第二十二話
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ジャンはその横顔に、目を釘付けにされて、ただひたすら魅了された。
頭上に重々しく広がっている鼠色の空は、太陽の光を分厚い雲に覆い隠してしまっているのに、弟を思うハルの瞳には、泣きたくなるほど澄み切った優しさと愛おしさが溢れ、瑞々しく輝いている。
「手も足も小さくて、顔もまん丸で…すごく可愛くてさ。柔らかそうな頬に触れたくなって手を伸ばしたら、私の指をぎゅって…弟が握ったの。その時、…ああ、命ってこんなに尊いものなんだって、初めて思えたんだ。…そしてその日の夜から、私は何度も…繰り返し、同じ夢を見るようになった」
ハルは弟の話をする感情の籠った波打つ声を押さえ込むようにして、右手で自身の胸元に触れる。
「その夢には決まって同じ女の子が出てくるんだ。…私はその子のことをとても大切に思っているけれど、何時も守ってあげられない。…だから朝目覚めると、とても悲しい気分になっていて…、自分もまた大切な人を失うことになるんじゃないかって不安になった」
そうしてハルは胸元をぎゅっと握りしめると、自身の震える手を見下ろし、言葉を噛み砕くようにして声を絞り出した。
「自分にとって大切な誰かが、死ぬのを私は見たくない。…もう、見たくないんだ…っ!それを、見てしまうことが怖くて仕方がないから…その景色を見なくて済むのなら、どんな無茶だって通そうとしてしまう…。…っだから私は正義の味方なんかじゃなくて、ジャンの言う通りの、無神経で…身勝手な人間なんだよ…」
ジャンは、そんなハルの悲痛な顔を静かに見つめる。そして、ハルの姿と、自分自身を重ねた時、交わる場所と、大きく懸け離れている場所があることに気づく。
「お前はずっと昔から…、一人で戦ってたんだな」
ハルは兵士になる前の、幼い頃からずっと……長い間一人で戦い続けてきたのだ。
ハルという人間を取り巻き、自由に生きることを奪おうとする者達に、決して屈することのないように。
それは臆病が故の行動だったのだとハルは言っていたが、ジャンはそうではないと思った。
本当の臆病者は、その人間達に屈し、逆らわず、自分自身の自由を殺して、戦わずして生きる道を選ぶはずだと。現実から目を逸らし背をむけて、逃げる道を選ぶ筈だとジャンは思ったからだ。
「…俺も、人のこと言えたもんじゃねぇんだよな。ーー今も、昔も…俺のほうがお前よりもよっぽど臆病者だったんだ」
ハルはふと俯けていた顔を、ジャンへと向けた。
ジャンは先ほどハルが見上げていた鼠色の空を見上げた。視界に広がる空は、『あの日』街に覆い被さっていたものと全く同じもののように感じられた。
「『あの日』、お前が故郷を巨人に奪われた日。俺はトロスト区の家の二階で、息を潜めて避難民たちを見下ろしてた。…今思えば、その人達は大切なものを沢山失って、死ぬ思いで逃げてきた人達だったってのに、ガキだった俺は…避難民達を見て思ったんだ。…こっちに入って、来るなってよーーー」
ジャンはそう言って、自嘲染みた笑みを口元に浮かべる。
「そこに、お前も…居たってのにな。…怖かったんだ。彼等が俺から、日常を奪い去って行くような気がして…何時か俺も、同じに…なるんじゃねぇかって、そんな予感がして」
ジャンはハルの手の甲に重ねていた手をぎゅっと握りしめると、掠れた声で言った。
「だから俺は内地に行こうとしたんだろうな。…逃げ出すために…」
ジャンは胸に溜まり込んでいた情けない気持ちを、吐き出すように深く息を吐いた。
「お前は奪われないために、立ち向かってきたのに。俺は逃げ続けてきたんだ。現実から目を背けて…、戦うことから逃げてたんだよ」
