第十七話

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 『危なくなったら逃げる』、それは先ほどヴェールマン隊長が言っていたように敵前逃亡に当て嵌まり、死罪に値する行為だった。

「…ごめん、皆。二つ目のルールは、ただの私の我儘なんだ。…敵前逃亡が死罪に値するっていうのは、分かってる。それでもしも咎められるようなことがあったら、その責任は命令を下した班長の私が取る」

 ハルは眉間に皺を寄せ、厳しい表情で言った。
 ジャンはそんなハルに、両腕を組んで咎めるような鋭い視線を送ると、低い声音で問い詰める。

「責任取るって…お前、それがどういう意味か分かって言ってんのかよ…っ」

「…分かってる」

 ハルはゆっくりと頷いた。班長がその命令を下し、責任を取るということは、それは死罪になることを受け入れると言うことだ。

 そんなこと、させられるわけがない。

「っ馬鹿なこと言ってんじゃねぇ!」

 ジャンは地面を蹴るようにしてハルの両肩を掴んで凄むが、マルコも同じくハルに詰め寄って大きく頭を左右に振った。
 
ハルっ…今のは、聞かなかったことする。俺たちは兵士だ。民を守るため、為すべきことがあるなら、命をかけてでも為さなきゃいけない。逃げることはできないし、何よりそれが、ハルを傷つけることになるならっ…」

 しかしハルはいつもよりずっと低い声で、マルコとジャンを見上げて言った。

「まだ私たちは訓練兵だ。卒業試験は終えているけれど、正式に兵士として認められているわけじゃない。その懲罰が適用されるとも限らないよ」

「そう…かも、しれないけど、それも、確かなことじゃないだろうっ」

 マルコはいいやと首を振って、ハルに更に詰め寄った。ジャンも必死な目でハルに訴え掛け、ダズとフロックもやめろと身を乗り出した。しかし、ハルの気持ちが変わることはなかった。むしろ、皆が自分を懸念してくれている気持ちが、更にハルの決意を固いものに変えていた。

「正直なところ…住民の避難がどうとか、そういうのはどーでもいいんだ」

 ハルはそう、静かに言った。その声は、今までハルから聞いたことがない程冷ややかで投げ槍な響きがあったが、それは仲間を思うが故なのだということも、ジャン達にはすぐに理解できた。

「こんなこと、口にするべきじゃないかもしれない。でもっ、私にとって…みんな以上に大切なものは、この世に一つだってっ、無いんだ!」

 ハルはぎゅっと左手首を握っている手に力を込め、感情的になって言った。その言葉は兵士としてあるまじき発言だったのかもしれないが、ジャン達には酷く殊勝な言葉として胸に響いた。

「…ハル、」

 ジャンはハルの両肩を掴んでいた手から力が抜けていくのを感じた。そこに喜びはなかった。ただ自分が酷く情けなくて堪らなかった。自分という存在はハルにとっては守るべきものであって、守られるものではないのだということが、今目の前で必死になっているハルの姿に、まざまざと思い知らされているようで、顔を俯ける。
 
 ハルはそんなジャンから一歩後ろに下がって離れると、皆に向かって深く頭を下げて、命令を下すというよりは、懇願するようにして言った。

「私はもう、選ぶものは決めてある。他の何を天秤に掛けたとしても、最終的に選ぶのは皆の命だ。だから…、このルール、どうか受け入れてっ…」

 そんなハルの姿を、ジャン達は見ていたくはなかった。自分たちの為に、ハルは今、命を懸けようとしている。

 マルコは頭を下げたまま動かないハルの肩に触れて、「顔を上げてよ…」と呟いた時だった。

ハルグランバルドは居るか」

「!」

 固い口調の声が響いて、ハルは弾かれるようにして顔を上げた。

 其処には駐屯兵団の兵服を纏った、班長のイアン・ディートリッヒの姿があった。金髪の前髪を戦闘で邪魔にならないよう真ん中から耳に流した彼は、佇まいだけで敏腕兵士なのだとすぐに分かる。少なくとも先ほど作戦を公言していたヴェールマン隊長よりもずっと落ち着きがあって、頼り甲斐がありそうだった。

「は、はい。私がそうですが…」

 ハルはイアンの前に一歩出ると、イアンはハルに至極端的に命令を下した。

「お前も特別に後衛部だ。ついて来い」

「え…?まっ、待ってください!一体何故っ…」

 それだけ言い放ち踵を返して歩き出そうとしたイアンの背中を、ハルは慌てて呼び止める。それにイアンは深くため息を吐いて、「また同じ説明をしなければならんのか…」と呟いた。「また…?」と怪訝な表情で首を傾げたハルに、イアンは再び振り返ると、鋭い瞳を細めて口早に説明する。

