第十二話

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「ん…」

「悪ぃっ、起こしちまったな…?」

「…ジャン…?」

 とろんとした眠気を含んだ声で、ハルはゆっくりと瞳を撫でるように瞬きしながら、ジャンの方を見る。
 どうやら長い間眠っていたようで、少しぼんやりとしているハルに、ジャンは静かな口調で問いかける。

「…体調はどうだ?」

「…うん。実は昨日から少しだけ熱が出てて…お昼に解熱剤飲んで眠ってしまっていたみたい…」

「熱って…結構高いのか?」

 ジャンはスツールから立ち上がると、ベッドサイドの棚上に置かれている水差しを手に取り、タオルの上に逆さにして置かれていたカップに水を注ぐ。
 
「ほんの微熱だよ。先生が言うには、…吸収熱?っていうみたいで、大きな骨折とかをすると一時的に発熱しちゃうみたい。明日には下がるだろうって言ってたから、大丈夫だよ」

「お前の大丈夫は、当てにならねぇからな…」

 ギシリとベットを軋ませ上半身をゆっくり起こしたハルに、ジャンはコップを手渡して肩を竦めると、「ありがとう」と苦笑を返される。

「それ、昨日ユミルにも同じことを言われたよ…」

 そうして水を口に運ぶハルを眺めながら、ジャンは再びスツールに腰かけた。
 三日も意識なく眠っていたのが影響なのか、元々細身ではあったのだが、肩と背中が痩せ、兵服ではなく患者衣を纏っているのが尚更に、彼女の身体をいつもより華奢に見せていた。
 いつも気丈なハルが、こうして弱っている姿を見ていると、不謹慎かもしれないが、2つ年上の彼女に対して庇護欲のようなものが胸の中に浮かんでくる。
 
「…見舞い、来るのが遅くなっちまって悪かったな…?」

「そんなっ、謝ることないよ…!ジャンには命を救ってもらっただけで、言葉だけじゃ感謝を伝え切れないくらいなのに…こうやって見舞いにまで来てくれて…、ほんとうに、嬉しいから…、」

 ハルは慌てた様子でジャンを見て首を振ったが、ふと手元のカップの中へと視線を落とし押し黙ってしまったのに、ジャンは怪訝に思い首を傾げる。

「何だよ…どうかしたのか?」

「い、いや…でも、実はちょっとだけ心配だったんだ…」

 ハルはなんだか申し訳なさそうな、しかし何処か照れ臭そうな表情でジャンをちらりと見ると、肩を竦めた後、再び視線を気まずそうに手元のカップへと落としてしまう。
 
「…君には、その…とても、情けない姿を見せてしまったし、沢山迷惑を掛けてしまったから…。中々来てくれないのは…正直、嫌われてしまったのかとーー」

「はあ?!」

「い、いや!ごめん…」

 ジャンはあまりにも明後日な方向に解釈された言葉を聞いて、思わず条件反射で声を上げてしまうと、ハルがびくりと肩を跳ね上げて、尻すぼみの謝罪を溢しながら、恐る恐るといった様子で、静かにコップをベットサイドの上に置く。
 自分がどれだけ心配していたか、矢継ぎ早にでも説明してやりたいところだったが、ジャンは冷静に努めて、呆れながらも真意は伝わるようはっきりとした口調で話す。

「あのな…別に、お前のこと情けねぇなんて微塵も思っちゃいねぇし、ましてや迷惑被ったなんて思ってもいねぇよ。…考え過ぎなんだっつーの」

「か、考え過ぎ…」

 そう小さく呟いたハルの顔は俯けられて見ることは出来なかったが、柔らかな黒髪の間から覗く小さく形の良い耳が、僅かに紅潮しているように見えたのは、夕陽のせいではないだろう。

「…ったく」

 そんなハルの様子に、なんだかこちらも擽ったいような恥しさが込み上げてきて、ジャンは首の後ろを触りながらスツールから立ち上がり、マルコから預かった座学ノートを取りに向かおうとした時だった。

「…っジャン」

「?」

 シャツの左裾がぐいと掴まれて、ジャンは足を止めた。
 振り返り視線を落とせば、少しの緊張と焦りを滲ませた黒い双眼を揺らして、じっと自分を見上げるハルと目が合う。

「待って…!そ、そのっ…」

 ハルはどうやらジャンが呆れて帰ってしまうのだと勘違いしてしまったようで、とても慌てていた。
 
「いや、別に俺は…、」

「あの時はっ…本当にありがとう…!」
 
 しかしこの思いだけは伝えなければと、ハルはジャンの顔を見上げたまま、まるで鈴の音のような澄んだ響きを持った声で言ったのに、「帰ろうとしていたいたわけじゃない」と言おうとした口を止めて、ジャンは言葉を飲み込んだ。

