第九話
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「あー…こうか?…いや違ぇな、…こっちか?」
「?…ジャン、多分そこは下からじゃなくて上からロープを通すんじゃないかな?」
ジャンが訓練場の傍にある、一本の幹の太い立派な木の上で、丈夫そうな枝にふた結びを作ろうとして苦戦して居るのを、その木の幹に背中を預けて片足を伸ばし、足を挫いた時のテーピングを手引書を見ながら練習して居たハルが、顔を持ち上げて助言を入れる。
「あー、なるほどなっ……!よし、出来たぜ!」
ジャンはハルに言われた通り輪を作ったロープを木の枝に縛り終えると、グイグイと二度ロープの締まり具合を強く引っ張って確認する。それからロープをしっかりと両手で掴むと、ハルの居る地面へするすると身軽に滑り降りた。
「…っと、よし。解けなかったな」
ジャンの体重が掛かってもロープは解けることなく丈夫に木の枝に縛りついて居るので、どうやらふた結びは上手く行ったようだ。
それに満足した様子で、ハルの傍に身軽に着地をしたジャンだったが、一方のハルはうーんと困った様子で唸りながら、包帯で自分の右足首をテーピングして居る。
が、巻かれた包帯は緩く巻きもぐちゃぐちゃなのを見て、ジャンはやれやれとため息を吐きながら、ハルの傍に胡座をかくようにして腰を落とした。
「…おら貸せ。…お前、ロープは扱えても包帯は全然駄目だな」
ジャンはハルの手から包帯を奪い取り、細い右足首に巻きついている包帯を一度解いてしまいながらそう言うと、ハルは情けないというように肩を竦めた。
「ごめん…。なんだか力加減がよく分からないのと…上手くバランス良く巻くことが出来なくて…」
「捻挫ってのは、大体ここの靭帯が伸びちまうんだ。…だから、まずはスタート位置と、何処を保護すんのか決めてから巻き始めんだよ」
ジャンはハルの右足首の踝のすぐ下辺りを指差すと、足首の付け根をスタート位置にして包帯をゆっくり巻き始めた。
「同じところに何度も巻くんじゃなくて、少しずつズラしながら巻いてくんだ。…その時は足首もちゃんと伸びちまわねぇように、90度に維持しながら巻かねぇと、意味ねーからな?」
そう的確に分かりやすく、ハルが見逃してしまわないようゆっくりと説明しながらテーピングを施して行く。
それをハルは真剣に見聞きしながら、なるほどと喉を唸らせた。
「…本当だ。ちゃんと固定されていくのが分かるよ。そっか…少しずつズラすのがポイントなんだね。私、同じとこに何度も巻きつけてしまってて…」
「それじゃあバランスが悪くなっちまうだろ?…あと、こうやって巻いてやると、短い包帯でもちゃんと固定できるからな。余ったやつはまた別の場面で使うこともできるだろーしよ」
「っうん!確かに…今回みたいな行軍訓練では包帯は貴重だしね…!」
ジャンが包帯の端を綺麗に処理すると、ハルはその右足でゆっくりとその場に立ち上がる。
自分でやった時とは違って、しっかりと足首が固定されて居て、靭帯が保護されて居る感覚がしっかりとある。
「どうだ?」
ジャンはそんなハルを見上げながら問いかけると、巻き方一つでこうも変わるものかと感動していたハルは、うんうんと頷きながら嬉しそうに微笑む。
「すごいよ!ちゃんと固定されてる…っ、やっぱりジャンに教えてもらって良かった!」
「そりゃあ良かった。…一回自分でやってみろよ」
「うん!」
ジャンがハルにそう促すと、ハルは頷いて早速自分でもやってみるよと再びジャンの傍に座って包帯を解き、ジャンに言われた通りにテーピングを始めた。
真剣な眼差しで、ゆっくりと教えてもらった通り包帯を巻き始めたハルの横顔を、ジャンはじっと見つめていた。
季節は春から夏に入り、段々と日の入り時間も遅い時間になってきているためか、七時前頃でもまだ夕日の明かるさが空に残っている。
今日の訓練は明日の行軍訓練を見越して早めに切り上げられ、それによって夕食の時間も早めであったため、尚更太陽が長く空にあるように感ぜられた。
しかし、夜が近づけば吹いている風も少しだけ肌寒さを感じさせるようになり、地面に咲いていた黄色いタンポポもいつの間にやらすっかり姿を変えていて、風が吹くたびその綿毛を空に舞い上げる。
同期達は皆明日の訓練に向け、寮に戻り休んでいるのだろう。ちらほらこの時間だと外に出て各々時間を過ごしている訓練兵もいつもなら見られるのだが、今日は訓練場に誰の気配もなく、風が側の木々の葉を揺らす音と、ハルが包帯を撒く布が擦れる音だけが、ジャンの鼓膜を優しく震わせる。
ジャンには、今この時間がとても心地良く感ぜられていた。
