第二十話
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ハルはひりつく頬に、半ば放心しながら指先で触れた。それから、ゆっくりとジャンの顔を見上げる。
人に頬を打たれるのは初めてのことだったが、目の前に立っているジャンの悲しげな表情が、叩かれた頬よりもずっと痛く、胸を締め付けた。
ハルは熱くなった喉で、僅かに開いていた唇の間から、短く息を吐き出す。
「っジャン!落ち着けよっ、ハルは巨人に食われそうだった仲間を助ける為にっ」
「っんなことは分かってる!!」
ハルの後ろに立っていたフロックは慌てた様子でジャンを落ち着かせようと前に出たが、我慢の限界を迎え溢れ出した感情は、そう簡単に抑えられるものではなかった。
ジャンは放心しているハルに詰め寄るよう身を乗り出すと、兵服の上着の襟を両手で掴み上げる。
「ハル、お前…っそんなに死にてぇのかよ…っ!」
ジャンの低く唸るような声と言葉に、間近に迫った鋭い双眸から目を逸らせなくなって、ハルは蛇に睨まれた蛙ように息を詰めた。
「それとも何だ…そうやって自分の命賭けてまで他人を守って、英雄気取って自己満足にでも浸ってんのかっ…?!俺はっ…俺はお前のそういう自己犠牲的なところがずっとっ…!鼻について仕方がなかったんだよ!!」
腹の底から絞り出すような、ジャンの怒号とも嗚咽とも言えない声が、静まり返った補給棟に響く。
胸倉を掴んでいるジャンの手は、血の気が失せているかのように白かった。その手は酷く震えていて、ハルはジャンに言い返そうとした言葉を、喉から吐き出すことが出来なくなった。
「ジャンっ!やめろよっ!」
コニーがハルの胸倉を掴むジャンの腕を掴んで止めに入るが、ジャンは固く掴んだ襟から手を離そうとはせず、尚更にハルの体を自身に引き寄せてぴしゃりと言い放った。
「お前は、普通じゃねぇ…っ!!」
「っ」
ジャンのその言葉に、ハルは心臓が一度、やけに大きく跳ね上がったのが分かった。
普通じゃない
その一言で背筋に悪寒が這い上がり、体が酷く強張る。
まるで、ずっと隠していた後ろめたい秘密を、皆の前で暴かれてしまったような、そんな感覚だった。
「・・・わ、…私…は、」
口を開いたものの、それ以上先は何も言えずに、自分でも酷く視線が泳いでいるのが分かった。心臓が妙に早鐘を打ち鳴らして、冷や汗が額に滲む。
動揺しているハルを背に庇うようにして、コニーの次にライナーがジャンの腕を掴み間に入った。
「ジャン!いい加減にしろ!!確かにこいつは無茶をしたがっ、無事にフロックと戻って、それで助かった仲間も居るだろう…!今ハルを責める必要はな、」
「ライナー、お前だって俺と一緒だろ」
ジャンは腕を掴まれたまま、ライナーを睨みつけて淡々と言い放つ。
「…何?」
それに、ライナーも瞳を細めて、ジャンを睨み返した。
ジャンはそんなライナーの腕を振り払うと、傍で様子を見守っていたアニとベルトルトに視線を向ける。
「お前だけじゃねぇ…っ、ベルトルトやアニだって、ずっとこいつの傍に居たなら、ハルの異常さに気づいてるはずだろ!?」
ベルトルトとアニの二人は、眉間に皺を寄せ、何も言わずに足元に視線を落とす。それは言葉はなくても肯定を表していた。
ジャンはちっと舌打ちをすると、本部へ突入した時の己の行動を思い返しながら、ハルを平手で殴った掌を…、仲間の命を背負って、突撃の合図を下した手を恨めしそうに見下ろしながら言った。
「てめぇが危険だって、死ぬかもしれねぇって分かってんのに命を賭けられるなんてことが、容易く何度も出来るわけがねぇ…。…っ俺だって、巨人に喰われてる仲間を、助けられなかった。…見捨てたんだっ…!俺の命令で飛び出した仲間だってのに…、それなのに俺は喰われてる仲間をただ眺めてることしかできなかったんだっ…!挙句の果てにはてめぇが助かるために、囮にさえした…っ!」
ジャンは震える手を指の爪が皮膚に食い込む
ほどにキツく握り締めると、顔を上げ…再びハルへと詰め寄った。
「なぁ… ハル。普通なら、そうなるんじゃねぇのか?自分の命が、一番大事だって思う筈だろっ…!?」
