第二十一話
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母から御守りを貰ったのは、茹だるような熱い夏の日の夜のことだった。
青々と茂った草花を揺らす風すら無く、湿気を含んだ空気が体に纏わりついてくるようで、その日の夜は暑苦しくて眠ることができなかった。
居心地の悪さに苛立ちながら敷布団から起き上がると、襖部屋を出て目の前の縁側に座り、庭先に足をだらりとぶら下げて、空に浮かんだ三日月を鬱々と見上げる。
そんな時、縁側の縁を掴んでいた手のすぐ傍に、一匹の鈴虫が飛んで来た。
小さな鈴虫は薄い灰色の羽を懸命に震わせ、規則正しい旋律でリンリンと鳴き始める。
そんな鈴虫を見下ろして、短い黒髪の少女は、酷くささくれた感情のままに、「…煩い」と、小さく呟いた。
しかしそれが鈴虫に通ずる筈もなく、ましてや人の事情など構う義理もない鈴虫は、何度も何度も繰り返し、羽を震わせて、鳴き続ける。
少女は愈々痺れを切らして両耳を塞ぐと、ジタバタと庭先に投げ出していた両足を鬱陶しいとバタつかせて、癇癪を起こしたように声を上げた。
「煩いって、言ってるじゃないか!!」
それでも、押し当てた掌の隙間から入り込んでくる鈴虫の鳴き声に、両耳に押し当てた手をぐっと握り締めると、その拳を小さな鈴虫にぶつけようと振り上げた。
そんな時、頭の上で声がした。
「駄目よ」
穏やかな口調の中にも、芯の通った声に、振り上げた手を止めて顔を上げると、淡い月明かりを受けた綺麗な水色の瞳と、キラキラと輝く金糸のような金髪が見えた。
「…母さん」
少女の母親は、細く華奢な手で娘の頭を優しくひと撫ですると、大きくなったお腹を抱えながら、娘の隣に座った。
少女の母親のミーシェはこの時、臨月を迎えていて、出産までもう間も無くといったところだった。そのため父親も元からの神経質と心配性に更に拍車が掛かっており、少女は子供ながらにそれが自分の自由を奪われるようで窮屈さを感じてはいたが、母親のお腹が大きくなるに連れて、自分に弟か妹ができるのだと思うと、それが待ち遠しいと思う気持ちも膨らんでいた。
ミーシェは忙しく鳴く鈴虫を慈しむように見つめながら、苛立っている娘を宥めるように、ゆっくりとした口調で言い聞かせるように言った。
「この子だって、生きているのよ。私たちとは姿形も違うけれど…ちゃんと命があって、自分の存在を必死に鳴いて、見つけてもらおうとしているの。だから、殺してしまっては可哀想よ…?」
「可哀想…」
少女はそう小さく呟くと、鈴虫を見つめたまま、振り上げていた手を静かに自分の膝の上に置いた。
「本当にそうなのかな…」
「え?」
「だってこんなに一生懸命鳴いているのに、誰も来てくれないじゃないか。…きっと友達が居ないんだ。それか見捨てられたのかも。だから、此処に来たんじゃないの?」
少女は酷く淡々とした口調で言うと、父親譲りの黒い双眼を冷たく細める。
「もう全部終わらせたいから、此処に来たんじゃないの」
そう言葉にする娘の横顔を、ミーシェはとても悲しい顔で見つめていた。
娘は幼さに似合わない程に、達観しているところがあった。
頭も良く、大抵のことは卒なくこなせてしまって、文字の読み書きも少し教えただけであっという間に習得してしまい、家事で出来ないことも殆どない。しかしそれ故に同世代の子供達からは異質に扱われ、邪険に扱われることも多かった。それらが影響して、娘は自分自身を守るために喧嘩を繰り返し、街では乱暴者とすっかり噂されてしまっている。
だからこそ、娘は人から奪い取ることに対して罪悪感が薄れていた。それは、娘は再三周りの人間から多くのものを奪われてきたからだ。自由に生きることを抑制され、自由に生きようとすれば釘を打たれ、それを何度も繰り返されて…。
それは自分が弱いから、自由を奪われるのだと。ならば奪うものより強くあることで、自分の自由を守ろうと、娘はそう生きる道を決めているように、母親のミーシェには見えていた。
ミーシェは、喧嘩で擦り傷だらけの小さな手を掴むと、その手を自身の膨らんだお腹に導いた。
「ハル、もう少しでお姉ちゃんになるのね…」
少女は…、ハルは、ゆっくりと瞬きを一度すると、母のお腹を撫でて、何処か不安げに眉をハの字に落とした。それに、ミーシェはハルの頭の後ろに手を回すと、ぎゅっとお腹に抱き寄せる。
