第二十五話
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底知れない暗闇の中で、何処からか川のせせらぎが聞こえてくる。その水の流れる音は、次第に大きくなって来て…どうやら自分は、川の浅瀬に仰向けになって倒れているのだと気がついて、漸く私は重たい目蓋を緩慢に押し上げた。
しかし、目を開けても、視界に広がった光景は目蓋の裏に広がる暗闇と殆ど変わらない。星も月も、雲さえも無く、何処迄も虚で、自分が今本当に目を開けているのかも疑わしくなってしまう程だった。
私は身体に鉛のついた鎖でも巻き付けられているかのように重い体を起こすと、手をついた場所でパシャリと水が跳ねた。その川の水は冷たくもなければ、ましてや温くもない。水に触れているという感覚はあるけれど、温度という概念が、今の自分には全く、失われてしまっているようだった。
「此処は…一体何処なんだろう。こんなに大きな川…、今まで見たことがないよ」
ハルはゆっくりとその場に立ち上がり、困惑しながら辺りを見回した。
倒れていた川はとても大きく、そして終わりが見えないほど遠くまで流れ続いていた。どうやら、川の先へ進めば進むほど、深さが増しているように見える。水は足先や、底を埋め尽くした白銀に輝く細かな砂まではっきりと見ることが出来る程透き通り、川自体が淡く発光しているようで、それ以外の場所は暗い虚無の空間となっているようだった。
ハルには此処が何処なのか全く検討も付かなかったが、この神秘的な川の始まりが、まさに自分が倒れていたこの場所から始まっているということだけは理解できた。
ハルは此処に来る以前の状況を思い出そうとしたが、頭の中は濃い霧がかかっているようにぼんやりとしていて、その霧の中を懸命に探ろうとすると、酷い頭痛に見舞われて思考が止まってしまう。
ハルは鈍器で頭を殴られるような痛みに小さくうめきながら頭を押さえて、不安や焦りといった感情が、胸の中にじんわりと広がって行くのを感じた。
「(トロスト区は一体どうなったんだろう?エレンは壁を無事に、塞げたのかな…?っそうだ…!ダズは、皆は…無事なの…!?)」
ハルは頭の中の霧が、徐々に晴れていくに連れて、ゆっくりと記憶を取り戻して行った。
エレンが巨人化に成功し、超大型巨人に開けれた穴を塞ぐため、大岩を運んでいたところを、護衛するために加勢に入ったこと。そこで、イアン班長が巨人に捕まれたところを目撃し、助けようとしたこと…。そしてその後、自分は飛びかかってきた巨人に捕まれ、自分を助けようとしたダズが、巨人の攻撃を受けて地面に落下してしまったこと…そして、それからーーー
「それ以上は駄目だよ」
「!?」
不意に背後から声がして、ハルは突然教官に名指しされた時のようにはっと息を呑み、びくりと肩を跳ね上げた。そこで自分は無意識に、川の奥へと向かって歩き出していたことに気がつく。足首程度までしかなかった川の水は、いつの間にか自分の膝下まで深さを増していた。
「ハルは、行っちゃ駄目だ」
その声は耳馴染んだもので、ハルには振り返らなくても誰のものなのかは分かったが、背後で声が聞こえたのにも関わらず全く人の気配を感じられず、違和感を抱きながらゆっくりと後ろを振り返った。
「マルコ…?」
そこにはハルが想像した通りの、マルコの姿があった。
先程辺りを見回した時には誰の姿も無かったのにと驚き戸惑っているハルに、マルコは肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「驚かせちゃったね」
マルコはゆっくりと、水面を静かに蹴り上げながらハルの元へと歩み寄ってくる。ハルは近づいてくるマルコが、自分程今のこの現状に戸惑っているようには見えず、この場所が何処なのか知っているのではないかと思い首を傾げた。
