第二十二話
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「ジャン…」
「体調は…?意識、戻ったんだな…」
ジャンはハルの傍に片膝をつくと、ハルの目元を覆っている前髪を右手で梳きながら、顔色を窺うようにして言う。
「うん。…ジャン、皆は…?」
ハルは瞬きをして頷くと、ジャンを不安げに見上げながら問いかける。
「本部に居た奴らは全員無事壁に登った。…ミカサとアルミンと…あとエレンは今、別の場所に居るけどな」
エレンの名前を聞いて、ハルは弾かれたように上半身を跳ね上げて起こしたが、その際にまた背中が痛んで、思わず喉から苦悶の声が漏れてしまう。
「…エレン…っ、無事だったの!?っい“!?」
「おい大丈夫か!?」
それにジャンが慌ててハルの体を支えに入る。ハルは背中の痺れが弱まっていくのを感じながら、一度深呼吸をして、ジャンを見た。
「ごめっ…背中が少し痛んで…っ、もう大丈夫。…それで、エレンは…」
突発的な痛みで生理的に滲んでしまったハルの涙を見て、ジャンは瞳に浮かべていた心配の色をより一層濃いものにしながらも、少し参っているような口調で神妙に話す。
「エレンは無事だ。生きてる。…だが、詳しいことは今話してやれないんだ。俺たちには今、緘口令が敷かれてる。…まあ、隠してもすぐに周りには知れちまうんだろうが…」
「…ミカサや、アルミンのことも?」
「あいつらはエレンの傍に居る。だが話せるのは、それまでだ」
無理に問いかけても命令ならばいくら気が知れている相手でも話すことは許されない。
ハルもそれは分かっているので、無理に問い詰めることはしなかった。何よりもエレンが無事だったことに安堵していたし、もしかしたらエレンと同じ班だったミーナ達も無事でいるかもしれないという希望が浮かんだからだった。
「…うん…分かったよ。でも、取り敢えずはみんな無事なんだ。っだったら、ミーナやトーマス達も…」
「…それは、分からない」
「…そっ、…か」
しかし、ジャンは厳しい顔で言った。
その表情でハルは言葉には無くてもミーナ達が無事である可能性は殆どないのだということを察して、僅かに唇を噛んだ。
「…ありがとうジャン、安心したよ」
それでも気持ちを立て直して、ハルはジャンに礼を言うが、ジャンはそんなハルの顔を見て、眉間に深い皺を作る。
「俺は全然してねぇけどな」
ジャンは包帯の巻かれたハルの頭を見つめ、声を低くして言った。
「倒れたって…一体どうしちまったんだよ?頭打ってたせいか?それとも他に何か…」
「急に目眩がして…、疲れてたみたいだ。今は体調も悪くないし、背中がちょっと痛むけど…それくらいだから」
本当の理由を話すことができないことに胸が痛んだが、ジャンに心配を掛けてしまわないようにハルは微笑みながらそう言った。
しかしその言葉には突き放されるような響きがあるように、ジャンにはハルに対する後ろめたさから感じてしまって、ハルの体を支えていた腕を下ろすと、手持ち無沙汰になった左手で首の後ろを触る。
「…さっきは、悪かったな。お前のこと、殴っちまってよ。…それに、酷ぇことも言っちまった」
それから先程ハルの頬を叩いてしまった右掌に視線を落として、自責の念に駆られた声で呟く。
「傷付けちまった…よな」
そんなジャンの横顔見て、ハルは静かに首を横に振ると、ジャンが見下ろしている右手に、左手を重ねた。
「分かってる」
「!」
囁くような声に、ジャンは視線をハルへと向ける。
ハルは黒い双眸を優しく細めて、ジャンの瞳と目が合うと、瞳を撫でるようにゆっくりと瞬きをする。そして、ジャンの手に重ねた手を、緩く握り締めた。
「ジャンが私のことを心配してくれて、ああやって本気で叱ってくれたんだってこと…、ちゃんと分かってる。だからジャンは謝らなくていいし、謝るのは…私の方だって、思ってるーー」
ハルは自分の行動を思い起こすようにして、目蓋を閉じる。
「あんな無茶は、するべきじゃなかった。ガスもブレードも尽き掛けている状況で、一歩間違えれば私も仲間も皆死んでいたし、フロックのことだって巻き込んでいたかもしれない。それに、皆にも余計な心配かけて…ジャンの言う通り、私は身勝手だったと思う。感情に流されてそれがどんな結果を招くことになるのか考えに至らなかったんだ……本当に反省、してる」
そう言って、ハルは目を開けると、ジャンに向かって「ごめんなさい」と頭を下げた。
そんなハルの旋毛を見つめて、ジャンは肩を落とすと、ハルの手は離さないまま、正面から隣へと移動して腰を落とした。