「!?何っ、」
ハルは突然のことに上擦った声を上げたが、ミーシェはハルを抱きしめたまま、静かな口調で言った。
「よく聞いて、耳を澄ませて」
「!」
「聞こえるでしょ?…あなたの弟か、妹が動いている音、生きている音」
ハルはミーシェのお腹に押し当ている右耳の鼓膜を、震わせる不思議な音と、時よりお腹を小さな足が蹴る感触を感じて、息を呑んだ。
「生きるために、貴方の大切な子が、お腹の中で頑張ってるの。…其処にいる、鈴虫と一緒。煩わしいだけで、全てを奪って、壊すことがどれだけ愚かなことか、分かるはずよ… ハル、貴方にならちゃんと…」
ハルは人や生き物に対して酷く無関心だったが、父と母のことだけはとても大切に思っていた。だからこそ、生まれてくる命を、弟か妹でも、どちらだって構わないから、この窮屈で優しくない世界に、傷つけられないように守ってあげたいとも思っていた。
そう思うが故に、ハルは世間に対しての恐怖心を募らせていくしかなかった。
「だってっ…怖いんだ」
ハルは母親の胸元に額を押し付ける。
「いつだって、私の大切にしているものは、誰かに奪われていくんだ…。それなら私が、奪われないようにしなくちゃ…強くなくちゃ駄目なんだっ…!」
ミーシェは世界に傷付けられ、優しいが故にその道を選ぶことしかできなかった娘の頭を、慈しむように撫でる。
「…貴方は生き物全てに対して臆病過ぎる。出会った頃のお父さん、そっくりね…。でも、そんなに怖がるべきものでは、決してないのよ…?」
「…!…今、動いた」
ハルは、ミーシェのお腹の中で、小さな命が大きく動いた振動を感じて、驚いた顔を上げた。
「…動いたね」
ミーシェはそんなハルの顔を見下ろして、優しく微笑む。
「…本当に、ここに…居るんだ」
ハルはなんだかとても不思議な気持ちになって、再び右耳を母のお腹に押し当てる。
「名前、考えてくれた?」
ミーシェは以前から、生まれてくる子の名前はハルに決めてもらおうと言っていて、それに父も賛成していた。ハルは名付け親になる責任感にすっかり決めあぐねていたが、今母のお腹に触れて、懸命に生きようと動いている胎動を感じて、やっと名前を決めることが出来た。
「ヒロが、いいかな。男の子でも、女の子でも、大丈夫でしょう?」
「ヒロ…、いい名前ね?どうしてその名前にしようと思ったの?」
ミーシェが微笑みながらそう問いかけると、ハルは母のお腹に触れながら、空に浮かんだ三日月を見上げる。
「この子には、広い世界で…生きて欲しいから。何にも縛られず、抑制されず、奪われず、…自由に…生きていて欲しいから…」
先程まで無風だった、まるで静止画のような景色を、吹き始めた微風が木々の葉と庭に咲いているサザンカの赤い花を、ゆらゆらと揺らす。
その風は、柔らかで細いハルの前髪を撫で、淡い月明かりを孕んだ黒い双眼を露わにする。
「私…もっと強くなって、守るよ。この子のことも、父さんや母さんのことも…私が、守るから」
ミーシェは、娘の健気で不器用な、どこまでも深い愛情を浮かべた横顔を見つめながら、自身のお腹に万感の思いで触れた。
「(良かったわね…ヒロ。貴方は世界一、素敵な姉に恵まれるわ)」
ミーシェはお腹の子が生まれ、ハルが姉になった時に渡そうと作ってあった御守りを、服のポケットから取り出し、ハルへと差し出す。お腹の子がまだ生まれていなくても、既にハルには姉になる覚悟が、出来ているように感じられたからだった。
「… ハル、これを貴方に持っていて欲しいの」
「これ…御守り…?」
ハルは差し出された、藍色の御守りを掌に乗せて首を傾げる。
丁寧に縫われ手作りされた御守りには、鳥の翼のような刺繍があしらわれていて、ハルはその黒と白の翼を、不思議と懐かしいと思いながら見つめていた。
「きっとこの御守りは、貴方のことを守ってくれる。だから貴方は、弟のことを…この子だけじゃない、貴方が大切に思う人達のことを…守って、あげて」
ミーシェはそう言うと、ハルに白く細い小指を立てた手を差し出す。
「約束、できる…?」
ハルはその問いに頷くと、御守りを握り締めた手の小指を立て、母の細い指に絡めた。
その時の嬉しそうで、どこか悲しそうな母さんの笑顔を、私はずっと長い間、忘れてしまっていたような気がした。
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