第十一話
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怒涛のように始まった長距離行軍訓練であったが、気づけば空にはすっかりと丸い月が浮かんでおり、木々生茂る山道を照らすのはその淡い月明かりだけになっていた。
運良くと言っても、不幸中の幸いに過ぎないが、夜が更けていくに連れ天候も徐々に回復の兆しを見せており、朝から激しく吹き荒れていた風も今は大分穏やかになって、雨もすっかりと上がっている。山の天気は変わり易いと良く言うが、あまりにも天と地がひっくり返ったような変わり様に、自分たちは今まで夢でも見ていたのかと、そんな気分にさえさせられてしまう。
「はぁ…予定していた時間よりも大分遅れちゃったけど、なんとか怪我もなくチェックポイントまで来られたね」
マルコは息を乱しながらも第一チェックポイントに到着すると、はぁと大きく息を吐きながら両膝に手をついて項垂れる。そんなマルコの先を歩き、一足早く到着していたジャンは、肩に背負っていたライフルを足元に下ろすと、凝り固まった肩を大仰にぐるぐると回した。
「…あーっ、やっと一息吐けるぜ…」
「途中の崖で滑車があったのが救いだったよなぁ…?あれがなかったら俺たち、まだここまで来れてねぇよ…」
マルコの次に到着したのはコニーで、最後の段差を乗り越えると、地面に倒れ込むようにして両手を付き、そのまま泥濘に沈んでいくような深く長い溜め息を吐き出す。
そんなコニーの存在に気付かなかったのか、青白い顔で第10班の最後尾として登ってきたサシャが、地面に四つん這いになっていたコニーの体に思い切り蹴つまずくと、受け身も取らずコニーに覆い被さるようにして倒れ込んだ。その衝撃でサシャが背負っていたライフルが抜かるんだ地面を滑るように転がって行き、マルコの足元に当たって虚しく止まった。
「うおっ!?サシャっ!お前何すんだよっ!」
コニーはぎょっとして突然上に乗り掛かってきたサシャを足蹴にして下から這い出すが、サシャは意識が朦朧としている様子で、ごろりと泥濘んだ地面に仰向けに転がる。
「おっ、お腹…お腹が減ってもう動けません……」
挙げ句の果てには白目を剥いて、腹の虫を鳴らしならがら動かなくなったサシャに、ジャンは責めるというよりは呆れ果て、腰に手を当てながら溜め息を吐く。
「おいサシャ…。そもそも、お前が腹減ったって騒ぎ出して、途中見かけた鹿なんて追いかけ回すからこんな時間になっちまったんじゃねぇか…!」
「そうだぜ?このメンバーならもっと早くに着けただろ…!絶対なっ!」
コニーも立ち上がり手袋についた泥を払いながら、サシャを見下ろして言うが、サシャはごにょごにょと口を動かしてはいるものの何を言っているかは意味不明であり、最早使いものにならなくなってしまっている。
そんなサシャの足元に転がったライフルを拾い上げて、マルコは苦笑を浮かべながらも、なんとか地面から立ち上がらせようと、ある単語を強調して声を掛けた。
「まぁ、ジャンもコニーも、無事に此処まで辿り着けたんだし、良しとしようよ。…ほらサシャ、点呼取ったらやっと『夕食』、食べられるよ?」
『夕食』という単語に、サシャは白目にいつもの丸々とした瞳をギュンと取り戻すと、その場に勢い良く立ち上がり、班長のジャンに向かって正気を取り戻した表情を向け、急き立てるように身を乗り出して言った。
「てっ、点呼!!点呼を早く取りましょう!!」
「…単純な奴だな」
そんなサシャに対してジャンは片眉をぴくりと震わせ、顔を引き攣らせる中、マルコは点呼を取ってくれるはずの副教官の姿が近くに見当たらないことに気が付いて、辺りを見回しながら首を傾げる。
「あれ…?でも、副教官の姿が見当たらないね…?何処に行っちゃったんだろう?」
「あーそうだな?でも、チェックポイントから離れることはしねぇだろうし…、あっちのキャンプ場所まで行って捜してみようぜ!」
コニーがそう言って、松明が焚かれて明るくなっている、同期たちが各々テントを張り巡らせている場所の方を指差す。
ジャン達は副教官を捜して同期達が集まりテントを張っている平坦な広場へとやってきたが、其処で見つけた副教官の周りには同期達が取り囲むようにして集まっていて、何やら騒然として居た。
「教官!行かせてください!」
「駄目だと何度も言っているだろう!?こんな夜更けに山道を歩き回るなど、二次被害を招き兼ねん!捜索は明日の朝からだ!兎に角お前達はテントに戻りなさい!」
