第十一話
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『… ハル、こらいつまで寝ているんだ…?そろそろ目を覚まさないと…。皆、お前のことを待っているぞ…?』
…底知れない深い暗闇の中で、私を呼ぶ声がする。
それは…とても懐かしくて、泣きじゃくる子供を慰めるような、優しい響きと温もりを持っていた。
私はとても遠くへ行ってしまった、その声の持ち主に会いたくて堪らなくなって、重たい目蓋を懸命に押し上げた。
「…父、さ……ん…」
しかし、其処に焦がれた父の姿はなく…、ぼやけた視界の中でじっとこちらを見つめて居たのは、闇夜よりも深い、漆黒の黒目を称えた一羽のカラスだった。
カラスは私の様子を、首を右へ左へと忙しく傾げて窺っていたが、息を吸い込んで肋に痛みを感じ、思わず呻き声を上げると、驚いたように一声上げてその場からバサバサと飛び去って行った。
辺りには、滝のように崖の壁面から雨水が流れ落ちてくる音が地鳴りのように鳴り響いていて、ハルは俯けに倒れている体を起こそうと、両手を雨水でドロドロに泥濘んだ地面に付いたが、再び全身に激痛が走り、思わず喉を痙攣らせて咳き込んでしまう。
結局起き上がることは出来ず、右頬を雨水が溜まった地面に押し当てるばかりだったが、それでもなんとか周りの様子を確認しようと、痛みに耐えながらゴロリと仰向けに転がった。
そうすると、朝から雨嵐で鼠色の分厚い雲に覆われていた空には、くっきりと丸い月が浮かんでいるのが見えた。
辺りの様子が、松明などの明かりがなくても薄暗く認識できるのは、あの青白い光を放つ月明かりがあるお陰なのだろう。
傍には高々と切り立った崖があり、此処は先ほどまで降り続いていた雨水の溜まり場になっているのか、崖から流れ落ちてくる雨水で、地面は2センチ程の量の水溜りを作り浅い沼のようになっている。
此処からでは崖の終わりが全く見えないので、自分はチェックポイントがあった場所からかなり下へ落ちてしまっているようだった。
それなのに何故命があるのかと不思議に思えてしまうが、ふとして傍に佇んでいる木の枝へと視線を向けると、自分が背負っていた背嚢が引っかかっているのが見えた。恐らく落下の途中であの木の枝に引っかかり、そこからこの雨水が張り泥濘んだ地面へ落ちたため、衝撃が幾分か吸収されたのだろう。
それは不幸中の幸いであったが、この体の状況で、木を登り枝に掛かった背嚢を回収することは、出来そうにない。
地面に転がっていると、雨水が崖から落ちてくる衝撃が頭と傷に響いて、耳に雨水が入り込んでくる。ハルはその不快感にとにかく体勢を起こそうと、体が引き裂かれるような痛みに声を上げながら、必死に上半身を起こし、傍の木の幹に背中を寄り掛けて、自身の負傷の状態を確認する。
まず最初に、腕の状況から診ていく。
左腕はなんとか動かせるが、変わって右腕は動かそうとすると、手首から肘にかけて激痛が走る。指も関節もおかしな方向に曲がってはいないので、骨折はしていない様子だが、腱を痛めたり骨にひびが入っている可能性があるだろう。
そして次に、腹部と胸部。
ゆっくり深呼吸をすると、やはり肋がズキズキと刺さるように痛む。これは確実に肋骨が何本か折れている。幸い胸の方に痛みはないが、右肩に違和感を感じ左手で触れてみると、どうやら脱臼しているようだった。
「っ…は……!!」
ハルは短く息を吸い込んで、ぎゅっと目を瞑り、左腕で整復術を行って肩を一気に押し込む。…と、関節が嵌る音と生々しい衝撃が右の鼓膜に響いた。
「(…次は頭だ)」
右の顳顬辺りから、先ほどから出血が続いている。が、意識は少しずつ回復して来ているようだった。首に痛みもないので、幸い頭部を強く打ってはいないようだったが…今後症状が出て来る可能はあるだろう。
そうして最後は、一番重症であろう足だ。
右の足首から膝にかけてが、体を動かそうとしていなくても異常に痛み、力を入れることもままならない。
「…これはっ…ちょっと…不味いかも……しれない…ね……」
ハルは木の幹に頭の後ろを押し当て、そう呟く。
神経が焼けつくような痛みが、消えない。どうやら骨折をして、神経に骨が触れているような感覚がある。着ている兵服の下の足を見てしまうのに、恐怖感しかない。
しかし足の状態を見たところで、何か応急処置を施せるものが辺りにあるわけでは無い。添木になりそうなものはあるが、縛るものが見当たらない。そもそも、この痛みを抱えて、落ちてしまったこの崖を登って行くのは、いくらハルでも不可能だった。