「マルコ…此処は、何処なの?」
しかし、マルコはハルの前で足を止めると、ゆっくりと首を左右に振って、ハルの肩越しからどこまでも流れ続いて行く川の先を見つめて言った。
「さあ、僕も分からないんだ。気がついたら、此処に居たんだ…」
その声には何処か虚脱感と、語尾をため息のように吐き出すような哀調の響きがあった。マルコが自分の肩越しに見つめている先に、その感情が向けられているように思えて、ハルは再び川の先へと振り返ったけれど、やはりそこには川が流れ続く景色しか無く、見えるのは吸い込まれそうなほどに暗い、闇だけだった。
「…私も一緒なの。おかしいよ…トロスト区にこんな場所なんて無いのにーーさっき迄、私たちは巨人と戦って……っ」
ハルは先程まで自分が置かれたいた状況を再び思い起こしながらそう言うと、ふとある瞬間が頭にフラッシュバックして、息を呑んだ。
それは、自分の体が巨人によって宙に投げ出され、建物の壁に衝突し、身体が押し潰された時の瞬間だった。
ハルはその時の一瞬よりももっと短い刹那に感じた、凶悪な痛みを思い出して、身を強張らせた。
そんなハルを気遣うように、マルコは青褪め立ち尽くしているハルの右肩を掴んだ。
「思い、出した…?」
そう言って、顔を覗き込んできたマルコに、ハルは震えた唇で問いかける。
「私…死んだ、の…?」
すると、マルコは頷く代わりに一度、大きく瞬きをした。
それを見たハルは息を呑むと、動揺し震えた手でマルコの両腕を縋り付くように掴んだ。
「そんなっ…じゃ、じゃあ…マルコっ、君も…!?」
死んでしまったの?と、酷く焦燥した顔で問いかけてくるハルに、マルコは一瞬驚いたように目を丸くし、それから呆れたような、そしてほんの少しだけ嬉しそうに目元を緩ませて微笑んだ。
「ハルは、相変わらずだね。自分が死んでるかもしれないのに、僕の心配なんてするんだから…」
「マルコ…」
マルコは徐に、足元の水を両手で掬い上げ、手の中にできた小さな水溜りに映り込んだ、自分の顔を見つめながら呟くようにして言った。
「…此処は…多分、黄泉の国に行く、道…なんだと思うんだ」
「どうして…そう思うの?」
ハルは首を傾げて問いかけると、マルコは手の中の水溜りを指の隙間から落とし顔を上げて、川の先を指差す。
「何と無く、そんな気がしてるだけだよ。…だって、さっきからずっと…」
そして双眸を細めると、額に悲痛な影を浮かべて言った。
「向こうで、ミーナやトーマス達が、僕を呼んで、手を振ってるんだ」
「!」
ハルはマルコの指先を追いかけて川の先を懸命に目を凝らして見つめたが、マルコが言うように、ミーナの姿も、トーマスの姿も、そして自身の家族、誰一人の姿も見つけることは出来なかった。
ハルはそれに酷く落胆し、肩を落とした。
「誰も、見えないよ…」
自分はやはり、マルコが導かれるべき場所である、ミーナ達の元へも、そして自身の家族の元へも、行けないのだということを、目の当たりにしたようだったからだ。
「ーーー私が行く場所は…マルコやミーナ達とは…違うんだ。きっと…、ううん。そうに決まってる。私はやっぱり、天国には…行けないんだ」
やはり自分が過去に犯した罪は…家族を巨人から誰一人として守れなかった罪は、死んでも許されるものではなかったということなのだろう。そうと分かっては居たけれど、この先どれだけの時間を、孤独に過ごしていかなければならないのか…想像すると、酷く途方もないようで、その絶望感に表情が顔から剥がれ落ちた。
茫然として立ち尽くすハルに、マルコは肩を並べるようにして立つと、優しく諭すような口調で言った。
「それは、違うよ」
ハルは「え…?」とため息のように声を漏らして、川の先を見つめるマルコの横顔を見た。
「ハルはまだ、あっちには行けないってこと、なんだと思う」