「…一体どうしたんだろう?なんだか凄く騒がしいけど」
マルコは同期達の唯ならぬ雰囲気を感じて、不安気に首を傾げる。ジャン達も何やら嫌な予感がして、何があったのか聞こうと副教官の元へ足早に向かったが、その途中…自身の右足を見下ろし、両手を握りしめ立ち尽くしているトーマスの姿が目に留まり、ジャンは訝しげに足を止めて声を掛けた。
「おいトーマス…?大丈夫か…?」
すると、トーマスは弾かれたように顔を上げジャンを見た矢先、顔を酷く苦し気に歪めて、ジャンの両腕にしがみ付いてきた。
「っああ…!ジャン!大変なことになってしまったんだっ…!」
「大変なことって…?一体何があったんだよ?」
随分と取り乱すトーマスに、ジャンは驚きながらも彼の両肩を掴んで問い返す。
そうすると、トーマスはぐっと唇を噛みしめた後、ジャンの腕にしがみ付く手に、ぐっと力を込める。
「…が、ハルがっ…!」
焦りの所為かまるで空気を求める魚のように口をハクハクとさせ、その合間にハルの名前を口にしたトーマスに、ジャンは目を細める。
「… ハル?あいつが一体どうし…っ」
そうして最後まで問いかける前に、ジャンはこちらを見つめるトーマスの瞳と表情に、全身の血の気が引いて行くような恐怖を感じて、言葉を途中で詰まらせる。
「…ハルが崖から落ちてっ、もう一時間以上帰ってこないんだっ…!!」
「!?」
トーマスの言葉がやけに大きく頭に響いて、まるで体を銃で撃ち抜かれたような衝撃に見舞われる。
「…な、に…?」
心臓が早鐘を打ち鳴らし、ジャンは呼吸の仕方を忘れてしまったかのように喉を引き攣らせてしまい、強引に吸い込んだ息が隙間風のように、ヒュッと喉元でか細い音を立てた。
第十一話 罪と罰
「ーー崖から…落ちたって…?一体どういうことですか!!?」
「そ、そうだよ!あいつに限って、そんなヘマするわけねぇだろ!?」
サシャとコニーが血の気の失せた顔で狼狽えながら、トーマスに詰め寄る。マルコも驚愕して言葉が出てこない様子で、…ジャンはトーマスの肩を掴んだまま、現実を受け入れられずに居る。
「それが…、フロックが足を滑らせて崖から落ちそうになったところ助けて……それで…っ」
「…フロックを、助けるために…?」
マルコがそう背後で呟き、コニーとサシャが息を飲んだ音を聞いて、ジャンの脳裏にはある光景が浮かんで来た。
『…怖いよ…』
それは、自身の本音を問い質され、昨晩ジャンの前で酷く弱々しい声で嘆いていた、ハルの姿だった。
「…っ」
ジャンはトーマスの背の向こうで、崖の傍にある岩場に座りこみ項垂れているフロックの姿を捉えると、ギリッと音が鳴るほど強く奥歯を噛み締めて、トーマスから離れた。地面を蹴り大股で歩き出したジャンを、焦って呼び止めるコニーの声がしたが、その声に耳を傾ける心の余裕は、全くと言って良いほど今の彼には残っていなかった。
「…おい、フロック」
ジャンはフロックの傍で足を止め、雨具も纏わず濡れ滴った兵服姿で、茫然と谷底を見下ろしたまま微動だにしないフロックに声を掛けた。
「…」
しかし、フロックは反応を見せず、じっと虚な目で谷底を見つめるばかりだった。
「ハルは…何処から落ちた」
ジャンは唸り地を這うような声で、そう問いかける。
「…」
それでもフロックは何も答えず、こちらを見もしなかった。
ジャンはそれに痺れを切らして大きく舌を打つと、フロックの胸倉を荒々しく掴んで、岩場から強引に立ち上がらせる。
「…っおいフロック聞いてんのか!?」
「ジャンっ!落ち着けよっ!」
そんなジャンの肩を、後から追いかけてきたマルコが止めようと掴んだが、ジャンはマルコの手を振り払い、必死の形相で声を荒らげる。
「落ち着いて居られるわけねぇだろっ!?…っいくらアイツでも、こんな高ぇ場所から落ちりゃあっ…死んじまうかもしれねぇんだぞ!?それでどうしてっ…落ち着いてなんか居られるってんだよ!?」
「っ…」
ジャンが谷底を激しく指差す先を見て、マルコとコニー、そしてサシャは言葉を詰めて青ざめる。
夜だということもあるかもしれないが、此処からでは谷の底は深い暗闇に覆われていて全く見ることは出来ない。それでも決して、ここから落ちて無傷では居られない程深い谷になっているということは、冷たく谷底から吹き上がってくる風で、容易に理解できた。
それに言葉を返せずに立ち尽くすマルコから視線を逸らし、ジャンは再びフロックに掴み掛かると、怒りと焦燥で見開かれた瞳で睨みつけ、感情を剥き出しにした荒々しい口調で捲し立てる。
