第一話
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俺たちは、悪夢に魘されている。
自身の体に、一生消えずに残り続ける血の匂いが染み付いた、『あの日』の夜からずっと…。
いや…、正しく言えばそれは悪夢なんて生易しいものではないのだ。眼球深くに刻み込まれた、耳を塞いで両目を固く閉ざしてしまいたくなるような凄惨な光景は、現実として起こったこと…【起こしてしまったこと】なのだから、悪夢から目が覚めたところで、逃れることも忘れてしまうことさえもできない。
だとしても、俺たちにはそれを成し遂げなければいけない理由があり、使命があった。
初めてしまったことはもうすべてを終わらせるまで止めることはできない。進み続けるしかない。いくら頭を下げて謝っても、命で償ったとしても、決して許されないことをしてしまった。その自覚はあり、…罪悪感もある。
…それでも、その罪をまた積み重ね行き着いた先にあるものを掴まなければ俺たちの世界に未来はないのだ。
地獄へ落ちることはもう分かっている。それでも、この先で再び手を血で染め上げなければ…。
俺は…、俺たちは人間性すら捨ててでも、戦士としての使命を全うし、故郷へ…帰らなければいけないのだから––––
『黒白の翼』
第一話 手離せない絆
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「ライナ…、ライナー…!」
何も見えない、深く重たい闇の中で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
高くもなく低くもないが、その声は出会った時から春の木漏れ日のような優しい温かさを孕んでいて、『あの日』から抱えている自身の胸の見えない空穴に、その熱がじんわりと広がっていくようだった。
俺は底知れない闇の中からその温もりに縋るように、ゆっくりと重たい目蓋を持ち上げる。
そうして一番最初に見えたのは、もうすっかり見慣れてしまった古ぼけた板張りの天井だった。その天井がやけに低く感じるのは、正確にはそれが天井ではなく二段ベッドの裏側だからだ。
「あ…やっと起きたみたいだね」
先ほど自分を呼んでいた声の主が、すぐ傍でゆったりとした口調で囁いた。
俺は体は起こさずに、硬い枕の上の頭だけを横に向けると、ベッドの縁に両腕を乗せてこちらを窺う少女の顔があった。細く柔らかそうな、短い黒髪と同様に、その黒い双眼をゆっくりと撫でるように瞬きをして、いつものように人当たりの良い笑みを浮かべている少女の名前は、ハル・グランバルドという。唇の下にある小さな黒子がチャームポイントだ。
ウォール・マリアを、
俺たちが陥落させた『あの日』––––…
住む場所を失った人たちの一時的な避難場所に紛れ込んだ俺たちが、次の日に送られた開拓地…此処へ来た時に知り合った同い年の少女が、ハルだった。
「む……なんだ、ハルか」
相性の悪い枕のせいで凝り固まった首をバキバキと左右に鳴らしながら、ベッドから気怠げに上半身を起こす俺に、ハルは澄んだ瞳を細め、気遣いげに問いかけてきた。
「ライナー、少し…魘されていたよ?悪い夢でも見ていた?」
「いや…大丈夫だ。心配かけて悪かったな」
「…うん」
俺の返答に対して、ハルが全く腑に落ちていない様子で眉尻を下げたのを見て、苦笑を浮かべる。
ハルは出会った時からかなりの心配性で、お人好しだった。人のちょっとした変化にかなり敏感で、俺達が体調を少しでも崩せばすぐに気がつく。だからこそ、ハルに嘘を吐くことは、いつだって物理的にも…精神的にも辛い。
「体調が悪いなら、無理しないでね?これから駐屯地まで、しばらく馬車移動だし…。あと半刻もしたら迎えの馬車が到着するから、ライナーもそろそら起きて着替えないと。準備は昨日の夜済ませたって、ベルトルトは言っていたけど……ライナーは、ちゃんと終わってる?」
「なっ?!っ!!」
その言葉に「しまった」と目を丸くして、まだぼんやりとしていた頭が急に覚醒する。が、慌てて飛び起きようとして腰を上げると、もう何度目か分からない二段ベッドの天井に脳天を盛大にぶつけて悶絶した。ドンと鈍い音がして、古い二段ベッドが大きくグラつく。あまりの痛さに蛙が潰れたような声を上げて頭を抱えると、ハルが気の毒そうに顔を顰めて、俺の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫?」
