第二十一話
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「ジャン、隣で補給してもいいよな?」
「…」
微塵も残さずガスを使い果たしたボンベに、頃合いの木箱の上に胡座を掻きながら粛々と補給をしていたジャンは、そう言って隣の木箱に腰を落としたマルコに、視線だけ送って何も答えはしなかった。
アルミンの考案した作戦が上手く事を運び、何とか巨人から奪還を果たした補給棟内では、ガスやブレードの補給をしている同期達が窮地を脱し一先ずは安堵の表情を浮かべている中で、ジャンの表情はすっかり沈み込んでいた。
その理由はマルコも態々聞かずとも明確で、マルコは苦笑を浮かべながら自身のボンベを立体機動装置から取り外すと、補給口にノズルを取り付けてガスの補給を始める。
「…そんなに落ち込まなくても、ハルは分かってると思うよ?ジャンが怒ったのは、心配してくれていたからなんだってさ」
自己嫌悪と後悔にどっぷりと浸っていたジャンは、その言葉に深々と溜息を吐きながら肩を落とした。
「それでも……言い過ぎちまった。あんなひでぇ言い方で捲し立てることなかったってのに…」
これじゃあ完全に嫌われた。
そう言って項垂れるジャンに、マルコはまさかと肩を竦めて笑う。
「そんなことで、ハルがジャンのこと嫌うわけないだろ。…自分が一番分かってる癖に」
「…」
ジャンは項垂れた顔を横にして、マルコの顔を見上げた。彼の言っていることはきっと間違ってはいないだろうが、今回ばかりは気後れしてしまう。
眉間に皺を寄せて重々しい表情をしているジャンを、マルコは横目でちらりと見ると、補給を終えたボンベからノズルを外して、「まあ…」と立体機動装置にボンベを取り付けながら言った。
「会って早々平手打ちは、良くなかったかもしれないけどね」
「…だよなぁ」
ジャンは再び深い溜息を吐いて、がっくりと項垂れる。
いくら感情が昂ってしまったとはいえ、平手打ちすることはなかった。まだその時の感触と、驚いた顔をして固まっていたハルの横顔が、掌と眼球に焼きついていて離れない。
「ジャン、それとっくに終わってるぞ」
マルコはジャンのボンベを指差して言うのに、スーっと満杯になったボンベに入れなかったガスがノズルの先から漏れていることにようやく気がついたジャンは、「ああ…」と覇気なく声を溢してノズルを既存の場所に戻すと、立体機動装置にヨロヨロとボンベを取り付け初める。
「…大丈夫か?」
すっかり気が抜けてしまっている様子のジャンに、マルコは心配気に首を傾げて問いかけると、ジャンはハルの頬を打ってしまった自身の掌を見下ろした。
「…すげぇ、不安になっちまった」
その弱々しい声音をジャンから初めて聞いた気がして、マルコは目を細めた。
「フロックとアルミンが本部に飛び込んできて、ハルが巨人に捕まった仲間を助けに行ったって聞いた時は…生きた心地がしなかった。地面が崩れて無くなっちまったみたいに、ただ立ってることだってままならなくなるみてぇ…だった。それで、思い知らされちまったんだよ。…俺にとってハルは…もうそれだけ俺の中で大きい存在に、なっちまってるんだって。欠けちゃならねぇもんに…なっちまったんだってよーー」
ジャンは掌を、ギュッと握りしめる。その横顔には、今にでも溶けて消えてしまいそうな雪の粒を追い求めるかのような必死さが滲んでいた。
「それなのにアイツは…、死にかけたって顔するどころか、こっちの心配してやがった。あの顔見ちまったら、アイツがあまりにも自分自身を顧みてねぇってのが痛い程分かっちまって…。俺はこんなにアイツを必要としてるのに、本人はまるでっ…生きることに執着してねぇってのが腹立たしくて…虚しくて、やり切れなかった…」
ジャンはそこまで言うと、握り締めた拳を額に押し当てて、溜息混じりに溢した。
「…マジで、無事で良かったって…そう思ったってのに…、口から出た言葉はハルを責める言葉ばかりだった。俺が…俺自身に対して苛立ってた気持ちまで、アイツに押し付けちまったんだ…っ、俺って最低だよな、マルコ…?」