「住民の避難が遅れている今、一人でも多くの精鋭が必要なんだ。お前は訓練兵団をアッカーマンと同じく首席で卒業した。お前だけではなく、アッカーマンも後衛部に入る」

「ミカサも…っ、でも、それは…っ」

 ハルは酷く動揺していた。イアンの説明では、全く納得がいかなかった。
 自分は確かに卒業試験は終えているが、ただの訓練兵に過ぎない。ならば同期たちと同じ扱いを受け、中衛部で補給支援や巨人掃討の任務を負うべきだ。いくら住民の避難のためとはいえ、後衛部に配属となればジャン達から…仲間達から離れてしまう。それでは皆のことを、巨人の脅威から守ることが出来なくなってしまう。

「…早くしろ」

「っ!」

 ハルは背を向けて歩き出したイアンを引き留めようと腕を伸ばしたが、ジャンがその腕を掴んで引き留めた。

「おいっ、やめろハルっ!」

「ジャン…っ、でも!!」 

「っ俺たちのことは心配しなくていい…!だから、お前は命令通り後衛部に行って、さっさと住民の避難を終わらせてくれ。そうすりゃあ俺たちにも、撤退命令が下りるだろっ?」

 ジャンは焦りを露わにするハルを宥めるような口調で言うと、ハルはぐっと奥歯を噛み締めて、苦しげに言った。

「っ…皆と、離れたく無いんだっ…」

 両手を握りしめ、肩を落として俯いてしまったハルに、マルコは微笑み掛け、ジャンの背中をバシッと叩く。

「大丈夫だよハルっ!僕たちには頼れるジャンも居ることだし!」

「っ…俺じゃ、不満かよ?」

 それにジャンは一瞬肩を跳ね上げたが、次には腰に手を当てて、ハルの後頭部を見下ろすようにして問い掛ける。ハルはゆっくりと顔を上げると、ジャンの顔を見て、泣きそうな顔で、笑った。

「…っ、まさか」

 不満な訳はないと、それはどこか誇らしげでもあるような表情に、ジャンはふっと口元を緩ませて、ハルの形の良い頭を撫で回した。

「…だったら、行けよ。お前の言ってた二つのルールは…必ず守るって約束、するからよ?」

 ジャンの言葉に、ハルは瞳を丸くして、それから安堵の表情を浮かべた。自分の頭をグリグリと撫で回すジャンの手は乱暴なようで、優しかった。

「…っ、ありがとう」

 笑みを浮かべるハルに、ジャンも「おう」とニッと歯を見せ、撫で回していた頭を最後に軽くポンと叩いて、手を離した。

ハル、俺たちの心配してくれるのは嬉しいけど、自分のことも心配しろよ?油断大敵だからな」

 フロックはしかめっ面で、乱れた髪を直しているハルの右肩の辺りを、軽く拳で小突いて忠告すると、ハルもうんと頷きを返して、同じようにフロックの右肩を拳で小突いて微笑んだ。

「そうだね。気をつけるよ、フロック」

「…」

 そんな中、ダズは青白い唇を震わせ、地面に視線を落として立ち竦んでいた。

 ハルはそんな彼に歩み寄り、震える肩に手を乗せて顔を覗き込む。

「ダズ」

ハル…、俺」
 
 ダズは酷く震えたか細い声を溢した。
 それをハルは笑うことも罵ることもせず、静かにダズの握りしめた両手にそっと触れた。

「怖いよね。…私も、怖くて堪らないよ」

「!」

「震えてるでしょ?君と、同じだよ」

 ハルが自分の手に触れる指先は、とても冷え切っていて、そして僅かに震えていた。ダズは自分ばかりが酷く臆病者なのだと思っていた。仲間達が作戦に向かおうとしている中、ダズはこの本部から一ミリたりとも出たくなかった。だからこそ、皆の話も、作戦内容も、他人事のように思えて、正直頭に入ってこなかった。

 それでも、自分の恐怖に寄り添おうとしてくれているハルの声は、ダズの耳にしっかりと届いた。

「でもきっと、震えているだけじゃこの状況は何一つだって変えられない。…この恐怖を乗り越えるために、また明日も生きるために…戦おう。皆で、一緒に…!」

ハル…っ」

 ダズが顔を上げると、ハルの黒い瞳と目があった。その真っ直ぐな瞳は、ダズの姿を鏡のように映していて、優しげに細められる。

「これまでダズにはたくさん、助けられて来た。ダズが必死に自分自身と戦って、何度も自分を奮い立たせる姿を見せられる度に、私も頑張ろうって…前に進む力を貰ってた。だからダズ…、皆のこと、どうか支えてあげて」

