第十三話

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ハルちゃん入るわよー…あら、ジャン君も来てたのね?」
 
 現れたのはハルのことを担当している、看護師のマールさんだった。この病院に勤めてもう20年以上が経つらしく、看護師さんの中でもベテランの中のベテランだ。

「はい、お邪魔してます」

 スツールから立ち上がり、マールさんに向かって頭を下げると、律儀なジャンに対してマールさんがくつりと口元に手を添えて笑う。

「別に私の家じゃないんだからいいのよ?…ハルちゃん、足の調子はどうかしら?」

 ベテランの貫禄もあるものの、明るい性格と穏やかな話し方から、若い看護師達からの信頼も厚く、ハルもマールさんからはいつも元気を貰っているのだと良く話していた。リハビリ師としても今まで多くの負傷兵を担当してきたマールさんが、ハルのリハビリも担当してくれることになり、ハルも心強かった。

「大丈夫ですよ、マールさん!リハビリ、すぐにでも始められます!」

 ハルはぐっと胸の前で両拳を握りしめて、揚々と意気込むのに、マールさんは「良かったわ!」と笑みを返して、リハビリ用に持ってきた松葉杖をハルのベットに立てかけた。

「流石ハルちゃん、逞しいわね。でも焦りは禁物ですから、ゆっくり進めていきましょう」

「…はい!」

「じゃあまずは、松葉杖を使って立ち上がることから始めましょうか。これをまず両脇に挟んで…」

「はい!それなら…!」

 ハルはマールさんに促され、松葉杖を両脇に挟み込むと、早速左足を地面について、ぐっと立ち上がろうとした時だった。

「あ!待って!」

 マールさんが制止の声を掛けた矢先、ハルが腰を上げると、がくりと地面についた左足の膝から力が抜けて、大きく体が傾く。

「っ!?」

ハルっ」

 ジャンは反射的に、息を呑んだハルの体を抱き留める。ハルが脇に抱えていた松葉杖が、ガランと音を立てて床に転がった。
 耳元で「…あ、れ」と、困惑したハルの声が聞こえて、ジャンも同じように困惑していた。

 そんな中、マールさんは倒れた松葉杖を拾いながら、ハルを安心させる様な口調で言った。

「そうなのよねぇ。皆、最初はびっくりするの。ほんの少し動いてないだけで、人の筋肉っていうのはすごく衰えてしまうのよ。だから、今まで息をするように出来ていたことも、元に戻すのには時間が掛かってしまうものなの」

「そう…なんですね。びっくりしました…まるで、自分の身体じゃ無いみたいです。マールさんのゆっくりっていう意味がよく分かりました。…ジャンも、支えてくれてありがとう」

 ハルは思っていたよりも自身の筋力の衰えを感じて、驚きと不安を覚えながらも、支えてくれたジャンにお礼を言う。
 しかし、ジャンは何も答えず固まったままで、それを不思議に思ったハルは、ジャンの肩口で彼の顔へと視線を向けた。

「…ジャン?」

「い、いや…」

 ジャンはハルを支えられたことにほっとしていたが、それも束の間のことで、彼女の体の柔らかさと細さに、放心してしまっていた。
 薄い患者衣を着ている所為か、ハルの体の柔らかさを、抱き留めた体全身で感じてしまう。訓練からも長く遠ざかっているので、筋力も落ちている所為もあるかもしれないが…女性特有の感触に、男の性で胸がどうしても早鐘を打ってしまう。

 そんなジャンを見て、マールさんはあらあらと口に手を添え、にやりと笑った。

「ジャン君ったら、役得ねぇ」

「なっ!?そ、そういうことではっ…!!」

 ジャンはそれに顔を真っ赤にしてマールさんを振り返る。それを微笑ましいというように笑いながら、マールさんは再びハルに松葉杖を手渡すと、もう一度ベットに座るように促した。
 
「ふふっ、じゃあハルちゃん、もう一度ベットに座れる?」

「はい…!」

「ゆっくりね…、松葉杖の先をしっかり地面につけてーーー」


 それから、ハルの初めてのリハビリは一時間程で終わった。日頃の訓練に比べれば短い時間なのだが、ずっとベットで寝たきりだったハルにとっては厳しい内容だった。

「…っはぁ…あははっ…立ち上がって、少し歩くだけで…息が上がるなんて…先が思いやられますね…」

 その頃には息を上げていたハルが、苦笑しながらベットの縁に腰を掛けて言うのに、マールさんは明るい口調でハルの背中をぽんと励ます様に叩いて言った。

「それでもすごいわよ!もう歩けるようになったじゃない?歩き始められるようになるだけでも、結構時間が掛かるものなのよ?本当に、流石よ!」

「そう言ってもらえると、安心します…」

 それにハルは頷くと、マールさんは「今日はここまでね」と微笑みを残して、松葉杖をベットの傍の壁に立てかけ、部屋を出て行った。

 マールさんを見送り、ベットに座っていたハルが、ふうと長く息を吐いて、ギブスに巻かれた自身の右足を見下ろすのに、ジャンは水差しからカップに水を注いで、それを手渡す。