マルコは今にでもズブズブと地面に沈み込んでいきそうなほど落胆しているジャンに、らしく無いなと首を横に振った。いつも冷静に物事を考えているジャンも、ハルのことになればすっかり形を崩してしまう様はもう何度も見ては来たが、今回はかなり重症のようだった。
しかし、ジャンがハルを言及したことが、ただ感情に流されるままにしてしまったことではないと、マルコは思っていた。
「ジャン、怒らずに聞いてほしいんだけど…」
マルコは最後の一つのボンベに、ガスを補給し始めながら口を開いた。
「ジャンは強い人ではないから、弱い人の気持ちがよく理解できる。それでいて、現状を正しく認識することに長けているから、今何をすべきか明確に分かるんだろう?…だから僕は飛べたし、こうして生きている」
「…!」
ジャンはふと息を呑んでマルコへと視線を向けると、マルコはボンベから視線を外して、ジャンと向き合い笑みを浮かべた。
「ジャンはさ、ただ感情的になったからじゃなくて、ハルにちゃんと思っていることを伝えるべきだって、判断をしたんだよ。俺も、ジャンはそれを伝えて良かったと思ってる。…あのままじゃハルはきっと、俺たちのこと守って死んじゃうだろ?…それを僕たちが望んで無いんだってこと、ジャンが皆の代わりに伝えてくれたんだ」
「マルコ…」
「っだから、ジャンは自分の所為で仲間が死んだとか、ハルを傷つけたとか、うじうじ考えなくていいんだよ!」
マルコはボンベの補給を終えると、ジャンの背中をバシッと叩いて木箱から立ち上がる。そしてボンベを自身の立体機動装置に取り付けると、座ったままのジャンを見下ろして、何とも晴々とした表情と声音で言った。
「…伝えられなくて後悔するより、伝えて後悔する方がずっと良いだろ?」
「!」
ジャンはマルコの言葉に、ガスを切らし壁に登れず、補給を望めない最悪な状況に死を覚悟した際、こんなことになるなら、いっそのことハルに気持ちを伝えておくべきだったと後悔していたことを思い出して、息を呑んだ。
「じゃ、僕は皆の様子見てくるよ」
マルコはそう言って、同期達の補給の手伝いに向かう。
ジャンはマルコの足音が遠のいていくのを聞きながら、握り締めていた掌を解いて、寒々しくなった首の後ろに徐に触れた。そこにはまだ、ハルが首に掛けてくれた御守りの首かけ紐の感触が残っていた。
『…ジャンのこと、守ってくれますように』
そう言って、いつも肌身離さず大事にしていた、大切な母親の肩身を手放して首に掛けてくれたハルの気持ちは嬉しかったが、それと同じくらいに、不安も感じていた。母親の肩身を手放したハルには、自分の命までも手放して、どこか遠くへと消えてしまいそうな儚さがあったからだ。
そんな不安に駆られたのは、今回で二度目だった。
一度目は、ハルが山の崖から落ちて行方不明になった、二年前の秋口に行われた長距離行軍訓練の時だった。
泥と血に塗れ朦朧としているハルの姿を見た時、全身の血の気が引いたあの時の恐怖を、今でもハッキリと覚えている。
あんな思いをするのはもう二度と御免だったのに…。
その時の恐怖がまた甦り、抱いていた不安が現実となりかけ時、御守りを受け取ったことを酷く後悔した。だからこそ、ハルの顔を見るや否や揺らいだ感情を立て直す余裕もなく掴みかかって、首に掛かった御守りを乱暴にハルの胸元へと突き返してしまったのだ。
例えそれが、自分自身のことを守ってくれたとしても、それを代償にハルが傷つくことになるなら、そんなものは必要ない。
自分が生きる世界にハルが居ないのなら、それは死んでいるのと同じ事なのだと、思い知らされてしまったからだ。
「…ハル」
ジャンは小さくハルの名前を呟くと、首に当てがっていた手に力を込めて、ガリッと皮膚を爪先で引っ掻き奥歯を噛んだ。
俺を、守ってくれなくたっていい。
誰かの為に、血を流して傷つかなくていい。
みっともなく死ぬのが怖いと逃げ出して、泣き喚いたって軽蔑なんてしないからーーー
「もっと自分の為に、生きて…くれよ…っ」
胸に突き上げてくるハルへの耐え難い慕情と、その中に溺れた心の行き場を塞ぎ込む切なさだけを、残したままーー、
ジャンの骨を噛み砕くような悲痛な嘆きは、誰の耳に届く事もなく、周りの喧騒に消えて行った。
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