「…私のことを見つけて、助けてくれたことだけじゃなくて…。私の隠してきた気持ちも、ちゃんと受け止めてくれて…、本当に感謝してるんだ。…今ここに居られるのも、皆にまた会えたのも…全部、本当に全部が君のお陰だからっ…」

 心に浮かぶ思いをそのままに言葉にしてくれているような、そんな真摯な口調で話し、懸命になって自身のシャツの裾をぎゅっと掴んでいる小さな手が、堪らなく愛おしいと思えてしまって、ジャンは切なげに瞳を細めると、その手に自分の手を重ねた。

「…生きてて良かったって、そう思っただろ…?」

 ハルの顔色や表情を見ていれば、聞かなくても答えは分かり切っていたが、ジャンはどうしても彼女の言葉でその答えを聞いておきたかった。

 踵を返し、再び自分へ向き直ったジャンの視線と、重ねられた大きな手に強い思いを感じて、ハルはこくりと頷き、患者衣の胸元にあるお守りに視線を落とす。

「…目が覚めて、皆の姿を見た時…心の底から思ったよ。…生きてて、本当に良かった…って」

 その返答には嘘偽りない安堵の音色が含まれていて、ジャンも同じく、ほっとしたように息を吐き出しながら頷く。

「…俺もだ」

 ハルの少し熱のある左手を両手で掴み、傍に片膝をついて、じっと彼女の澄んだ黒い双眼を見上げる。

「お前が生きててくれて、こうやってまた話が出来て、本当に良かったって…今、そう思ってる。…お前の笑った顔を見られるのが、あの時が最後にならなくて…心底ホッとしてるよ」

 過去の凄惨な記憶を思い出し、苦しんでいたハルが、死を望む自分ではなく、生きることに縋る自分を受け入れた瞬間に見せた、あどけない少女の微笑みを、ジャンは今でも鮮明に思い出すことが出来る。しかし、それと共に思い出してしまうのは、意識を失い、血の気を失った、力無いハルの姿だった。

「…なあ、ハル

 あの時のことが脳裏に過り、ジャンは僅かに身震いしながら、固い口調でハルの名前を呼ぶ。すると、ハルはそんなジャンの心の揺れを感じ取ったかのように、瞳を気遣うようにそっと細めて、左手でジャンの手を握り返した。

 その手の温もりが、瞳が…ジャンの中にある彼女に対する憧れのような感情を、ジワジワと根本から塗り替えて行く。

 それが今、どんな感情に変わろうとしているのか…。

 ジャンは、既に直感で、理解していた。
 
「生きることを選ぶことを、例えお前自身が許せなくても…、お前の言う神様ってヤツが許してくれなかったとしても。…それでも俺はお前に、生きていて欲しいって思ってる。

 この先、どんなに苦しいことがあっても、傷つくようなことがあったとしても、必死に生きようとしがみ付くことだけを考えていて欲しい…。でも、お前にはそれが難しい事なんだってことも、分かってる。

 だからせめて…もう自分を憎むのも、責めるのも、無しにしてくれよ?…そんなことをしてる暇があったら、少しでも前に進んで行け。お前の家族も、そうして生きて行くお前の姿を見ていた方が嬉しいに決まってる。……そうだろ?ハル


「っ…」


 ジャンのどこまでも優しげな声で紡がれる言葉に、ハルは切々と迫りくる今まで感じたことのない感情に戸惑いながら、切れ長の冴え冴えとした琥珀色の瞳を見つめたまま…静かに呟いた。

「君って…本当に、不思議…だ」

 まるで御伽噺の中の魔法でも目の当たりにしたかのように、恍惚とした様子で、一語一語、確かめるように言葉を繋いで行く。

「…ジャンの声を…言葉を聞いていると、不安な気持が消えて無くなって、前向きな気持ちになれる。…君の、その目を見ていると…自分が考えていること全部見透かされてしまうようで、…怖くなる。…とてもね」

「…」

 怖いと口にして、視線を再び御守りの揺れる胸元に落としたハルに、ジャンは少し不安げに瞳を細めたが、ハルはぎゅっと御守りを左手で握り締めると、緩慢に顔を上げ、柔和な声と微笑みをジャンへと向けた。