ジャンは脳裏に、解散式の夜、エレンに言われた言葉を思い出して、ハルの手に触れていない左手で、額を押さえた。
「俺はお前よりもずっと、臆病者だった。…エレンが言うように俺は、『敗北主義者』って奴…なんだろうな…」
「それは違う」
すると、ハルは固い口調でジャンの言葉を否定した。
ジャンはふと顔をハルへと向けると、ハルは何処までも直向きな視線で、ジャンのことを見つめていた。
「ジャンは、逃げてないし、目を背けてなんかいない。ジャンは誰よりも真っ直ぐに、現実を見つめて向き合ってる。この残酷な世界から、目を背けないで…沢山傷つきながらも、ジャンは最善の道を選んできただけだ。…だから、マルコ達も今、生きてるんだよ」
「でも、死んだ奴らの方がずっと多か…」
「違う!」
ハルは珍しく声を上げると、ジャンの両腕を掴んで身を乗り出した。その懸命さにジャンは驚いて目を丸くするが、構うことなくハルは気持ちが良いほどにキッパリと言葉を放つ。
「あのままジャンがハッパを掛けなきゃ、皆あの場所から飛び立てずに死んでいたんだ」
「!」
その言葉に、ジャンは本部でガスの補給をしている際に、マルコに言われた言葉を思い出す。
『だから僕は飛べたし、こうして生きている』
「…っ」
「ジャンは殺したんじゃない。みんなの事を、救ったんだよ…!」
救った。その言葉に何よりも、ジャンは自分自身が救われたような気がした。
「ーーーありがとう、ジャン。私たちの代わりに、仲間の命を背負って、皆のことを導いてくれて…。それと、ごめん…君だけに、辛い思いをさせてしまって…」
ハルの声は、まるで春の日差しのように柔らかで、聞いていると絹の布で包み込まれているような心持ちになるようだった。
黒く透き通った優しい双眸が、葉に落ちた雨粒のように光って、ハルの右手がそっとジャンの頬に触れる。
「ごめんね、ジャン」
「…っ!」
風が、吹く。
その風は、とても心地の良いものとは言えなかった。
トロスト区の街の方から吹き込んでくる風は、季節に合わず酷く生ぬるく、鉄の匂いが混ざっている。
それでも、その風はハルの柔らかな黒髪一本一本を、酷く綺麗に揺らす。
彼女の後ろに広がる景色も、空の色も、すべてが悲しく、痛々しいものなのにーー、
ハルという存在だけが、この残酷な世界の中で唯一、清廉で、荒野に咲く一輪の花のように、尊い存在であるように思えてしまう。
ジャンはそんな彼女が堪らなく愛おしくて…どうしようもなく手放したくなくなって、両腕に掻き抱く。
「…なんで、お前に慰められてんだよ…っ。俺がお前の話、聞いてたんじゃねぇのかよ…っ…」
「別に慰めてない。ただ、本当のことを言っただけで…」
「あーっ!もういいっ、お前それ以上喋んな…っ」
泣けてくるから。
そう言って肩口にグリグリと額を押し付けてくるジャンに、ハルはきょとんと目を丸くしたけれど、ずっと鼻を啜る音が耳元でして、ふふっと小さく笑う。
そんなハルに、ジャンは顔を上げると、小さな形の良い耳の側で、囁くように言った。
「…なあ、ハル」
「…ん?」
「俺はお前がどんなに怖がりでも、乱暴者でも身勝手だったとしても、…そんなお前全部引っくるめて、すげぇ…大切に思ってる」
「…!」
ジャンの低く、優しく響く声に、ハルは肩口が擽ったくなって、わずかに身を捩る。そんなハルの耳が、じんわりと赤みを帯びていくのを見つめながら、ジャンは言葉を続けた。
「それは絶対に、どんなことがあっても変わらねぇから…。さっきみてぇに…ぶつかっちまっても、俺のこと信じててくれないか」
それからジャンは、ハルの首に掛かっている御守りを握り締めると、ハルの額に自身の額を寄せる。
「俺に班長を任せてくれた時みてぇに…、信じて、くれないか」