「おいフロックっ…!なんでこんなことになっちまったのかは知らねぇが、…ハルを助けてぇ気持ちがあるなら惚けてないでさっさと話しやがれってんだよ!!」
すると、フロックは虚な目をゆっくりとジャンへ向け、酷く掠れた声で話を始めた。
「俺の…っ、俺のせいだ…っ…」
自分を責めるように、目尻に涙を浮かべ、フロックは震える指先で、傍の谷底を指差す。
「… ハルは…あそこから落ちたんだ。俺とトーマスのテントが、突風で飛ばされちまって、パニックを起こした俺のことを心配して追いかけて来てくれたってのに…俺が足を滑らせてそこから落ちそうになったところを、ハルが腕を掴んで…引き上げてくれたんだ。…っでもその瞬間に、ハルが掴んでた低木の枝が折れて…それでっ」
フロックが視線を移した低木の枝が、確かに強風の所為ではなく根本からへし折れ無くなっている。
「っ…!」
それを見て表情を歪めたジャンに、フロックはその場に崩れるように座り込むと、地面に額を押し付けるようにして頭を下げた。
「すまないジャンっ…!すまない…っハル…!あいつは俺の腕を掴んでくれたのにっ…俺は、掴んでやることができなかったんだ…!」
フロックの自責の念に駆られ嘆くその姿に、ジャンはそれ以上彼を責めることが出来ず、やり場のない思いを押し留めようと噛みしめた唇にじわりと血が滲む。
フロックがハルを突き飛ばしたわけではないと分かっているのに、それでも責めずに居られなかったのは、そうでもしないと自分が正気を保っていられなかったからだ。
…最悪だ。こんなことしても、ハルを助けられる訳じゃねぇってのにっ…!
「くそっ…!」
ジャンはそう自分に舌打ちして、谷底へと伸びる細い山道に向かって歩き出した。
それを、コニーが慌てて呼び止める。
「待てよジャン!!どうするつもりなんだよ!?」
「どうって…決まってるだろ!?ハルを捜しに行くんだよっ!!」
ジャンは振り返りながら、焦燥を隠せず声を上げる。それに、コニーも負けじと声を張り上げて、ジャンの腕を掴んだ。
「だったら一人で行こうとするなよ!」
「!?」
「そうですよっ!私も一緒に行きます!ハルのこと心配してるのは、ジャンだけじゃないんですからね!?」
ジャンに詰め寄り、ムッとした様子でそう言い放ったサシャの肩口で、キャンプ場の方から松明を両手に持ったミーナとサムエル、そしてダズの3人がこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
彼らは確か、ハルの班員だったはずだ。
「私も協力するっ!明かりがないと、ハルを見つけられないでしょ?」
「俺たちも協力するからっ、一緒に行かせてくれ!天気は良くはなってきたけど、夜で視界も悪いからね!」
「捜す人数は、多いに越したことねぇだろ?」
ミーナとサムエル、そしてダズの言葉に、マルコは心強いと深く頷いて、ジャンの肩に手を乗せる。
「皆で、ハルを捜しに行こう…!きっと僕たちのこと、待ってるよ!」
「…お前らっ…」
ジャンは一人切りでこの山の中を捜そうとして居た自身の無謀さを恥じながら、マルコに固く頷きを返す。そうすると、地面に座り込んでいたフロックも慌てて立ち上がり、ジャンに向かって身を乗り出すようにして言った。
「俺も…俺も行くよ!」
「フロック…」
「あいつに…ちゃんと謝りたいんだ!」
ジャンはフロックの心の底からの言葉を聞いて、先程の自分の行為を深く反省しながら頭を下げた。
「フロック…、お前を責めちまって…悪かった」
「いや、いいんだ。俺がハルのように心が強ければ、こんなことにはならなかったんだから」
「…心が、強ければ…か」
「…ジャン?」
ハルの心が本当に強ければ、きっとハルは崖上を目指して、今も自力でチェックポイントを目指し進んでいるかもしれない。
しかし…ジャンにはハルの心が折れてしまっていないか、心配でならなかった。
昨晩、ハルの弱々しい姿を一度目の当たりにしていたジャンが、不安げにそう呟いたのに、フロックは怪訝な顔をして首を傾げた。それに対してジャンは首を振り、邪念は捨て今はハルを見つけ出すことだけに集中しようと、マルコ達に声を掛けた。
「いや、なんでもねぇ。…よしお前らっ、絶対にハルを見つけ出すぞ!!」
「「「了解!!」」」
ジャンの一斉に、マルコ達は力強く返事をして、他の同期達に詰め寄られ立ち往生している副教官の目に留まる前に、谷底へと続く道を進み始めたのだった。
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