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第十六話

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 解散式を終えた明朝、104期の訓練兵は南駐屯地を出て、トロスト区の壁上砲台の整備を行なっていた。
 午前の内に砲台の整備を済ませて、午後はトロスト区の本部で所属兵科を問われ、その後は寮の荷物を纏めて各配属先へと向かうことになっている。
 皆辛い三年という訓練期間を乗り越えて、切望したこの日を迎えられることに少々浮き足立っていた。それはジャンも例外ではなく、同じ班のマルコとフロック、そしてダズの三人も同じだった。たった一人、ハルだけを除いて。

「よし、ここで最後だなー」

 ジャン達の班はトロスト区の南西に設置されている壁上砲台の整備を割り振られており、砲台の側面に白いペンキで「26」と記された砲台の発射口に、フロックは長いブラシを差し込んだ。すると発射口からブワッと煙のように埃が舞出てきて、フロックは「へっくしょん!」と盛大にくしゃみをする。
 
 トロスト区の壁上にある砲台は、滅多なことがない限り使用は許可されない。無闇に使用すれば壁下に巨人が集まってしまうということと、周辺住民に不安を与えてしまうことにもなるからだ。

 しかし、使用していなくとも、荒廃してしまったマリア側から吹き込んでくる特有の重々しい風が、木の葉や埃などを引き連れて来て、あっという間に砲台を汚してしまう。本格的な整備は駐屯兵団の兵士が行なっているが、簡易的な清掃は訓練兵を壁の高さに慣れさせるためと、立体機動装置で壁を登る訓練がてらに訓練兵が担当することになっていた。

「…何だか寂しくなるね。もう三年も一緒に過ごしてきた仲間と、離れるんだもんな…」

 マルコは砲台の側面を、もうすっかり鼠色になってしまっている布で拭きながら感慨深くなって言うと、ダズは砲台を移動するレールに挟まっている枯れ葉やゴミを拾い袋に詰め込みながら、気怠そうにして言った。

「でもよ、今より部屋も広くなるし、給料だって高くなるだろ?食い物だって少しはマシになるだろーよ」

「それはそーかもしれないけど、駐屯兵団の下っ端の飯はそんなに今と変わらないだろ?まぁ、憲兵に行けるマルコとジャンは別だろーけどな」

 フロックは発射口に差し込んだブラシでガシガシと少し投げやりに埃を掻き出しながら言うのに、ジャンはやれやれと砲台の発射角度を変えるハンドルの錆びつきを硬いブラシで削ぎ落としながら溜息を吐く。

「お前らと一緒にされてたまるかってんだよ。何のために今まで努力してきたと思ってんだ。なぁ、マルコ?」

 呆れた様子で同意を求めてくるジャンに、マルコは砲台越しに表情を曇らせて首を横に振った。

「…ジャン、その言い方はあんまり良くないだろ?フロック達だって頑張ったんだから」

「…まぁー、そーだよな。お前はそういう奴だったよな」

 マルコの言葉に、ジャンは更に呆れ顔になって肩を竦めた。それにフロックとダズは顔を見合わせて苦笑する。ジャンの抜き身過ぎる性格は今に知ったことではないので、今更苛立つこともなかった。本人達は気に留めていないようだったが、マルコは看過できないといった様子で、表情を曇らせたままマリア側の方を見つめて佇んでいる、この班のリーダーであるハルに顔を向けた。

ハルからも、ジャンに何とか言ってやってよ…?」

 しかし、ハルは何も答えず、水の入った木のバケツを右手に握り締めたまま動かない。
 そんなハルを怪訝に思ったマルコは首を傾げたが、その時ハルの両足が赤く引かれた線の奥にある事に気がついた。

 その線は『レッドライン』と呼ばれていて、其処を越えると、壁に張り付いている巨人の姿が肉眼で確認できるようになる。
 ハルはすっかりと荒れ果ててしまったマリアの景色を眺めていた訳ではなく、足元で蠢く巨人を見下ろしていたのだった。

 それにマルコだけではなくジャン達も気がついて、皆それぞれの作業を止めた。ジャンはサビを落としていたブラシを地面に置いて、手に付いた汚れを払いながら、レッドラインの内側で足を止めて、脅かしてしまわないようハルの肩に軽く触れた。

「おい、ハル。どうした…?」

 しかし、ハルの横顔を覗き込んでも、以前よりも長く伸びた前髪が彼女の表情を覆い隠してしまっていて、その表情を見ることはできなかった。ただ、ハルがどこを見ているのかということは分かって、ジャンは慎重な足取りでレッドラインを踏み、足下へと視線を落として、小さく息を呑んだ。