そして何よりも、この場所から立ち上がろうという意欲が、全く湧いて来ないのだ。
ハルは疲労と出血でぼんやりとした頭で、夜空に浮かんでいる月を見上げる。時より薄い雲に覆われて、青白い光が酷く弱々しいものになると、このまま自分もいつから、再び流れてくる分厚い雲に覆い隠されるようにして、闇夜に飲まれ消えてしまうのではないかと…そんな気持ちになってしまう。
目覚めた時、飛び立ったはずのカラスの気配をまだ近くに感じるのは、弱っていく私が息絶えるのを、じっと何処かの木々の間から待ち望んでいるからなのかもしれない。
そう思うと、急に胸の奥が氷ついたように冷たくなった。
喉が強張り、体が足の爪先から震え始める。
「…は、は」
ハルはその感覚に、おかしくもないのに笑いが込み上げてきて、小刻みに息を吐き出す。
私はその感覚の正体が何なのかを、良く理解出来てしまったからだ。
これは紛れもない、『恐怖』なんだと…。
「…っそんな、わけない…っ…」
しかしハルはその感情を体が認識すると、頭で反射的に否定した。
自分が今感じている恐怖は、死ぬことに対して生まれてくる感情なはず。だとすれば、それは自分の中で大きな矛盾を作ることになる。
「…なんで…こんなっ…」
ハルは震える自分の体を見下し、現実を受け入れられず酷く動揺して、下唇を噛んだ。
何故なら、ハルにとって『死』は、恐怖するものではなく救いであり、自ら切望するものである筈だったからだ。
目の前で家族を失った、『あの日』からずっと、ハルの望みはただ一つだけだった。
バラバラになった家族を同じ墓に入れることでも、故郷に帰ることでもない。それは全て建前であり、本当は自分自身が、家族の元へ逝くことが…ハルがずっと抱え隠して来た願いだった。
目の前に居た両親を、弟達を守れなかった自分。
この世界で、巨人の存在よりもずっと、憎くて堪らない自分。
どうしてあの時、一緒に死ねなかったのかと、嘆く自分。
そんな自分に生きる意味も、価値も、資格も、あの時からありはしないというのに…
あんなに、毎日毎日を、ただ生きていくことが…苦痛で堪らなかったのに…
「…どうして今更になって、死ぬのが怖いなんて、思うんだ…っ」
ハルは胸元に揺れる、泥ですっかりと汚れてしまっているお守りを、動かせる左手で蜘蛛の糸でも掴むようにぎゅっと握りしめた。
自分が生きることを望む理由が、ここに詰まっている…そんな気がしたからだ。
…しかし、それは到底受け入れ難く、罪深いことなのだということも…分かっている。
それでも、体が生きたいと震え、心が死にたくないのだと踠くのを、止める術をハルは知らなかった。
「…アニ、ライナ…っ、ベルトルト…ッ」
故郷を失い開拓地に生産者として送り込まれ、生きる気力も、希望も、すべて全て失っていた自分の世界に、色を取り戻してくれた三人に、このお守りを作って渡したのは、彼らが切望する故郷に帰るという願いを、叶えてあげたいと思ったからだった。だから自分は調査兵団を目指し、彼らの願いを叶えたその先で、すべてを『終わらせる』つもりだった。
…しかしここで死んでしまっては、ライナー達の恩に報いることができない。
「…いや、違う……かな」
それもきっと、建前に過ぎないのだ。
今の私はただライナー達に…、同期の皆に…会えなくなってしまうことが、怖いんだ。
死んで、皆の声が聞けなくなるのが、顔が見れなくなるのが、寂しくて、仕方がないんだ。
自分には、生きる価値も資格もない。
家族を守れなかった罪は、一生背負って行っても、消えることはない。
でも、そうだとしても…、
私はまだ皆の傍に、居たいんだ…
唯それだけが、私がこの世界で生きようしがみ付く理由なのだ。
「……ごめんっ…みんな…、ごめんよっ……」
ハルは未だ生にしがみ付こうとする家族への罪悪感に懺悔しながらも、傍に転がっていた木の枝へと手を伸ばした。杖にするには頼りないそれだったが、ないよりはマシだと左手でそれを掴み、地面にばしゃりと突き立てる。そして、体を襲う激痛に悲鳴を上げながらも、懸命にその場に立ち上がった。
ーー例え地獄に落ちたとしても、構わないから……
それでも、全てを失って生きることに絶望した自分を支えてくれた、大切な仲間達が願いを叶えられるその時まで、今度こそ絶対に、皆を自分の手で守り抜きたいんだ。
だから私は、
まだ…死ねないんだ。
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