「…お前に助けられた奴ら、泣きながらお前に感謝してたよ。…もう駄目だって、巨人に喰われて死ぬことを覚悟した時、お前が現れて…救世主って、こういう奴のことを言うんだなって思ったってよ」
ジャンはそう言うと、繋いでいた手をシーツの上に押し付け、ハルの手の甲に自分の手を重ねる。
自分に比べれば、それはずっと小さくて華奢な手なのに、日頃の訓練で掌は豆が潰れ固まるのを繰り返し、皮が厚くなっている感触がした。
「お前は、俺が背負う命の責任を…減らしてくれたんだよな」
その手に、自分は何度も支えられ、救われてきたのだ。
「俺の命令で多勢の同期が死んじまった。…本部に着いた時、それを実感して…すげぇ怖くなった。でも、お前が助けてくれた仲間が本部に飛び込んできた時、…勝手だが、少しだけ心が軽くなったような気がしたんだ」
負傷兵が集められている辺りには、兵士たちの苦しげな声と、衛生兵達の逼迫した声が響いている。
ジャンは瞳を閉じて彼らの声を聞きながら、巨人に襲われ、食われてしまった仲間達の姿を思い起こし、命の責任の重さを噛み締める。
「俺がお前に言うべきだったのは、お前を責める言葉なんかじゃなくて…、ありがとなって…言うべきだったんだよな…」
そうして閉じていた瞼を押し上げて、ジャンはハルを見た。
「…遅くなっちまったが、ハル。ありがとな…仲間のこと、必死になって助けてくれて。それだけじゃねぇ、本部に向かおうとしていた時だって、お前は仲間の命を守るために最善の策を考え出して、打つ手が無くなっていた俺たちに道を指し示してくれた。…本当に、感謝してる」
そう言って僅かに微笑みを浮かべて、ジャンはハルに頭を下げる。
ハルはそんなジャンを姿を見つめていると、自分自身がどうしようもなく、情けなく思えてきた。
ジャンには、仲間の命を背負って、前に進む覚悟を決められる強さがある。
しかし、自分にはそれが無いのだと、痛感させられたからだ。
「…私は、ジャンみたいに覚悟を決められない、臆病者なだけでーーー救世主な訳でも、お礼を言われるような人間でも、ないんだ…」
ハルは手の甲に触れている、ジャンの掌の温もりが胸に滲みるようで、その手をシーツごと握り締めた。
ジャンは顔を上げてハルの横顔を見ると、その瞳が余りにも悲しげで、息を呑んでしまう。
「…私ね、小さい頃は…凄く手の掛かる子供だったんだ」
「…お前が…?」
「…うん」
ジャンはハルが言うような幼少期を想像し難くて問い返すと、ハルは苦笑を浮かべて頷いた。
「…人見知りだし、喧嘩っ早いし癇癪持ちで、街の人達からは乱暴者だって有名で、同世代の子達からも敬遠されてたんだ。…でも、最初からそんな性格だったわけじゃないんだ。人と話すのは好きだったし、喧嘩だってなるべくしたくなかった。でもさ…、私、少しみんなと違ってたんだ…」
「違ってた…?」
ジャンは静かに問うと、ハルは言うか言わないか一瞬迷った様子で、口を引き結んだ。しかし、ハルは話すことを選んで、少し緊張した口調で話し始めた。
「なんて言ったらいいのか…難しいけど。…知らない筈のことを知っていたりだとか、出来ない筈のことが…出来たりするっていうか…。っ文字の読み書きだって、基本的なことを覚えたらあとは元々全部知っていたみたいに頭に浮かんできて、大抵のことは…あっさり熟せてしまうんだ。それが、同世代の子達には気味が悪かったみたいでさ…。それがきっかけで、虐めというか…仲間外れにされちゃったんだ」
ジャンは掌の下のハルの手が、強張ったのが分かった。
「私、それが凄く…怖かったんだ。出来ることを、するなって抑制されるのも、仲間外れにされて、一人ぼっちにされるのも、…檻に閉じ込められて、羽ばたく翼を捥がれて、自由を…奪われるのも…。だから私は…私を抑制しようとする人達に、自由を奪われないように強くなろうとしたんだ。…戦って勝つことで…、自分の強さを誇示することで…ね」
「…だから、乱暴者って言われてたのか」
ジャンは強張っているハルの手の甲をポンと軽く叩くと、「で」と先を促すようにハルの顔を覗き込む。
「そんなお前が変わったのは、何がキッカケだったんだ…?」
ハルは自分を見上げてくるジャンをちらりと見下ろして、それから眉を開くようにして笑うと、顎を上げて空を見上げた。
それから、ゆっくりと唇を開いて、酷く穏やかで、慈愛に満ち溢れた声で囁くーー、
「弟が、生まれた時」
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