 其処には、巨人の姿があった。

 八体程の巨人が、壁に腹を擦り付け、こちらに向かって腕を伸ばしている。大きさはバラバラで、五メートル級や十五メートル級、それよりも大きく小さい巨人も居る。其々に気味の悪い笑みを浮かべていたり、怒ったように眉間に皺を寄せているが、其れらは決まってハルに異様に大きな目を向けていた。

 初めてトロスト区の壁に登り、レッドラインを超えて巨人の姿を見た時は、皆恐怖と不快感に震え上がり、中には吐いてしまう者も居た。南からローゼの壁を駆け上がってくる風は、言いようの無い腐敗臭を含んでいた。それは壁に張り付き集まっている巨人の臭いだった。巨人が自分たちを捕食しようと、人よりも大きく、そして多く並んだ歯を丸出しにして、口を大きく開けた時、ジャンはその口の中に人の骨や、兵服の端切れが挟まっているのが見えた。あの時の衝撃は今でも鮮明に思い出すことができて、それは今まさに足下に広がっている光景と同じだった。

 初めての時程では無いが、ゾッとする光景にジャンは顳顬に冷や汗を滲ませて、再びハルの方へと視線を戻した。

 ハルは未だ、静かに下から這い上がってくる生温く異臭を含んだ風に長い前髪を揺らしている。その前髪の隙間から垣間見える双眸には、暗い影が浮かんでいて、ジャンは自身の胸に波立つような焦燥が広がるのを感じた。

 ハルは近い内に、この壁の上からではなく、地上に立って巨人と対峙することになる。

 その光景を思い浮かべるだけで、ジャンは背筋に寒気が走るようだった。

 ハルが調査兵団に入る事を希望していたのはずっと前から知っては居たが、彼女が決めた道を進もうとすることを、止めようという気にはなれなかった。しかし、その日が間近に迫り、足元に蔓延る巨人の存在を感じていると、まるで突沸でも起こしたかのように、ハルの調査兵団行きを引き止めたいという気持ちが込み上げて来る。
 
ハル…お前、今何考えてる」

 ジャンはその感情が溢れ出るのを押し止めようと、体の横で両手を握り締め、目を静かに細める。そしてハルの瞳に浮かんでいる暗闇に隠れた感情を探るように、声を低くして問いかけた。
 その問いに、ハルは影の浮かんだ瞳を撫でるようにゆっくりと一度瞬きをすると、糸で縫ったように引き結んでいた形の良い唇を開いた。

「何度見ても、何も…見えないんだ…」

 その言葉の終わりには、歯痒さと落胆が滲んでいた。

 ハルはバケツの取手がギシリと音がなるほど握り締めると、もう片方の手で足下に居る巨人達を指差す。

「巨人の目ってあんなに大きいのに、その中には何にも見えないんだ…。何の感情も、何の輝きもない。私を捕らえようと手を伸ばしてるのに、獣のような鋭さも何も…。…あの時も、そうだった…弟を食った巨人を間近で見た時も、同じことを思ったんだ。…本当に何もなかった。意志の一つも、本能でさえも…、ただ何処までも空っぽで…深くて暗くて、ジッと見つめていると、吸い込まれてしまいそうで…」

 自身の記憶を辿りながら、ゆっくりと話すハルの巨人を指差す手が、僅かに震えているような気がして、ジャンはその手を掴んだ。相変わらず細い手は少し冷たくやはり震えていて、ジャンはハルの視線を巨人から切り離すように、もう片方の腕を伸ばして、柔らかな右頬に指先でそっと触れた。

「何か、あったのか…?お前、朝から様子が変だぞ。…朝飯もあんまり食わねぇし、口数も少なかっただろ…?体調…崩してんのか?」

 ジャンはハルを気遣うように優しい声音で問いかけると、ハルは顔を上げた。その表情は酷く曇っていて、ハルの瞳に浮かび上がっていた影は、彼女の暗澹とした不安の現れだったのだと、ジャンは気がついた。

「嫌な予感がするんだ。昨日の夜から、ずっと…ーーー」

「嫌な…予感?」

 ジャンがそう、ハルに問い返した刹那のこと…


バリッ!!


 トロスト区の南、外門の方から雷鳴のような音が轟き、視界が真っ赤に瞬いて、地面が激しく左右に揺れた。マルコ達は反射的に身を屈め、ジャンも目の前のハルの頭を胸に掻き抱くようにしてその場に蹲み込んだ。


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