切実な色で光る間近なジャンの双眸に、ハルは胸が締め付けられるような、嬉しさや、そしてどこか切なさを感じながら、頷く。
「…じゃあ、約束しよう」
ハルはそう言って、ジャンの前に自身の小指を差し出した。
「私はジャンを、信じ続ける。この先、どんなことがあっても…どんなに喧嘩しても、君にボロ雑巾のようにボコボコにされたとしても」
「おい、そりゃ言い過ぎだ。つーか逆だろっ…!?ボコボコにされるとしたらお前じゃなくて俺の方だろうがっ!」
「まあ細かいことは気にせずに…」
「いや気になるわ!!」
「ふふ」
「何笑ってんだよっ…!」
悪戯が成功した子供のようにしてやったりと笑うハルに、ジャンは抗議の声を上げるが、すぐにハルの雰囲気が真剣さを取り戻したので、ジャンもハルと向き直る。
「…だから、ジャンも約束して欲しいんだ。何があっても、例え私が…変わって…しまってもーーー」
その時、一瞬だけ、ハルは酷く悲しそうな顔をしたのを、ジャンは見逃さなかった。それでもハルはすぐにその色を隠して、笑う。
「私はジャンが知ってる、ハル・グランバルドっていう人間なんだってこと…信じていて、ほしいんだ」
ジャンはそんなこと約束しなくたって分かっていると答えてしまいたかったが、ハルの縋るような、少し不安げな視線に、徐に自身の小指を、ハルの細い小指に絡めた。
「…分かったよ。…約束だ」
そう言うと、ハルの瞳が嬉しそうに輝く。嬉しい感情は手に取れるほどに分かりやすいハルに、ジャンも先ほどハルに仕掛けられた悪戯に仕返しを仕掛けることにした。
「だが、指切りだけじゃあ心許ねぇから、な…ーー、」
ジャンは低い声でそう言うと、完璧に油断しているハルの口元に、自身の唇を寄せ、…そして触れる。
「!?」
触れたハルの唇は想像していた以上に柔らかく、そして温かくて、ジャンは背中がぞわりと疼いたが、その感情を懸命に押し留めて、ゆっくりと顔を離す。
そこには、驚いた猫のように目を丸くしたハルの顔があった。
「…これで、忘れられなくなっただろ…?」
そんなハルに嗜虐心のようなものが湧いてしまって、声に唸るような響きが紛れてしまう。
「…」
ハルは石のように驚いた顔のまま固まっていたが、ややあって面白いくらいに段々と顔が赤く染まり上がっていく。そして口をハクハクと空気を求める魚のように動かし始めた。
「はっ、…は…。ぁ、…あれ…っ」
「!」
それは、ジャンが今まで見たことがない反応だった。
普段は比較的冷静なハルだが、こういう沙汰には滅法免疫がないということをジャンはよく知っていた。しかし、ここまで動揺し切っているハルの姿は初めて見る。顔を触ったり、耳を抓ったり、ジャンの顔を見て目が合うと瞬時に目を背けたり、あたふたとするハルの姿が可愛らしくもあり滑稽でもあって、ジャンは思わず吹き出してしまう。
「ぶっ!?お前っ、なんだよその顔?!ひっ、腹いてぇっ…!!」
「なななっ、何を笑ってるんだ?!」
それが心外だったのだろうハルは、真っ赤な顔のまま抗議の声をあげて、ジャンの胸ぐらに掴みかかったが、それで顔がまた近くなって、ハルは「ギャ」と小さく悲鳴を上げて後ろに飛び退く。いやそれはそっちのせいだろと思いながらも、ジャンは仕返しが成功したことに満足していた。
その時だった。
「注目ーーーっ!!!」
「「!?」」
辺りに、トロスト区の内門の上から、よく響き渡る声が降り注いできて、ハルとジャンは顔を上げ、周りの兵士たちも同じく視線を上げた。
視線の先に立っていたのは、ピクシス司令と…そしてエレンだった。
「あれ…ピクシス司令と、…エレンじゃ…っ」
「ハル、行くぞっ!」
「うん!」
ハルはジャンに促され、慌てて立体機動装置をベルトに取り付けると、二人は内門の近くへと向かって走り出した。
完