第二十七話
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ハルは俺の瞳を見つめていた双眸を静かに細めると、ふとその視線を、閉じたガラス窓へと向け、長い睫毛を伏せるようにして、ゆっくりと話し出した。
「…ジャン、私ね…調査兵団本部で目が覚める前に、夢の中でマルコに会ったんだ」
「…マルコに?」
「うん」
ハルは瞬きをする様に小さく頷くと、先程俺が閉めた窓の外側を、雨水が小さな川を作って、音もなく流れ落ちていくのを指先でなぞるように触れる。
そして徐に目蓋を閉じると、頭の中に残っている記憶を、思い起こすようにして言った。
「其処はどこまでも続いてる…終わりが見えないくらい長くて大きな川の、始まりの場所で……上手く説明できないけど、今まで見たこともない、不思議なところ…だったんだ」
「…マルコは其処で、何か、言ってたか?」
俺がそう問いかけると、ハルはゆっくりと目蓋を開いて、一つ一つの言葉を、大切に布で包むような、そんな丁寧な口調で、言った。
「『ジャンのこと、頼んだよ』って––––そう、言っていた」
「!?」
思わぬ言葉に胸が詰まって、息を呑んだ俺に、ハルは顔を向けた。
最後の最期まで、自分の事ではなく人のことを心配していたマルコに呆れ果ていながらも、心の何処かではマルコらしいとも思っていた。それはきっとハルも同じだからこそ、泣き笑うような表情をしているんだろう。
しかし何よりも胸に鎌首を擡げる思いは、何でマルコが死ななきゃならなかったんだという、何とも単純な、そして凶悪な憤りだった。
「っ…んだよ、それ…」
俺はその思いを噛み殺そうと奥歯を噛み締めて、顔の半面を片手で覆い、もう片方の手をベットのシーツの上で握りしめた。
マルコは誰も見ていない場所で孤独に、巨人に体の半分を噛みちぎられて死んでいた。きっと恐ろしかっただろう。痛かっただろう。悔しかっただろう。マルコのその時の心情を、巨人に喰われる光景を想像するだけでも、血反吐を吐いてしまいそうだった。
そんな無念の思いに駆られ、必死にその感情を押し殺そうと握りしめていた手に、ふと、柔らかな温もりが触れた。
それは俺の手よりも一回り小さな、ハルの右手だった。
「夢の中のマルコは…笑ってた。…それに、マルコにはちゃんと、ミーナやトーマス達がね、迎えに来てくれてたんだ」
「…っ」
その声音と言葉は、傷口に薬を塗った時のような安堵感を与えてくれた。
マルコにはせめて、苦しんだ先に辿り着いた場所では、穏やかでいて欲しいと願っていた。決して孤独ではなく、誰かがアイツの傍にいてやって欲しいと…。
俺は握りしめていた拳から力が抜けていくのを感じながら、落としていた視線をハルに向けた。
「…お前のことも…その時は誰か、迎えに来てたのか?」
その問いに、ハルは目を伏せて、首を横に振った。
「ううん。私には、誰も…」
しかしそれも一瞬のことで、ハルはすぐに顔を上げると、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「でも、君が、呼んでくれた。ジャンが私のことを、この世界に引き戻してくれたんだ」
ハルは自身の額を、俺の額にそっと寄せると、まるで川の湧き水のように澄んだ声で、真っ直ぐに想いを伝えてくれる。
「まだちゃんとジャンに、お礼を言えてなかったから…随分遅くなってしまったけど––––ジャン、本当に…ありがとう。私のことを諦めないで、名前を呼び続けてくれて…、信じていて、くれて…」
そして、相変わらず泣けてきてしまうくらいに、綺麗な笑顔を浮かべて言った。
「本当に、ありがとう…!」
「…っ」
自分の傍で微笑んでくれるハルを失わずに済んだことだけが、何よりも今の自分にとって、唯一の救いになっていた。
なぁ、マルコ。
俺はハルに、守って貰えなくたっていいんだ。
ハルのことは俺が、守る。
だから、俺のこともハルのことも、余計な心配、しなくていいからな…。
そう、もう遠くへ行ってしまったマルコに思いを馳せながら、顔の反面を覆っていた手を、ハルの細い腰に回して抱き寄せる。
「もう、二度と御免だ。あんなお前の姿を見るのも、あんな思いを…すんのも」
そして、ハルの温もりを確かめるように、白いシャツから顕になっている首筋に唇を寄せて、祈るように言った。
「三度目は、もう無しにしてくれよ」
「…うん」
ハルが頷いた時、外の広場の鐘が、ガランガランと甲高い音を立てて鳴り響いた。
「…起床の鐘だね。私も早く着替えて、準備をしないと…!?」
それにハルはハッとしたように俺から体を離して、ベッドから降りようとした。
俺はハルが自分の腕の中から離れていくことが名残惜しくて、反射的にハルの細い手首を掴んで、自身の元へと引き戻した。
「ジャ…っ、」
思いがけ無いことに驚いたハルは、背中から倒れるようにして俺の腕の中に戻ってくる。
その時にハルの白い頸が見えて、俺は吸い寄せられるようにして、其処へと唇を押し当てた。
「っ!?」
そうすると、びくりと体を震わせて反射的に逃げ腰になるハルの身体を、抱き竦めるようにして両腕で押さえ込む。
「ジャ、ンっ」
それに体を強張らせて、上擦った声で俺の名前を呼ぶハルの頸から唇を離すと、熱い息が溢れた。
「っ悪い…我慢、出来なかった」
「……っ…!?」
無意識に声に唸るような響きが混じると、ハルは息を呑んで身じろぐ。目の前の白い頸と、両耳の後ろが、じんわりと赤くなるのが見えた。
ハルのことは後ろから抱き竦めている為、顔を見ることは出来なかったが、物凄く動揺しているのは明らかだった。
そんなハルに嗜虐心が込み上げてきて、俺はハルを抱き寄せる腕に、僅かに力を込めた。
「なぁ、…ハル」
「な、に、…?」
動揺しながらも律儀に返事をするところがいじらしいと思いながら、ハルの赤くなった右耳に唇を寄せる。
「いつか、お前のこと…無理矢理に奪っちまうかも、しんねぇから。今のうちに、謝っとく」
そして、吐息を吹きかけるように、意識的に声を低くして、囁く。
「その時、驚かせて泣かせちまったら…ごめんな」
「っ!?」
そうすると、ハルは明らかに体を硬らせて、震えた息を吐き出した。その愛らしい反応に、俺はそのままハルに噛み付きたくなる衝動を必死に抑え込んで、ハルを腕の中から早々に解放して、ベッドから立ち上がった。
「…外の廊下で待ってる。お前の分のタオルは俺が持っとくから、まずは顔洗いに行くぞ。着替えが済んだら、出て来いよ?」
「えぇ?あ、うん…っ」
今ハルの顔を見てしまうと、歯止めが効かなくなるような予感がして、俺はハル振り返らず、平静を装いながらと早足になって自室に戻る。
そんなジャンを見送ったハルは、ベッドに腰を落としたまま、ジャンの唇が触れた頸に触れながら、動揺し震えた声で呟く。
「い、今のは一体…何だったんだっ…?」
それから、徐に自身の左胸に右の掌を、押し当てる。
「…ここは静かなままなのに、…顔が、熱いっ…」
相変わらず心臓の鼓動は触れないのに、体を巡る血が妙に熱くなっていることに、ハルは困惑しながら、一人になった部屋で、ポツリと呟いたのだった。
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