「水、飲むだろ…?」

「あ、うん…、ありがとうジャン」

 ハルは差し出された水を受け取ると、礼を言って水を一口煽る。ジャンは自分にも水を注いだカップを手にしたまま、リハビリの邪魔にならないよう部屋の角に避けていたスツールをハルの傍へと持ってきて、静かに腰を下ろし足を組んだ。

 ハルは両手でカップを包み込み、太腿の上に乗せると、揺らぐカップの中の水を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。

「情けないところ、見せちゃったな…」

「…っ何がだよ」

 水を一口仰いだジャンが、ハルへと視線を向ける。俯いているので表情は見えないが、落ち込んでいるのは声音で理解できた。

「楽観視し過ぎていたみたいだ。…正直、もっと出来るって思っていたから……でも、この調子じゃ皆に置いて行かれてしまうね…。ちょっと今…いや、大分焦ってるかもしれない」

「珍しいな、お前が弱気になるなんてよ…」

 ジャンはそう言って、ごくりとカップの中の水を飲み干すと、ベッドサイドの棚に置く。

「…自分でもそう思うよ。…でも、私がこうやってのんびりしている間にも、みんなはどんどん辛い訓練を積み重ねて、強くなってるんだって思うと…さ」

 ぎゅっとカップを両手で握りしめ、焦燥を滲ませた声で言うのに、ジャンは組んでいた足を解いて、眉を開くようにしてハルを見つめた。

 ジャンも正直なところ、ここまで衰えてしまうものなのかと少し驚いていた。自分はこういった骨折もしたことがなかったし、話では大変だと聞くことはあっても、想像していたよりもハルの体力も筋力も衰えていた。

 しかし、それも致し方のないことで、嘆いてどうにかなるものでもないだろう。ハルが不安になる気持ちはよく分かるが、下ばかり向いていても状況は変えられない。

「まあ、気持ちは分かるけどな…こればっかりは焦ったってどうにもならねぇだろ?落ち込んでたって何も変わらねぇし、変えられねぇんだ……だったら、少しずつでも前に進めるように、頑張るしかねぇだろ」

「…その通りだね」

 ジャンの言葉に、ハルはゆっくりと頷いて、ぐっと一息にカップの中の水を飲み干すと、元気を取り戻した様子でジャンを見て笑った。

「…ちょっと弱気になってしまった。…明日もまた頑張るよ!少しでも早く、皆の居る場所に帰りたいから…」

「おう、その意気だ。…じゃあ、俺はそろそろ寮に戻る」

 そんなハルの肩を、ジャンはぽんと叩いて、スツールから立ち上がった。ハルもリハビリで疲れただろうし、長居をしてしまっては申し訳ない。課題にも取りかからなければいけないと、円卓の上のジャケットを羽織るジャンを、ハルは静かに呼び止めた。

「…ジャン、あのさ」

「今度はなんだ?悪いが今日は差し入れ持ってきてねぇから、腹減ってもなんにもねぇぞ?」

「いや私はサシャか!」

 揶揄うようにして言ったジャンに、ハルは間髪入れずツッコミを入れると、ジャンはジャケットの袖に腕を通しながら「違うのか」と言うので、ハルは肩を竦めて「…違うよ」と首を振る。

「じゃあ、何だよ?」

 ジャケットの襟を正し、肩にショルダーバックを掛けながら問い返すと、ハルは真面目な顔になって言った。

「…ジャンさ、…実家、帰った方がいいよ」

「…それ、言わないんじゃなかったのかよ」

「…でも、言うことにしたんだ」

 そう言うハルに、ジャンははあと溜息を吐いて肩を竦め、ハルの方へと歩み寄り、再びスツールに腰を落とした。

「…いいんだよ、帰らなくて。帰ってもやることなんかねぇし」

「何も、しなくていいと思うけど」

 しかし、ハルは真剣な表情のまま首を振り、聡明な瞳でジャンの瞳を見つめる。

「顔を見ることができるだけでも、嬉しいと思うよ…?お母さんもお父さんも、きっとジャンに会いたがっているだろうし」

「……なんで、そんなこと分かんだよ」

 マルコにも口煩く言われていたため、いよいよジャンも投げ槍な口調になり、ハルから視線を逸らしてしまうが、「分かるよ」と答えたハルの声音が寂し気で、ジャンは再び彼女へと視線を戻す。

 ハルは窓の外へと視線を向け、秋の青い空に真っ白な雲が流れ行く様子を眺めながら、静かに呟いた。
 
「…私がそうだからだよ」

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