第十九話
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「(まただ・・・また家族を失った。
またこの痛みを思い出して、またここから…始めなければいけないのか)」
青を覆い隠した鼠色の雲から、相変わらず細かな雨が降り注いでくる。
その空に向かって、ミカサは緩慢に重たい右腕を上げた。
握っていたブレードは、落下の衝撃でほんの僅かな刃だけを残し、へし折れてしまっている。それはまるで自分の心の有り様を、体現しているかのようだった。
ガスを切らし上空から落下して無事でいられたのは、落ちた先が露店の上に張られた布の上だったからだ。しかし、地面に落ちていく体が向かっていたのは、瓦が張り巡らされた建物の屋根の上だった筈…
その事をぼんやりとした頭の片隅に思い出して、ミカサはふと視線を横に向けた。
「・・・ハル?」
傍には、頭部から血を流したハルが横たわっていた。
エレンの死をアルミンの口から聞いた時は、体をめぐる血が一瞬で凍りついたような気がした。その冷たさは、ふりしきる雨の冷たさなど比べものにはならず、生きる為に必要な熱を、全て自分から奪い去っていった。
それでも、酷くぼやけた頭が、ガスを切らして地面落ちていく時、確かな温もりが体を包み込んでくれていたことを、本のページを捲るようにゆるゆると思い出していく。
「(ハルが・・・庇ってくれたんだ)」
折れてしまったブレードを鞘にしまい、ゆっくりとこちらに近づいてくる巨人の足音を遠くに聞きながら、冷え切った手の指先で、傍に横たわるハルの頬に触れる。
その頬は雨にしっとりと濡れていたが、陽だまりのような温かさがある。ハルの温もりは、エレンと出会い、赤いマフラーを巻いてくれた時のことを、ミカサに思い起こさせた。
突然父と母を失い、帰る場所も失ったミカサに、エレンは不器用に、それでも涙が出てしまうほど優しい言葉をくれた。そして、エレンの温もりを携えた赤いマフラーを、寒いと嘆いていたミカサに巻いてくれた。
『温かいだろ・・・?』
そう言って、手を差し伸べてくれたエレンが、ミカサに家族と、温もりを、帰る場所を再び与えてくれた。
出会った時から、ずっと・・・或いは出会う前からずっと、エレンはミカサにとって、太陽みたいな存在だった。この世界で命あるものが生きるために必要不可欠なのと同じように、ミカサが生きていくために、なくてはならないない存在だった。
しかしこの世界は、エレンを私から奪い去ろうとする、何度も・・・何度も・・・それは酷く残酷に。・・・それでも、彼が生きる世界はいつだって美しかった。
ミカサはハルの頬を指先でそっと撫でると、徐に瞼を閉じた。
いい人生だった。
巨人の足音が徐々に大きくなり、地面がグラグラと揺れ始めるのを感じながら、ミカサはそう心の中で思った。
この世界を終わらせて、また・・・もう一度、エレンと出会えることを願いながら。
「……駄目だよ、ミカサ」
「!」
屋根の上に投げ出していた手が、不意に温もりに包まれて、ミカサは閉じていた重たい目蓋を押し上げた。
自分が一度諦めた世界には、体を横たえたままミカサの右手を握り、黒い双眼で優しくこちらを見上げる、ハルの姿があった。
「ミカサの気持ち・・・よく、分かるよ。大切な人が居なくなった世界は…本当に…地獄だ。悲しくて、苦しくて…痛くて辛くて・・・立っていられなくなる。…この世界を、自分だけで生きて行こうなんてこと、到底・・・っ思えやしないんだ。……死ぬ理由は見つけられても、生きる意味は…見つけられなくなってしまうっ…」
ハルはそう、身体の痛みに耐えながら、何とか声を絞り出すようにして、ミカサに語りかける。
その言葉が空っぽになった心に染み渡るのは、彼女の言葉が傷だらけで、血が滴っているからなのだと、ミカサは思った。それと同時に、自分の心の傷の、深さや痛みを、本当に理解してくれるのはきっと、この世界でハルだけなんだとも思った。
ハルは、優しい。
でも、手放しに優しいわけじゃない。嘘で人の気持ちを、守ることも、傷つけることもしない。それを知っているからこそ、ハルの言葉は無気質なものではなく、重く、生きているんだと感じるのかもしれない。
「でも、さ……私は、やっと見つけられたんだ。地獄のような世界を、生きて、生きて…っ、そうしてやっと、やっと見つけたんだよっ…」
ハルは、ミカサの冷え切った手をぎゅっと握りしめて、眦に涙を浮かべる。その涙には、長年の悲願が込められているようにも見えた。
「もう一度、家族と同じくらい大切な皆のことを…っ、ミカサ…!君のこともっ…!」
「っ・・・!」
ボロリと、ハルの目から、涙が零れ落ちた。それは露店の燕脂の布に吸い込まれ、音も無く染みを広げていく。
ミカサはそんなハルを見て、自分の中で死にかけていた『何か』が、熱く震え始めるのを感じた。まるで止まった心臓が、再び鼓動を始めたかのように。
「ミカサっ・・・お願いだよ。生きることを諦めないで・・・!私はっ、ミカサが死んでしまったら辛いんだっ・・・!もう二度と家族をっ・・・失いたくっ、ないんだぁ・・・っ!」
ハルはミカサに縋り付くように、握りしめていた手を額に押し当てて懇願する。
