第十二話
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それから二日後の夕方ーー
「時間、経っちまったな…」
ジャンはそうため息混じりに呟きながら、人気のない訓練場を横切り、宿泊舎へと向かっていた。
結局ハルが意識を取り戻した日は、訓練場の整備担当で見舞いに行けず、次の日も最終訓練が長引いてしまい、汚れた兵服を着替え南駐屯地から徒歩20分は掛かる病院へ面会可能時間内に行くことが出来ず、断念することになってしまった。
今日は午後が座学だったので、それを見越して昨晩に寮の班長に外出届を提出し、キース教官の判子を貰っておいたのだが、一緒に行くはずだったマルコは行軍訓練後から熱を出して寝込んでいるダズに代わり食堂の清掃をすることになってしまったらしく、「僕の分も、お見舞い任せたよ」と、先程ハルのために書き取った座学のノートを託された。
サムエルやユミルは昨日、ミーナ達と一緒に見舞いに行ったらしく、他に見舞いに行く同期はいないか捜してみたもの中々見つけられず、諦めて寮に向かい私服に着替えてしまうことにした。
すると、まだ同期達は食堂で夕食を取っている時間だというのに、男子寮の自身に割り当てられている共同部屋に入ると、部屋の一番奥に置かれている木造のデスクの椅子に寄りかかり、こちらへと顔を向けてきた同室のコニーと目が合って、誰も居ないと思っていたジャンは驚いた。コニーも同じくこんな時間に誰だと怪訝な顔をしていたが、ジャンの顔を見てすぐに納得した顔になる。
「なんだジャンかー。誰かと思ったぜ…、これからハルの見舞いに行くんだよな?飯食ってからじゃなくていいのかよ?」
「…まぁな。途中商店街を通るから、そこであいつに差し入れ買うついでに、テキトーに食うもん買って行こうと思ってる」
ジャンは部屋に入ってすぐ傍にある共同のクローゼットを開けると、兵服を脱いで使っていないハンガーに掛け、昨晩のうちに用意しておいた私服を自身に割り振られている引き出しから取り出す。
「だったら一緒に食ってやれば?その方があいつも喜ぶだろ。ちょうど病院に着くのも、夕食が出る時間だろうしさ」
コニーはそう言いながら、ジャンに向けていた視線をデスクの上のノートに戻し、右手でクルクルと回していた鉛筆を握り直す。
「あぁ。…で、お前はなんでこんな時間に、此処に居るんだよ?」
勉強嫌いのコニーが夕食も取らずに寮のデスクの前に居るなど、ジャンや他の同期達からしてもそうだが、考えられない事態であった。明日は雪でも降るのかという思いで、ジャンは白シャツを纏い、ベストのボタンを閉めながら、ベットの裏側のデスク前に座るコニーの方を覗き込むようにして問いかける。
「飯は速攻で食ったけど…明日は俺がハルの座学ノート取る担当だからさ…、こんなこと言いたくねぇけど、俺字が壊滅的に下手だからよ…、あいつ読めないんじゃねぇかと思って…」
そう言うコニーは熱心にノートに字を書いていて、ジャンが覗き込んでいることに気づかない。
「お前…それで字の練習してんのかよ…!?」
コニーがノートに字の練習をしているのだと気がついたジャンが、ぎょっと目を見開き驚きの声を上げたので、コニーはびくりと肩を跳ね上げ、座っている椅子の背凭れにしがみ付くようにして、真っ赤な顔で後ろを振り返る。
「べっ、別にいいだろ!っつーか勝手に見んなよ!!」
「いや…駄目だとは言ってねぇけどよ…(随分献身的だな…)」
「あ、あいつにはすげぇ世話なってるしっ…!俺が出来ることなんて少ねぇからさ。…せめて少しでも、見やすく書きてぇの」
コニーが照れ臭そうに顳顬の辺りを指で掻きながら言うのに、ジャンはなるほどなと頷いて、コニーの背中を励ますように叩いた。ハルに日頃の感謝を伝えたいという気持ちは、ジャンにもよく理解できたからだった。
「…あいつも喜ぶぜ」
「いや、絶対この話、ハルにすんなよ!?ダセェから!」
微笑ましいという表情で言ったジャンに対して、コニーは念押ししたが、「へいへい」と軽い返事をしながら姿見で身なりを確認し始めたジャンに、剣呑な表情になる。
「…そういえば、昨日はサムエル達が見舞いに行ってるんだよな?何かハルの話、聞いたりしてるか?」
「あぁ、昨日はハルの教材とか着替えとかを持って行ったって話してたっけ。…あ、あと確か今日の昼過ぎに入院期間教えて貰えるって言ってたらしいから、聞いといたほうがいいかもなー」
「了解。…だが、頸骨が折れてるとなると、時間は掛かっちまいそうだな…。リハビリも必要になるだろうしよ…」