マルコは口元に柔らかな微笑みを浮かべると、川の流れゆく先から視線を逸らし、後ろを振り向いた。
「ハルを呼んでるのは、向こうの皆じゃなくて…こっち、なんじゃない?」
マルコは顎を上げて、暗い空のある一点を見上げて言った。マルコが見上げた場所には、弱々しく光る小さな星が、一つだけ浮かんでいた。
「耳を澄まして。…僕にはぼんやりとしか聞こえないけど、ハルは耳がいいから、きっとよく聞こえるだろう?」
マルコにそう促され、ハルはその小さな星を見上げて、息を止めて耳を澄ませた。
そうすると、自分の呼吸をする音にさえかき消されてしまう程に小さな呼び声が… ハルの鼓膜を震わせた。
それは、ハルが良く知っている人の声だと気がつくと、小さかった声が段々とはっきりとしてきて、空に浮かんでいた小さな星の輝きも、次第に大きく明るさを増してくる。
『死ぬな…!!ハル!!』
「ジャンの…声がする」
ハルはそう呟いて、隣に立つマルコを見た。
「ジャンが…私を…呼んでる」
そう言ったハルの表情には、先程の絶望の色が消え、目には淡い希望の光が浮かんでいた。
それを見て、マルコはくつりと喉を鳴らして笑う。
「やっぱり、ジャンもハルも、お互いがいないと駄目だね」
ハルはそんなマルコに詰め寄るようにして身を乗り出すと、早口になって言った。
「マルコっ、一緒に行こうよ…!一緒に戻れば、まだマルコも…!!」
そうしてマルコの手を掴もうとした手が、空気を掴んだことに、大きく目を見開いた。錯覚でもしたのではないかと、確かめるように。
それでも見えるのは、段々と身体が透け始め、足元から徐々に体の向こう側の景色を浮き上がらせていくマルコの姿だった。
「そんな…」
ハルはそう震える唇から嗚咽するように言葉を溢して、両目からボロボロと涙を零した。目の前に、すぐ側に、マルコは居る。言葉だって交わすことが出来るのに、触れることができない。その悲しみが怒涛のように胸に突き上がってきて、呼吸が乱れる。
そんなハルにマルコは切なげに目を細めて、幼児を寝かしつけるような、静かな口調で言った。
「泣かないで、ハル。僕も悲しいけど…もう、君も僕も行かないと、いけないみたいだから…」
ハルは聞き分けのない子供のように大きく嫌だと頭を振って、焦燥した声を上げる。
「だったら私もっ、一緒に行くよ!一人でなんて、行かせられないよ!!」
「…っ」
その言葉も、表情も、何処までも嘘がなく必死で、マルコは胸の奥が震えて、思わず泣きそうになった。
それでも喉から迫り上がってくる涙を堪え、笑って、自分の為に喉をしゃくり上げて泣く、大切な友人に別れを告げたかった。
「ありがとう… ハル。…僕さ、ハルのそういうところ、すごく好きだったよ。何処までも真っ直ぐで、正直で、優しさに溢れてて……そんな君に、何度も何度も、僕は救われてきた。…ジャンだって、ハルと同じくらい優しい癖に、不器用でさ……そんな二人のこと、本当に好きだったし、憧れていたんだ」
「マル、コ…」
マルコは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して、ハルを見据え、名前を呼んだ。
「ハル」
そして、小さかった星が、大きく輝く太陽のように姿を変えた光を指差して、ハルが今までに見てきた中で、一番の笑顔を浮かべて言った。
「ジャンのこと、頼んだよ」
「!?」
その瞬間、空に瞬いていた太陽が、激しく閃光した。
黄金色の光は、ハルの視界を容赦なく焼け尽くしていって、その光に飲まれていくマルコに、ハルは必死になって手を伸ばした。
「マルコっ…!っマルコ!!!」
しかし、その手はやはり空を掴むばかりで、マルコの姿を光が焼け尽くしてしまうまで、結局触れることは、出来なかった。
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