘いと言っておいて、自分も相当ハルには甘いなと、心の中で思っていると、ふと背中に張り付いていた扉が微かに揺れた。
それはハルが扉から離れた振動で、すぐ横にあった上げ下げ式のガラス窓押し上げ、ひょいっと上半身を乗り出し、ハルはジャンの方を見てニッと笑った。
「自分でもそう思う。…っほら、そろそろ食堂、戻ろ?」
そう言って自分に手を伸ばしてくるハルの顔を見て、頭の端で「あぁ、まずい」なんてことを思いながら、ジャンは殆んど無意識にその手を掴んで引いていた。突然のことに「うわ!」と驚いて声を上げたハルが、体のバランスを崩して倒れ込んでくるのを良いことに、ジャンはハルの頭の後ろに、空いていた片方の手を回して、その唇にキスをする。
人とは欲深いもので、ハルの唇の柔らかさを知って、一つ知ればまた次と、知りたくなってしまう。
以前は一瞬、触れるだけのキスだったが、今回はハルの温もりをしっかりと感じ取るように、瞳を閉じて、長く触れる。
すると、ハルの鼻から、少し苦しげなうめき声が漏れた。
「んっ…」
それは酷く甘くジャンの鼓膜を震わせた。こめかみの辺りが、弱い電流が走ったようにビリッと痺れ、思わずハルを引き寄せる腕に力が篭ってしまう。
もっと、もっと先を知りたい。
ジャンは獣じみた本能が、胸の中に突き上がってくるのを感じて、閉じていた瞳をゆるく開く。
そこには、眉先を眉間に寄せ、ギュッと目を閉じ、頬を赤く染めたハルの顔があった。
そして、ジャンに掴まれていない右腕を、自由の翼のエンブレムが刻まれた左胸のポケットの辺りに押し当て、そして握りしめる。…すると、瞑られていた目尻が、一瞬悲しげに震えたのを、ジャンは見逃さなかった。
「っ」
その顔を見て、ジャンは荒々しく昂った感情が、急に冷水でも掛けられたかのように消え失せて行くのを感じた。
ジャンはハルの唇と体から離れ、急に這い上がってきた自己嫌悪と気まずさに、腕を組んだり、首を攫ったりしながら、視線と口を泳がせる。
「いっ、いや…ハル、…悪かった、突然こんなっ…ムグ!?」
しかし、不意にハルの手が伸びて来て、ジャンの口を塞いだ。
ジャンはそれに目を皿のように丸くしてハル見下ろすと、ハルはジャンから顔を見られないように顔を逸らしたまま、言った。
「…謝らなくてっ、良い」
「!?」
ハルの逸らされた横顔は、前髪が目元を覆ってしまっていて、表情は窺えなかったが、黒髪から覗いている形のいい耳の先が、赤く染まっているように見えるのは、夕陽の所為だけではないだろう。
「別に、怒って…ない。ただ、いつも急だからっ…少し驚いていて…っ」
「…」
その言葉には、何処にも拒絶や嫌悪感が見当たらない。それは自分が良いようにハルの言葉を捉えようとしているからなのかもしれないが、ハルは一度も自分のことを、突き放したことがない。
それは彼女が甘すぎるからなのか…或いは、ほんの少しでも、自分のことを受け入れてくれていたりなんて…しているのか、とか。
そんな淡い期待を、瞬きする間に一瞬抱いたりもしたが、それはあまりにも都合が良すぎる話だと、心の中から払い出しながら、ジャンはハルから少し距離を取るように、半歩下がった。
「…お前、やっぱ甘すぎる。そんな無防備じゃ、東棟で易々と一人になんて、出来ねぇだろ…今のだって、嫌だって思ったなら、突き飛ばして怒っていいんだぜ…?」
そう言うと、ハルはジャンの口元に押し当ていた手を引いて、その掌を見下ろした。
そして、耳を欹てていないと聞こえないほどの小さな声で、呟いた。
「…そう、しようと、思わなかった…」
「………は?」
ジャンはその言葉があまりに予想外なものだったので、頭で理解するのに時間が掛かった。
呆然とするジャンに、ハルは相変わらず顔を逸らしたままだったが、見下ろしていた掌を、徐に自分の口元に寄せ、唇を僅かに触れさせながら、雪解けの雫が、土に落ちる時のように、静かに、言葉を落とす。
「君には…特別、甘い人で居ても、いい気がしたんだ…」
「っ!?」
その言葉、声、仕草…全てを見落とさないように、ジャンは息を呑んで、両目を大きく見開いた。
淡い夕陽の光を帯びたハルの黒髪が、夕風にふわりと靡くと、伏せられた長いまつ毛と、優しげな目元が垣間見えた。
掌に唇を押し当ているハルの横顔を見ていると、第三者として、自分とキスをしている姿を見ているように錯覚させられる。
「ハルっ…それって、どういう意味だ…」
ジャンが少し上擦った声で問いかけると、ハルは少し間を開けてから、ハッと我に返ったように両肩を跳ね上げた。
「!?あっ、あの…っ、今のは…っえっと…!」
ハルは自分の先程の行動を思い返して、慌てふためきながら窓から後ずさる。その間ジャンは熱い視線でハルを射抜くように見つめていて、ハルは堪らなくなって逃げ出すように裏口の方へ走ると、バタンと大きな音を立てて扉を開け放った。
そしてドアノブを握ったまま、ジャンに真っ赤な顔を向けると、何故か両眼をギュッと瞑った状態で啖呵を切った。
「がっ、外周に行ってくる!!」
「は?」
ジャンがその言葉に素っ頓狂な声を上げると、ハルは物凄い勢いで走り出し、裏口の扉は開けっ放しにしたまま、訓練場の方へと物凄い早さで駆けて行ってしまった。
「おっ、おいハル!?」
ジャンはハルを呼び止めたが、羞恥心で我を忘れているハルが立ち止まる筈もなく…。追いかけようとも思ったが、自分の心臓が五月蝿くて、顔も酷く熱かった。こんな顔を、ハルに見せられるわけもないし、そもそも今ハルの背中を追い駆けても、足の速いハルに追いつく前に心臓がはち切れてしまうような気がする。
「な、ん…だよ。それっ」
ジャンはガシガシと頭を掻いて、疼く胸元へと視線を落とした。そこには真新しい深緑色のローブの下から覗く、自由の翼が見える。
ジャンはハルの感触が残る唇に触れるように、掌で口元をそっと覆い、その中に呟きを溢した。
「期待すんだろっ…今のはっ」
完