第一話
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開拓地には、世間一般よりも一足早く朝がやってくる。
『あの日』に、巨人によって故郷や家族を奪われ、行く宛のない者達は皆ウォール・ローゼ内にある開拓地へと送り込まれた。そうして衣食住を保証してもらうかわりに、朝から日が落ちきる前まで、野を耕し作物を植え、草を毟って石を拾う。そんな毎日が、只管に繰り返される。
まるで奴隷のような日々だが、生きるためにはそうするしかない。
何せ巨人によって領地を奪われ、そこに住んでいた難民たちはローゼとシーナへと流れ込むことになり、土地の価格は大幅に上昇し一般人が買えるものでは到底なくなってしまったからだった。
その上、元々マリア周辺で生活を送っていた住民たちに裕福な者は少ない。壁の一番外側に住う人々は巨人の脅威に晒される危険が大きいため、その分土地代が安かったからだ。
時刻は、間もなく朝の七時を回ろうとしているが、この開拓地の人々はすでに畑に出払っており、宿泊所に人気はない。寝坊をすれば憲兵や駐屯兵に怒鳴り散らされ、酷いときは昼食を抜かれたりすることだってある。それだけ現状の壁内の食料生産は切迫しているのだ。
それでも、開拓地の門前に佇みライナーを待っている三人、アニとベルトルト、そしてハルがこの開拓地の管理をしている憲兵に咎められていないのは、今日から訓練兵団に配属されることが伝わっているからだろう。
慌てて支度を済ませたライナーが宿泊所の扉から出てくると、気怠げに門の柱に背中をあずけて腕を組んでいたアニは足元に落としていた視線を上げ、ベルトルトとハルはライナーに向かって大きく手を振った。ライナーの背中と、三人の足元には大きなリュックがあるが、どれも同じくここの開拓地に来た人間に支給された粗末なつくりのものだった。
宿泊所から駐屯地に持っていくものといっても、着替えを何着も持っているわけでもないし、食料だって向こうに着けば食堂で支給される。座学用の文房具類なども支援してくれるともなれば、持っていくのは思い出の品ぐらいなのだが…、四人ともリュックに背負って行くほどのものが残っているわけでもなかった。
大きい割には中身も無く軽いリュックを揺らしながら三人の元へ駆け寄るライナーを、ベルトルトはほっとしたように微笑みを浮かべて迎えた。
「ライナー、おはよう。間に合って良かったよ」
「ベルトルト、なんでお前が起きた時に声をかけてくれなかったんだ」
「声は掛けたさ。それでも全然起きないから、早起きして準備を済ませてたハルにお願いしたんだよ」
「別に起きて来ないんなら、放って置けば良かったのに」
アニは面倒臭そうにため息を吐きながらそう溢すと、足元に転がっていた頃合いの石を軽く足先で蹴り飛ばして、傍に置いていたリュックを気怠げに持ち上げ背負う。
そんなにアニにハルは苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「アニ、そんなことをしたらライナー、徒歩で南駐屯所まで行かなきゃいけないんだよ?…一日中歩いても着かないよ…朝から馬車に乗って行っても着くのは夕方なんだし」
「この筋肉馬鹿なら問題ないよ」
「おいアニ、勘弁してくれよ。待たせちまったのは謝る、」
「別に待ってないよ」
「…」
「まっ、まあまあ二人とも…!ほ、ほらこれ、見てよ!」
剣呑にライナーをじろりと一瞥して言ったアニに、ライナーの眉間にシワが寄ったのを見て、ハルは少し慌てた様子で二人の間に割って入ると、手に持っていたリュックの中にずぼりと腕を入れて中から大きな巾着袋を取り出して見せた。
アニやベルトルト、ライナーのリュックよりも一回り膨らんでいた理由は、どうやらその巾着袋のせいだったようで、中には四角い大きめの箱のようなものが入っている。
「?その中に入ってるのって…お弁当箱?もしかしてハル、移動中のお弁当朝から作ってくれてたから、早起きだったの?昨日街に行くって言っていたからなにか訓練場生活で必要なものでも買ってくるのかなって思ってたけど…もしかして、食材買いに出てた?」
ベルトルトが背の高い体を少し屈めて、巾着を覗き込むようにして問いかけてくるのに、ハルはこくりと大きく頷いて、得意げに笑った。
「うん。向こうに行ったらお金使うこともあんまりないかなって思って…それでね、お菓子とか水も買ったんだ!」
「…お菓子」