ハルの両腕を掴み、子供に諭すように言ったジャンに、ハルは自身の足の爪先をただ見下ろしたままで、何も答えなかった。…答えられなかった。
それにジャンは悔しげにギリッと歯が軋むほど奥歯を噛み締めると、ハルの思考や行動の核である決定的な言葉を、言い放った。
「何でっ…何だよ…っ、どうしてお前は何時もっーーここにいる誰よりも、自分の命を軽視してるんだよ!?」
「…」
ハルは自分の体の中にある物が、急に熱を失って、無機質なものに成り代わったような気がした。
胸の中に冷たい風が吹いて、初めてそこに大きな穴が空いていることに気付かされる。
ハルは、途方のない虚しさに打ちのめされて、徐に顔を持ち上げた。
自分が今どんな顔をしているのか…、ジャンの双眸に写っている自分の顔に生気は無く、虚脱感だけが溢れ返っていた。
そんなハルの顔を見て、ジャンは一瞬、泣き出しそうな顔になった。
しかし、すぐにハルの腕をより一層に強く握ると、揺らいだ瞳に再び怒りを孕ませ、眠りから覚ますかのように体を揺さぶった。
「なんでっ何も言わねぇんだよ・・・!?・・・図星、だからか?っだから、間違ってねぇから・・・あんな命令だって下せたんだろ!?自分が死罪になってもいいから、巨人から逃げて生き延びろなんてっ・・・!ふざっけんなよ!?お前も生きた人間ならっ、もっと生きることにしがみ付けよ!!他人の為に、無償に命張って死ぬことがお前の仕事じゃねぇだろ!?」
ジャンは感情の堰が切れたように自身の首に掛かった御守りを外すと、それをハルの胸元にドンと荒々しく押し付けた。
「お前の言動でっ、行動で・・・!俺たちがどれだけ傷つけられたってお前は構わないんだ・・・!お前が死んじまった時、俺たちがどれだけ苦しむかってことも、どうでもいいんだろ!?・・・お前は・・・正義の味方なんかじゃねぇ…身勝手で無神経でっ、エレンと同じただの死に急ぎ野郎なんだよっ!!」
ジャンはそう言い放つと、ハルの体を突き放し、御守りを手離して踵を返した。
足早にハルの前から去るジャンを、マルコが慌てて後を追いかけて行く。
「…」
ハルは、足元に転がった御守りを見下ろしながら、緩慢に片膝をつくと、古びた御守りに指先で触れて、乱れた心の内を押し留めようと唇を噛んだ。
ジャンの言葉は恐ろしい程正確で、どれもが的を得ていた。
ハルの触れられたくない、暴かれたくない心の内を、全て抉り出してしまった。
『他人の為に、無償に命張って死ぬことがお前の仕事じゃねぇだろ!?』
ジャンの言葉で、ハルは父の言葉を思い出していた。
『私たちには宿命がある。逃れられない宿命が…』
父の言っていたその宿命がどういうものなのか、今・・・分かったような気がした。
私は、きっとその宿命から逃れることはできない。
私は私じゃない誰かを、守って死ななければいけない。
父だってそうだった。
その宿命を背負っていた父は、私を守って死んだ。
だから私もそう在るべきなのだと、意識の外側で感じていたのかもしれない。
私の運命は、きっと生まれる前から、決まっていた。
自分の為に生きられない。生きることは許されない。永遠に続いていく呪いに、掛けられていたんだ。
「… ハル、」
ミカサの心配そうな声が、頭の上で聞こえたが、ハルは顔を上げることが出来なかった。
「…分かって、たんだ」
ハルは酷く掠れた小さな声で呟いて、御守りを握り締めた。
「私がただそれを…認めたくなかった…だけなんだ」
自分が普通じゃないことも、
自己犠牲を重ねることでしか、生きていけないことを・・・
ハルはその場から立ち上がると、仲間達の前から逃げ出すように、本部の奥にある倉庫部屋へと走り出した。
それを皆が呼び止める声がしたけれど、足を止めて振り返る事は出来なかった。
ただ今は、少しでも早く仲間の元から離れ、一人になりたかった。
第二十話 私は『何者』なのか
本当の自分が一体何処にいるのか、分からない。
本当の自分が何なのかも、分からない。
私はずっと、ずっと前から・・・自分自身を見失っていたんだ。
完