「っ!」

 それはこちらのセリフだと、ダズはハルに言いたかった。

 ダズはハルに何時だって感謝していたし、尊敬し憧れてもいた。どんなに苦しい時も、ハルは前だけを見ていた。どんなに辛くても、前に進もうと足掻いていた。そんな中でも、仲間のことを思い、自分自身よりも理解して、寄り添ってくれていた。そんなハルが自分の前を歩く度、此処で立ち止まってはいられない、前に進まなければと思えた。

 ハルは自分の手を引いてくれる、道標のような存在だった。そんなハルの背中を、自分は支えられる程強くはないのかもしれない。ならせめて、彼女の腕を引き留め、その歩みを止めてしまうことだけはしたくなかった。

「…ああ…っ分かったよ…っハル…!」

 ダズは懸命に首を縦に振って見せる。それにハルも笑顔になって頷くと、ダズから離れ、それからジャンの方へと向き直った。

「ジャン。…皆のこと、任せるよ」

 ハルの目には、ジャンに対する絶対的な信頼があった。それをジャンも感じていて、身が引き締まる。

「ああ、心配すんな。だからお前は存分に巨人を掃除して、住民の尻引っ叩いて来い」

「…尻引っ叩くことはしないよ」

「今のは言葉の綾だろーがっ!」
 
 生真面目に眉をハの字にして自分を見上げるハルに、ジャンがハルの眉間を指で弾くと、ハルは「いてっ!」と小さく声を上げて額を両手で抑える。それからジャンを見上げ、ジャンもハルを見下ろして、お互いにふっと小さく笑みを浮かべた。

「…ジャン、これ…」 

 ハルは徐に首にかけていたお守りの紐を解くと、それをジャンの首に巻き付けようと腕を伸ばした。

「…これはお前の大事なもんだろ…?」
 
 背の高いジャンに背伸びをして紐を縛ろうとするハルが辛そうなので、ジャンは何気なく体を少しだけ屈めて問いかける。
 それに、ハルは耳元で、流れ星に願い事をするかのように、そっとジャンだけに聞こえるよう囁いた。


「…ジャンのことを、守ってくれますように」

「!」


 ハルはジャンの首にしっかりと紐を結び終えると、体を離して微笑んだ。ジャンは胸元に揺れるお守りに視線を落とすと、それを右手でしっかりと握り締める。

「…ちゃんと返す」

 その言葉に、ハルはにっと白い歯を見せて、軽く拳でジャンの胸元を小突いて言った。 

「当たり前だっ」

 その笑顔はどこまでもハルらしくて、こんな時でも自分は、ハルの笑顔に胸を打たれるのだと、ジャンは頭の片隅で思った。

グランバルド!行くぞ!」

「はい!…じゃあ皆っ、また後で!!」
 
 ハルは本部の出口の方からイアン班長に呼ばれ、ハルは踵を返し、ジャン達に背中を向け、手を振りながら走っていく。
 その背中をジャン達は見送りながら、ハルの無事を願い、そしてこれから向かう戦地へと、気持ちを切り替えた。

ハルならきっと、住民の避難を上手くやってくれるよ。…それまで僕たちも頑張ろうっ」

「ああ、そうだな…!」

 マルコが固い口調で言うのに、ジャンもお守りを握り締めたまま頷く。

「俺たちもそろそろ行かないと。…ダズ…、大丈夫か?」

 フロックが傍に居るダズの背中を叩いて問い掛けると、ダズは奥歯を噛み締めるように大きく頷いた。

「ああ…っ!大丈夫だ!」

 そんなダズの姿に、ジャン達は自分たちも奮い立たなければという思いになった。

 絶望と恐怖に落とされたダズを救い出せるのはきっと、ハルしかいない。そしてこの悪夢のような状況下で、前に進む道をはっきりと指し示すことが出来るのも、ジャンが知っている人間の中では、ハルしかいなかった。

「…やっぱすげぇなぁ…あいつは」

 ジャンは思わずそう呟きながら、雨が降り出しそうな重たく暗い空を仰いだ。
 自分たちが向かう場所はきっと、この空と同じように暗雲立ち込めた状況下の戦地だ。
 それでも、此処で立ち止まっていては、口火を切られた地獄の始まりを、永遠に終わらせることはできない。

「…っし!行くぞお前ら!!」

「「おう!!」

 ジャンは意を決して、マルコたちに声を上げると、マルコたちも腕を上げて自身を奮い立たせ、そして巨人の蔓延る戦地へと赴いたのだった。


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