その三文字にぴくりと反応したアニに、ハルとベルトルトが顔を見合わせて微笑む。それにアニは不本意そうな顔をしてふいと腕を組んで顔を逸らした。
ライナーはハルが昨日から自分たちのために少ない小遣いを叩いて買い出しに行き、早起きをして弁当も作っていてくれたのかと思うと、朝の失態がとてつもなく罪深く思えてきて、申し訳ないと改めて反省しながら肩を落とす。
「ありがとうな…、そんなことまでしてくれてたのに、余計な仕事増やしちまった」
「私が皆と食べたくて勝手に作ったんだ。だから、気にすることじゃないし、時間には間に合ったんだからさ」
いいじゃないか。と、相変わらずマイナスな思考を持たないハルが巾着袋をリュックにしまいながら言うのに、ライナー達は顔を見合わせて、相変わらずだなと苦笑を浮かべた。
そうしている間にいつの間にか七時を回っていたようで、開拓地の門の入り口から真っ直ぐに伸びる山道から馬車の音が聞こえてきた。
「あ、来たよ!馬車だ」
ベルトルトがそう言って馬車の方を指差し、足元に置いていたリュックをいそいそと背負う。
今日は一日天気も良さそうな晴天で、庇のない馬車を走らせてきた憲兵のジャケットを纏った兵士は、門の前で待機している憲兵に敬礼をし、何やら少し会話をしてから、門を潜ってハル達の前で馬車を止めた。
「待たせたな。君たちが訓練兵に志願した四名で間違いないか?」
大きな黒毛の馬上から、憲兵である証のユニコーンを背負った、開拓地の警備をしている憲兵とは少し雰囲気の違う凛々しい兵士がそう声を掛けてきたので、ハルたちは足を揃え背筋を伸ばす。
「はい」
ライナーが答えれば、憲兵は馬上から軽々と降りて、上着のポケットから何やら小さな手帳を取り出した。
「そうか…では、名前の確認をさせてもらう。君から順番にね」
ライナーは憲兵から目配せを受けて頷く。
「ライナー・ブラウンです」
「ベルトルト・フーバーです」
「アニ・レオンハート」
「ハル・グランバルドです」
憲兵は恐らく手帳に迎えの兵士のリストが書いてあったのか、名乗るごとにペンでチェックマークを入れ、顔を確認していた。そして間違いがないことを確認したのか、よしと頷いて手帳を胸ポケットに仕舞う。
「確認ができた。君たち、よく訓練兵に志願してくれた。あの日を経験しているのにも関わらず、よく勇気を振り絞って決断してくれたな」
「いえ…」
ハルが少し足元に視線を落として首を振るのに、ライナーたちは口を引き結び、ただ前を見つめていた。
「忘れ物はないか?無ければ馬車に乗ってくれ。これから半日馬車での移動だからな…辛いだろうが頑張ってくれ」
憲兵にそう促され、四人は「はい」と頷き、馬車に乗り始める。
しかしハルはすぐには馬車には乗り込まなかった。すたすたと馬上に乗った憲兵の元に駆け寄り、一度背負ったリュックを下ろして、また先ほどのように腕を入れてがさがさと中身を探る。
「あ、あの!」
「?どうした、何か忘れ物でもしたのか?」」
「こ、これ、お水とパンなんですけど…食べて少し休んでください。ここまで迎えに来てくださってありがとうございます…遠いのに、すみません」
そう言って申し訳なさそうにリュックの中から、風呂敷に包んだパンと水筒を取り出し憲兵に差し出したハルに、憲兵と馬車に乗り込んでいた三人は目を丸くする。
思わぬ気遣いに、憲兵は少し驚いていた様子だったが、すぐにふと破顔して、ハルの頭をわしわしと撫でた。
「すまないな。気遣い感謝する・・・頂くよ」
そう言って憲兵はハルから水とパンを受け取り口にして、「うん、美味い」と言って笑いかけてくれたのに、ハルは丸い黒目を輝かせて嬉しそうに微笑みを返して、そのまま頭を一度下げて馬車へと乗り込む。
アニは相変わらずお人好しで、人から感謝をしてもらったとき…ではなく、笑いかけてもらった時にいつも嬉しそうにするハルに、少し呆れた様子で言った。
「…あんたってほんと、馬鹿が付くほどお人好しだね。何がそんなに嬉しいんだか…」
「私達は片道だけど、兵士さんは往復でしかも馬を走らせなきゃいけないんだ。すごく…大変かなって思ってさ」
ハルは肩に背負っていたリュックを体の横に起き、ライナーの向かいに座りながら、隣に座っているアニに言う。アニはそんなハルの気の抜けるような笑みに、はあともう一度ため息を吐いた。
「ハルは優しいよね、誰に対しても…」
アニの向かいに座っていたベルトルトが、そんなハルに笑顔を向けると、ハルはゆっくりと顔を上げて、頭上に広がっている青い空を見上げた。
「優しくなんか…ないよ」