「あ、あぁっ大丈夫だ…よくあることだし、慣れてる…っそれよりも、起こしに来てくれて助かった。昨日ベルトルトと話しをしてたら長引いちまってな」
と、言い訳はしたものの。昨日の夜遅くまで話し込んでいた友人のベルトルト・フーバーは、普段は自分よりも遅起きで寝相も悪いの範疇を超えて芸術的だというのに、二段ベッドの上から珍しく気配がしないということは先に起きて支度を済ませているようで、やはり自分は相当寝坊をしているんだなと改めて自覚する。
「ライナーが寝坊する程話し込んでたんだね。…そんなに兵士になるのが…待ち遠しかった?」
珍しいこともあるものだと小首を傾げて問い掛けてくるハルの頭を、苦笑しながらわしわしと撫で回して、俺は頭上を気にかけながらベッドの外に足を出した。足の裏に触れた板張りの床は毎度のごとくひんやりとしていて、両足をついて立ち上がると、こちらも毎度の如くぎしりと苦しそうに軋み上がる。
この九畳程ある開拓地で働く人間の宿泊施設の一室には、2段ベットが四つ押し込まれるようにして置かれている。床も壁も天井もかなり古く、最初の頃は歩くたびに音を上げる床のせいで、人が出入りするたびに夜と朝は目が覚めてしまっていたが、半月も経てばそれにも慣れた。気づけはこの宿泊施設での生活も2年が経つ。
しかし、ここでの生活も今日で終わりだ。
ハルが言うように俺たちは今日この開拓地を出て、訓練兵団に入団する。
この壁の中の人類がウォール・マリアを失ってからは、軍拡を始めたこともあり、12歳を迎えても兵士に志願しないと蔑まれる風潮がそれと比例するように広がり始めている。あくまでも志願制ではあるのだが、世間体を気にして兵士になる者も今では少なくないという。
しかし、俺たちが訓練兵に志願するのは、【目的】を達成するための手段の一つとしてであり、ただ『兵士』になるためではない。
その真意を知らないハルに、胸の中に重たい罪悪感がこみ上げてきて、俺は撫で回していた頭をポンと一度軽く叩き手を離す。…掌に感じていた柔らかな髪の感触と温もりが、途端に酷く痛くて、悲しいものに感じられたからだ…。
「…準備は終わっているからすぐ身支度して外に出る。ベルトルトとアニたちは?」
ハルに触れていた手を握りしめて、履いていたズボンのポケットに隠しながら、一緒に訓練兵になるベルトルト・フーバーと、もう一人、小柄で金髪の青い目を携えたアニ・レオンハートも出発の準備は済んでいるのか問いかけると、ハルは撫で回されて乱れた髪を直しながら、「もう準備出来てるよ。外で待ってるから、なるべく急いでね」と少し急かすようにして言った。
「ああ、分かった」
鏡がない部屋なので、乱れた前髪の置き場に戸惑っているハルに、俺が細く白い指が掴んでいる黒髪の束を、正反対な無骨な指先で摘んで、いつもの場所に分けてやる。と、ハルは前髪を乱した本人に、相変わらず屈託のない笑みを浮かべて「ありがとう」と笑う。そうしてパタパタと軽い足取りで部屋を出て行ったハルの背中を見送りながら、胸の中の罪悪感が重みを増して首を擡げるのを感じていた。
きっと、ハルが俺たちの秘密を知ってしまった時は…、もう…ああやって笑いかけてくれることは無くなるんだろう。
こうやって今になって後悔することは、ハルと出会い時間を共にして行くことを選ぶ…その前から既に分かり切っていたのに…それでも俺たちは突き放すことができなかった。
俺はいつも首にかけている小さな袋を服の下から取り出して、右手の掌に乗せた。
これはハルが以前、宿泊所で使わなくなった布の切れ端と糸で俺たちのために作ってくれた、東洋人から古くから伝わる『お守り』というものだった。自分と同じように、ベルトルトとアニ、そしてハルも同じものを首から下げて身につけている。
『皆が故郷に帰れるように、神様にお願いして作ったんだ』
お守りを俺たちに手渡してくれた時、そう言ったハルの笑顔と、底無しの優しさに、俺たちは今もまだ縋り付いている。
ハルが帰ろうとしている故郷と、俺たちが帰ろうとしている故郷は、違う。この先、彼女を深く傷つけるのも、そして傷つけてしまったのも俺たちなんだと痛いほど分かっているというのに……どうして、手離してやれないんだろう。
「すまない…ハル」
俺は口の中に広がる苦い感情にぐっと奥歯を噛み締めて、そのお守りを服の下に戻し、ベッドサイドに昨晩用意していた着替えを手に取った。
彼女に向ける感情に伴う行動の矛盾から目を逸らすのは、今となってはもう何度目かも分からなくなってしまっていた。
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