「…でも、何でかな。…その怖さと同じくらい、君に…ジャンに、傍にいて欲しいって思ってる自分が居るんだ」

「!」

 その表情に、ジャンは心臓を鷲掴みにされたような気がして、息を呑んだ。

 今確かに、自分の中で一度大きく音を立てて鼓動した心臓が、彼女への思いを、確かな名前を持つ感情へと確立させた。

「ジャンが傍に居てくれれば…、こんな残酷な世界でも、強く前を向いていられる。…私は、本当の私と向き合って、自分を見失わずに生きて行けるんだって……そんな、気がするから…!」

 窓から差し込む夕陽を受けて、泉の水面のようにキラキラと輝く双眼の上を、細く綿毛のように柔らかそうな黒髪が、撫でるように揺れている。
 
 その光景は、彼女と初めて出会った時のことを彷彿とさせて、それと同時に、ジャンの中にあった彼女への思いが、熱く燃え上がる。

 その変化を、熱を、思いを、もう自分にはどうしたって止めることはできないのだと、本能で感じてしまう。


「……俺も、思ってたことが…ある」


 切なさに胸が突き上げられるような、そんな思いで、ジャンはハルの柔らかな頬に指先で触れる。

「お前が初めて声をかけてくれた時…すげぇ綺麗だって…、そう思ったんだ」

 どこまでも青く澄んだ晴天の空に、一羽の孤独な鷹が空を舞う中で…

『…隣、いいかな?』

 そう声を掛け、自分を真っ直ぐに見つめてきた彼女と出会ったあの瞬間に、自分は一目惚れをしていたんだと、今になってようやく気がつく。
 
「お前の目も、その黒髪も……その声も。今まで見てきたどんなものより、景色よりもずっと…綺麗だって…よ」

 普段なら、絶対にこんな言葉を口にはできない。

 しかし、今は何の抵抗もなく、むしろ抑えられずに溢れてしまう。
 彼女の頬に触れる指先から、ハルへの思いが伝わってしまいそうだった。でも、それでも良いという思いで、ゆっくりと彼女の頬を撫でる。

 すると、ハルの少し赤みがかかっていた頬が、更に熱を持つ。

「ジャ、ジャン…っ?あの、急にどうしたのっ…」

 珍しく動揺しているのか、上擦った声でジャンにそう問いかけるハルの表情はとても新鮮で、ジャンはこういう顔もするのかと思いながら、じっと彼女の顔を覗き込む。

「あー…でも、それだけじゃねぇか。…そうやって照れてる顔は、…可愛いんだよなぁ」

「!?」

 全て本音が駄々漏れているのは自覚しているが、どうしてか止められない。
 すると、ハルは息を飲み、顔を俯け固まってしまった。

「おい… ハル…?」

 そんな彼女に首を傾げ顔を覗き込むと、つぎの瞬間、耳まで真っ赤に染め上げたハルが、左手を握り、その拳でトンとジャンの胸元に押し当てて、困り果て許しを請うような目を向けて言った。

「…あんまりっ、からかわないでっ…」

「!?」

 その顔に、全身の骨が抜き取られたような気がした。

「…っお前、今自分がどんな顔してるか…分かってんのかよ…?」

 …きっと、ハルのこの顔は、他の誰も見たことがないだろう。
 
「…本気で、可愛い」


 ジャンの熱を孕んだ瞳と声に、頬を撫でる無骨な指の温もりに、ハルはドキドキと鼓動が早鐘を打ち、金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまう。

「ジャ、ジャン…?」

 その潤んだ瞳に吸い寄せられるように、ジャンは顔を寄せる。

 そして、

ハル、俺…お前のことがーー」

 自身の思いを、彼女の耳元で伝えようとした時だった。

 大きくハルの体がぐらついて、彼女の額がジャンの肩に乗りかかる。

「!」


 コンコンコン…


グランバルドさん、ご夕食ですよ……あら?」


 そしてその刹那に病室の引き戸が開いた。

 夕食を持ってきた看護師さんは、ハルがジャンの肩に額を乗せて寄りかかり、ジャンが不自然に両手を挙げて硬直している様子を見て、目を丸くした。

 それから怪訝な表情を浮かべ、じっとジャンを見つめる看護師さんの視線に耐えられなくなったジャンは、表情を引き攣らせて、恐る恐る口を開いた。

「…す、すみません…なんか熱が突然上がっちまったみたいで…」

 ジャンの肩に乗っているハルの顔は、熱で真っ赤に染まり、頬から湯気が立ちそうなほどにのぼせ上がっていたのだった。



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