背中を馬車の縁に預けて、ハルは空に上がった太陽に右手を伸ばし、太陽を透かした自分の掌を見上げながら、囁くように言う。
「私は、優しかった父さんと母さんの真似してるだけ…なんだからさ」
いつもは快活な彼女の目元に、悲しみが浮かぶ時はいつだって家族のことを話す時だった。
それは自分たちが奪った、彼女の一番大切なものだというのに、ハルの心に悲しみが滲むたびに胸を痛めるのは矛盾している。
それでも、ハルが痛い時は、痛いと思ってしまうんだ。
ベルトルトは、自分の首に掛かったお守りに視線を落とす。自分の中の見えない心が揺れ動くのを、春の風に吹かれて揺れるお守りが体現しているようだった…。
「…お前みたいな奴が、この世界に大勢居たんなら…、人同士の争いなんてもんは起こらないんだろうな」
ライナーは、空を見上げているハルを見つめて、呟くように口を開いた。
本当は口に出すつもりではなかった、心に浮かんだ言葉の初めは酷く掠れていて、側にいる3人の耳に辛うじて届くような、独り言のようなものだったが、三人は視線をライナーへと向ける。
「ライナーは…私を過大評価し過ぎだ」
ハルはそう言って太陽に差し出していた手を下ろすと、膝を抱えて肩を竦め「…それに」とぽつりと言葉を唇から落とす。
「私が沢山いたって、争いは絶対に起こる。人っていうのは、お互いに肯定してばかりいることなんて出来ないと思うんだ」
人は自分と似過ぎたものを嫌い、又違うものを嫌う。感情というものを持って、人間として生まれたのなら必ず抱えていくことになる、どうにもままならない、目に見えないそれは、人を喜ばせることもあれば、悲しませてしまうこともある。それを何度も繰り返して、いつか取り返しのつかないほどの罪を、犯してしまうことだってあるのだ。
ハルの言葉に、ライナーは自身の掌へ視線を落とした。
自分の手はもう血で汚れてしまっている。今更、一体自分は、ハルに何を求めているんだろうか。
許しを求めているなら、それは大きな間違いだ。許してもらえるなんて希望を、持つことすら罪深いのに。
「それでも、」
心が深い闇に沈みこんでいた時、ハルの少し明るくなった声が聞こえた。
「…そうやって反発しあった時、傷つけ合ってしまったとき、それでもどこかで折り合いを付けて「ごめん」って言えないとさ…。そのままずっと、深くまで落ちて行ってしまうんじゃないかな。落ちれば落ちるほど何も見えなくなって、不安になる。そして反発し合っていた本当の理由さえも見えなくなって、ただ大きく膨れ上がった恐怖だけが残るんだ。……本当はみんな、生きるために…必死なだけなのに。…求めているものだって、ほんの些細な幸せが…あればいいだけなのに…ね」
「「「っ」」」
ライナー達は、落としていた視線を持ち上げた。
再び空を見上げていたハルの短い黒髪が風に揺れ、黒い瞳は太陽の光を受けてキラキラと輝いている。しかしその瞳が見ている場所は、ずっと遠くの景色のようで…。彼女の中性的で端麗な横顔には、そのまま何処かへと飛んで行ってしまいそうな儚さがあった。
ハルの傍に居ると、もう全て吐き出してしまいたくなってしまう。
決して許してもらえるはずはないのに、この罪悪感を抱えたまま傍にいることがどうしようもなく苦痛で堪らない。
それでも、心の何処かで、何時も見えている景色の先を見つめている彼女なら自分たちのことを…見つけてくれるんじゃないかなんて、残酷な希望すら持っている。
ああ、本当に、側にいればいる程、言葉を交わせば交わすほど、どんどん離れられなくなっていく。
「あっ…、見てよライナー!ベルトルト!アニ!…四羽並んで飛んでるよ!」
ハルが弾んだ口調で、北側の空を指差す。
そこには雁が四羽、肩を並べるようにして空を飛んでいた。その雁達は南に向かい、壁の向こう側を目指して飛んでいく。
「…皆で…、一緒に故郷に帰れる日が来るといいね…」
そう言って、四羽の雁がウォール・ローゼの壁を越えて行くのを、慈愛に満ちた目を細めて見送るハルのその瞳を、汚す日は必ず来る。
あの雁達のように、目指す先は同じじゃない。取り戻したい故郷が、ハルとライナー達では違う場所にあるということも…、
何一つ知らずに側に居る、掛け替えのない一人の友人と、決して道が交わることはないと分かっていたとしても、どうしても繋ぎ留めておきたい。
そんな欲張りな自分を…どうか許してくれないだろうか…
ライナーとベルトルト、そしてアニは、自身の胸元で揺れる小さな『お守り』に視線を落とすと、静かに…祈るように目を閉じたのだった。
完