「牽引して骨がくっつくようにはしてたけど、あれって副作用とか感染症が起こるリスクがあるらしいから、経過観察が日頃から大事なんだってさ」
その話は確かアルミンから聞いたが、牽引は骨折の整復のために用いられる治療法で、中でもハルが施されているのは直達牽引という骨に銅線を通し直接引っ張って治療するものであるらしい。それには神経損傷や感染症のリスクもあるらしく、頻繁な経過の観察が必要になるとのことだった。
ジャンはハルが入院中に無茶をしないか心配になりながらも、実家から持ってきていた合皮素材のショルダーバックに、財布と外出届、マルコから受け取った座学ノートを入れ肩に掛けた。
「…しっ、じゃあ行ってくる」
「おー、頼んだぜー」
コニーが椅子の背もたれに寄りかかり、ひらひらとジャンに片手を振る。それにジャンも片手を上げながら、寮を後にした。
ジャンは南駐屯地の事務室にいるキース教官に外出届を手渡すと、早速病院に向かう途中にある商店街に向かった。
トロスト区内の商店街には幼い頃から出入りしていたため、以前と比べて人も増え賑やかになったものだと思いながらも、商品の値段は大抵のものが値上がりしていることに気が付く。ウォール・マリアが陥落してからの情勢を考えれば、それは当たり前のことなのだろうが、陥落前と比べて二倍以上の値段に跳ね上がっている。
ジャンは自分の財布の中身と相談しながらも、市場で果物の詰め合わせを買い、自分の夕飯用にはホットサンドを買って、寄り道せず病院へと足を向けた。
ハルが入院している総合病院には、母親が体調を崩した時に何度か来たことがあったが、それはまだ自分が十歳にも満たない頃の話であり、中に入るのは数年ぶりだ。
「…すみません。ハル・グランバルドの病室は…」
「はい。… グランバルドさんは、207号室になります。そちらの階段を上がって左側ですよ」
「ありがとうございます」
病院特有の空気感に少々緊張しながらも、昔の記憶を呼び起こして受付に向かい、ハルの病室の場所を聞く。そうすると、看護服を纏った細身の女性が資料を確認して、受付の真後ろにある二階へ続く階段を手差しして案内してくれたのに、ジャンは頭を下げて階段へと歩みを進めた。
その途中で、何人かの調査兵団の兵服を纏う人ともすれ違った。此処には一般の入院患者と、壁外調査で負傷した兵士も入院しているようだった。
ジャンは病室に入ったら、まずなんと声を掛けようかと考えを巡らせているうちに、あっという間に207号室の引き戸の前にたどり着いてしまって、両手に抱えていた果物の入ったバスケットを片腕に抱え直して、もう片方の手で扉をノックする。
「… ハル、俺だ。ジャンだ」
しかし、扉の向こうから返事がないので、ジャンはもう一度ノックをして声を掛けたが、それでも返事がない。
ジャンはゆっくりと引き戸を開け病室の中を窺うと、何となく予想できた通り、ハルは真っ白なベットの中で寝息を立てていた。
眠っているハルを起こしてしまわないよう、静かに病室に足を踏み入れ、引き戸を閉める。
ハルが眠るベットの傍の窓は少しだけ開けられており、夕風を受けて薄いレースのカーテンがふわりと揺れていた。
ジャンは入り口近くに置かれている円卓に肩掛けのショルダーバックと果物の入ったバスケットを置いて、ベットサイドの背凭れのない木造のスツールに座る。と、静かな病室に、古びたスツールがギシリと軋む音が響くが、ハルが目覚めるような気配はない。
「よく眠ってるな…」
カーテンの隙間から溢れる淡いオレンジ色の夕陽が、ハルの頬を撫でる様子を、ジャンは感慨深い目で静かに見つめていた。
こうして改めて彼女のことを見ていると、そのきめ細かい白い肌も、小さな顎も、細い首も全てが兵士に似つかわしくないものだと思えてしまう。
巨人がウォール・マリアを破るようなことがなければ、きっとハルには世間一般の少女らしい人生を歩む道があった筈だ。
しかしそれは叶わず、家族や故郷まで失うことになってしまった彼女は、心身共々深く傷ついたのにも関わらず、今もまた…小さな頭に白い包帯と、痛々しく右腕を肩に吊り、右足は牽引器具で支えられ満身創痍だ。
ジャンは徐にハルの目蓋に掛かっている前髪を優しく耳元へと梳かし、頬の赤みを確認するように目を細めた。
と、その際にハルの耳先に手が触れてしまい、薄い目蓋の下で、瞳がふるりと震えた。
「やべっ…」
思わずそう声を漏らしてしまうと、ハルは小さく呻き声を溢しながら、眉を上げゆっくりと目蓋を押し上げたのだった。
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