その温もりと涙の感触に、ミカサは胸を突き上げてくる激しい感情に耐えるように、唇を噛んだ。
家族を二度と失いたくないと嘆くハルの姿はまるで、自分を鏡に映して見ているかのようだった。
喉が熱くなって、鼻の奥がひりつく。途方もなく悲しくて、切なくて、情けなくて、どうしようもなく堪らなくなって、泣きたくなった。
『戦え』
頭の中で、声がする。
その声はとても大切で、ミカサにとっては掛け替えの無い、大切な人の声だった。
『戦え!』
もう一度、今度はハッキリと、まるで魂に訴えかけてくるかのようにその声が・・・エレンが言う。
それは昔の記憶の中の幼いエレンだ。
突然家族の命を奪った賊から私を守ろうと立ち向かったエレンが、その中の一人に首を締められながら、絶望し、床に倒れ込んでいた私に訴えかけた。
『勝てなきゃ死ぬ・・・っ、勝てば、生きる・・・!戦わなければ、勝てない!』
いつの間にか、もうすぐ傍まで迫っていた巨人の手が、ゆっくりと横たわるハルの体に伸びていた。
ミカサはその手を、僅かに残した刃で斬り落とし、ハルの体を抱えて露店から飛び降りた。それは半ば無意識の行動だった。
地面に足をついた時、二人分の体重が膝に掛かったが、体はそれに痛みを感じることもない。身体は良く動く。あの高さから落ちて無傷でいられたのはきっと、ハルが必死になって、自分のことを庇ってくれたからだ。
「ごめんなさい・・・ハルっ・・エレン…っ!」
堪えていた涙が頬を流れ落ちる。
冷え切った頬に、それはとても温かくて、自分はまだ生きているのだと実感する。
「(私はもう諦めない…っ!二度と諦めない…!死んでしまったらもう、二人のことを思い出すことも出来ない…!)」
ミカサは意識が朦朧としているハルを背に横たえると、ただ一つ残った刃を両手で固く握りしめた。それは小さな刃だった。家族を奪った、エレンを奪おうとした、賊に突き立てた小さなナイフと、同じように。定められた運命に、抗うように。
「(何としてでも勝つ、何としてでも、生きる!!)」
凍りついていたはずの身体を流れる血が、一気に燃え上がるのを感じながら、ミカサは咆哮を上げた。
「うぁぁぁぁぁああああ!!」
そしてその叫びは何倍も大きく膨れあがり、熱い拳と成り代わって、目の前の巨人を殴り飛ばした。
ドォォォォオオオオンッ!!
「!?」
地面が激しい轟音と共に突然飛び上がり、体が宙を舞う。
ミカサは反射的に受け身を取って地面に伏せたが、何が起こったのか分からなかった。
「っ一体何が・・・?!」
困惑しながら地面に伏していた顔を上げて、目にした光景に息を呑む。
視界に映り込んだのは、先程の巨人とは全く別の巨人だった。
その巨人の姿は、まるで人のようだった。
其処らに蔓延る、異様に下っ腹が膨らんでいたり、足が短かったり、頭ばかり大きかったする個体とは違い、身体のバランスが人そのもののようであり、体にはしっかりと筋肉がついている。
その黒髪の巨人は、地面に横たわっている巨人を見つめながら、激しく雄叫びを上げる。それにミカサは思わず両耳を塞いだ。
「っ!」
黒髪の巨人は、地面に倒れている巨人に飛びかかると、その体を何度も何度も、足で踏み潰した。頭を吹き飛ばしてもそれは止まらず、頸を踏み躙り、巨人が息耐え蒸気を上げるまで、その攻撃は続いた。
ミカサはその光景にただ困惑し、地面に膝をついたまま、心の何処かで、高揚感を抱いていた。
その巨人はまるで、人類の怒りを体現しているかのように見えたからだ。
「・・・っ、ぅ・・・」
「!」
ミカサは聞こえてきた呻き声に、弾かれるようにして地面から立ち上がると、辺りを見回した。
ハルが地面に俯けに倒れた体を、必死で起こそうとしているのが見えて、ブレードをしまい、慌てて傍に駆け寄る。
「ハルっ!」
「ミ・・・カサ・・・あれは一体、何だ・・・ろ」
ハルはミカサに支えられながら何とか身体を起こし、空に向かって雄叫びを上げ続けている巨人を、震える指先で指した。
「分からない。っでも今は、そんなことを考えなくていい・・・!ハル、怪我の治療を・・・っ」
ミカサは首を左右に振り、ハルの顔を掴んで、頭部から出血している傷口を確認した。パックリと切り傷が三センチほど走っている。
しかし、ハルの様子からしても怪我はそれだけではない筈だった。体を動かすのが辛そうだし、意識もどこかぼんやりとしている。
「前にも・・・こんなこと、あったような気がするんだ」
ミカサがハルの頭部の傷口を、持ち歩いていた消毒液で洗い流している中、ハルはじっと黒髪の巨人を見つめながら、独り言のように呟いた。
「あれは・・・そうだ。・・・あの時、私は巨人食われそうになっていたのに、鎧の・・・巨人・・・がーーー」
「鎧の・・・巨人?」
ミカサは、ピタリとハルの傷口を洗い流す手を止めた。
見つめたハルの表情には、困惑と、動揺が見られた。頭を打って、混乱しているのかもしれない。衛生兵に診て貰う必要があると、ミカサはこの先どう動くべきか考えを巡らす中、不意にこちらに近づいてくる立体機動装置がガスを吹かす音が聞こえてくるのに気がついて、そちらへと顔を向けた。
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