第十三話
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その言葉には、口にし難いほど強く、胸が苦しくなるほどに切ない響きがあった。
「例え何も話してくれなくても、顔を見られればそれでいいって…思うよ。…声を聞くことができなかったとしても、目も合わせてくれなかったとしても…、ただ生きて居てくれればそれで…いいんだって…」
ハルは徐に胸元にあるお守りを握り締めると、ジャンの方へと再び視線を向けて、願い事を言うときのように、どこまでも切実な声音と表情で言った。
「もう私には、それは叶わない願いだけど…。でも、ジャンはそうじゃないでしょ?…生きて、傍に居てくれるってことが、どんなに幸せで…尊いことなのかってこと…君には、知っていて欲しいんだ」
「っ…」
そんな瞳で、言葉で言われてしまっては、首を横に振れるはずもない。
生きて傍に居てくれるということが、当たり前なことではないということは、彼女の口から言葉にされると、揺らぎのない説得力があった。
ハルが家族と故郷を奪われたのも、なんの前触れもない突然の出来事だった。そしてジャンも、ハルが崖下に落ち、行方不明になってしまったことを、予想など出来もしなかったのだ。
この世界に生きていて、傍にあって当然なものなどないと、ハルは気付いていた。だからこそ自分と同じく後悔することがないように、ジャンには会える時に、家族の傍に居てほしいと思ったのだ。
「…分かったよ」
ジャンは一度大きく瞬きをすると、観念したようにそう頷いた。
「!」
それにハルの顔が、ほっと安心したように柔らかいものになる。
「ったく、お前にそんな話されたら、行かねぇ訳にいかねぇだろ」
「少しズルかったかな…?」
「ああ、少しどころじゃねーよ」
ガシガシと頭を掻くジャンに、ハルは屈託ない笑みを浮かべて小首を傾げる。それに「くそ…めんどくせーな」と少し照れた様子で独りごちるジャンを、ハルは黒く瑞々しい瞳を静かに細めて、言った。
「…でも、本当にそう…思ってるんだ」
その声は、水面に落ちた雫が鳴らす音のように、優しく病室に響いた。
ジャンは、その声に吸い寄せられるかのように、視線を彼女へと向けた。
「ジャンが救ってくれたおかげで、私は皆の顔をまた見られて…声を聞くことができた。それだけじゃない…また一緒に、これからも生きて行けるんだって……それって、とても幸せで…すごく尊いことなんだってーーー」
ハルはぎゅっと胸元で両手を握りしめ、どこまでも深く澄み渡り、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、心の底から溢れるような感情を、ゆっくりと吐き出すようにして言った。
「全部全部、君のおかげなんだ。…ジャン、…本当にありがとう…!」
その言葉と表情に、ジャンは気の遠くなるような恍惚感に見舞われた。
彼女の『人誑し』の術中に嵌まっているのだと分かっていても、そんなことはどうでもいいと思えた。例え全身の骨を抜かれても、惑わされているんだとしても、それでも只管に、傍に居たいと…今目の前に居る彼女に、触れたいと思ってしまう。
「……早く、帰ってこいよ」
ジャンはそう囁いて、手を伸ばし指先でそっと、ハルの柔らかな頬に触れる。
「…ずっと、待ってるんだぜ…?」
「ジャン?」
「俺だけじゃない。サシャ達やライナー達だって、またお前と一緒に過ごせる日が来るのを待ってる…、お前が帰ってくるのを、待ってんだよ。…だから、頑張れ…!」
胸に抱く感情をそのままに伝えれば、ハルの双眼が僅かに見開かれ、瞳がキラリと輝く。
「…今の、頑張れは…とても効いた」
ハルは独り言のようにそう呟くと、緩慢に瞳を閉じ、自身の胸元で握る手に、少しだけ力を込める。
「ミカサが言ってたんだ。ミカサは昔から、エレンに頑張れって応援して貰うと、とっても力が湧いてくるんだって。なんでも、出来る気がするんだって……」
それから、地平線から太陽が昇るように、目蓋を開いたハルが、ジャンの顔を真っ直ぐに見つめた。
「私にとっての君は……ミカサにとってのエレンみたいな…そんな存在…なのかな…」
その発言はハルに好意を抱いている人間には大いに勘違いを呼ぶものだということに、彼女は気付いているのだろうか。
言葉の真意を探るように、ジャンは目を細めハルの顔を覗き込むと、頬に触れていた指先でそっと輪郭を撫で、小さな頤を掴んだ。
「…お前、それすげぇ殺し文句だって分かって言ってんのか?」
ジャンの瞳は、今まで見たことがない熱を帯びた輝きを孕んでいた。
窓から差し込む陽光を受けた瞳が、捕まえた獲物を離さんとするような力強さを持って、ハルへと問いの答えを促すような視線を向ける。
その瞳に、ハルはすっかり魅入られてしまったように、陶然として言った。
「ジャン…君の瞳って…、とても綺麗だ」
それはまるで男が異性に対して向ける口説き文句のようだったが、ジャンがハルに触れたいと思う感情の枷を外すには十分過ぎるものだった。
ジャンはスツールから腰を上げ、ハルの頤に触れていない左腕をその細い腰に回すと、ハルが腰掛けているベットの端に片膝を乗せて、ぐっと身を乗り出す。
ベットがぎしりと軋む音が、やけに大きく病室に響いた。
「ジャ、ジャン…?あ、あの…」
ハルの瞳が困惑した様子で揺れ、身を寄せたジャンの胸元に手が添えられる。その行動は逆効果だと言ってやりたくもなるが、そんなことを教えてやれるほど、今の自分に余裕はない。
「もう…抑えらんねぇよっ…」
ジャンはそう喉の奥で低く囁きながら、ハルの体を引き寄せ、小さな頤を持ち上げる。
それに身体を強張らせた彼女の、小さく柔らかそうな唇に口元を寄せた時だった。
「ハルー!!リハビリ終わったんだってな!?」
「パルシェもきたよ!!いっしょにあそぼー!!……あれ?」
お決まりとはこのことを言うのか。
よりにもよってこのタイミングで、夕方に来ると言っていたパルシェとフィンが、ノックもなく引き戸を豪快に開け放って現れた。
そしてハルに身を寄せているジャンを見ると、大きく二人は丸い目を瞬いて、それからニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「お前ら…っ」
それにジャンはワナワナと体を震わせ、ゆっくりと二人を振り返ると、怒りを通り越して悲しくなり、涙目になりながら立ち上がった。
「なんでこうなんだよーっ!!?」
そんなジャンに、二人は病室から廊下へと走り出した。
「わー!!ジャンがハルにラブしてるぞー!!」
「いちだいじぃっ!!ジャンがハルにセクハラしてますせんせぇーっ!!」
「ばっ…おい待てクソガキ!!」
それにジャンは顔面蒼白になって、二人を追いかけ、病室から飛び出して行く。
「あっ、こら皆!廊下は走っちゃ駄目だよ…!…って、行ってしまった…」
ハルはそんな三人を引き止めようと手を伸ばしたが、物凄いスピードで走り去ってしまう。
それから病室に残されたハルは苦笑を浮かべたが、未だ流行る心臓に視線を落とす。
「……びっくりした」
ハルはそう自身の左胸に両手を当てて、そう小さく呟いた。
その後ハルの足のリハビリは続き、本人の努力の甲斐があって予定よりも早く病院を退院することができた。通院は二週に一度することにはなるが、ハルが南駐屯所へと戻ったのは、紅葉を過ぎ、降り積もった雪が少しずつ溶け始めた、春信を感じる頃だった。
完