訓練兵になってからというもの、いつも男子寮は騒がしく、訓練時では辛く厳しい時間ばかりで、こうやってのんびりと静かな場所で過ごせる時間は殆どなかったというのが理由の一つかもしれないが、…恐らく、今この場に一緒に居るのが、ハルだからというのもあるのだと思う。
ハルの周りにはいつも人が集まる。
彼女には人を惹きつける独特の雰囲気があるからで、それはジャンも感じていた。
彼女の傍にいると、不思議と体から力が抜けてしまうような感覚がある。
普段自分が無意識に纏ってしまっている見栄やプライド、そんなものが最も簡単に引き剥がされてしまうような…そんな感覚だ。
しかし、例え自分たちがそうだったとしても、ハルはそうじゃないのかもしれない。
ジャンは、コニーと射撃訓練をしていた時のハルの表情が忘れられず、徐に口を開いた。
「…なあ、ハル」
「?」
名前を呼ばれ、ハルが自身の足首から視線を逸らして、ジャンの方を見る。
「…寂しく、ねぇ?」
「…え?」
ジャンにそう問いかけられて、ハルはキョトンとして小首を傾げる。
「どうして突然、そんなことを聞くの?」
「いや…ライナー達から聞いたんだ。お前の、過去の話をさ…」
「!」
ざっと音を立てて吹いた風に、ハルの出会った頃よりも少し伸びた黒い前髪が揺れ、その下の黒い双眼が、雨が落ちた水溜りのように波打つ。
「…お前は知られるのが不本意だったかもしれねぇけど…。でもよ、聞いちまったことを知らねぇ振りしてんのも、何か気持ち悪ぃだろ……?」
ジャンはハルが明らかに動揺したことに、やはり聞くべきではなかったかもしれないと後悔しながらもそう告げると、ハルは動揺した瞳を隠すようにして、目蓋の下に一度仕舞い込む。そして、微かに震えた息を吐き出すようにして小さく言葉を溢した。
「そっか…、そうなんだね」
ハルは足首に巻きつけていた包帯をそのままにして、余ったそれを草の生い茂った地面にそっと置くと、緩慢に顔を上げ、閉ざしていた目蓋を僅かに開いた。
そうして現れた、夕日の光を帯びる黒い双眼には、名状し難い悲しみの色が浮かんでいて、ジャンはその瞳に吸い寄せられるかのように視線を奪われてしまう。
彼女の憂いを帯びた瞳を見つめていると、喉の奥がじんわりと熱くなって、吸った息が肺の中で震え胸が締め付けられる。
「寂しくないって、言ったら…嘘になるかな」
風の音にさえ掻き消されてしまいそうなほど、酷く弱々しい声音で、ハルはそう溢した。
それから一度ゆっくりと瞬きをして、眩しそうに沈んでいく夕日を見つめながら、膝を抱え傍の木の幹に寄りかかる。
「…もうあれから時間も経つけれど、家族の皆に会いたいって思う気持ちは、中々消えてくれなくて…。時間が解決してくれるって思っていたけど…駄目なんだ…、全然…」
ハルは困ったような、情けないというかのような、そんな自嘲染みた笑みを浮かべて肩を竦めた後、「でも…」と片手を夕陽に翳し、再び目蓋を閉じる。
「…本当に寂しくなるのは、きっと皆のことを思い出せなくなってしまった時だと思うから。…時々こうやって目を閉じて、思い浮かべるようにしてるんだ。皆の顔や…声を。…そうすれば、ほんの少しだけど…寂しくなくなるような気がするんだ」
そうして静かに目蓋を開いたハルだったが、前向きな言葉とは裏腹に、瞳には寂しさが増しているようだった。
何よりも、夕陽に翳している彼女の手が僅かに震えているのが、寂しさを拭い切れていないハルの心情をありのままに体現している。
それでも、ジャンはハルの嘘に、気づかない振りをすることにした。
今、彼女の心の傷に触れてしまえば、脆くあっという間に崩れ落ちてしまいそうな、そんな危うさを感じてならなかったからだ。
「…そうか」
ジャンはそう短く言葉を返し、ハルが背中を預けている木の幹に自分も同じように隣で背中を預け、沈んでいく夕陽を見上げる。
明日は嵐だとサシャは言っていたが、高々と佇む壁の向こうに沈んでいく夕陽は、目に痛いほどはっきりと見えて、ジャンは目を眇めた。
そんなジャンをハルは横目で見つめると、静かに夕陽に翳していた手を、再び草の上に静かに下ろした。
「ジャンの家族は、トロスト区に?…君には、兄弟はいる?」
そう問いかけられ、ジャンは片膝を立てると、その上に右腕を置きながら首を振った。
「俺に兄弟はいねぇよ。…トロスト区には、親父と母ちゃんが居るが…二人とも何をするにも口煩くてかなわねぇ…っ、正直なとこ、家に居るのが窮屈だったんで、此処に来たってのもあるんだ」
自分でも内心驚いてしまうくらいの本音が、ハルにはすんなりと引き出されてしまう。それでも、口にして後悔がないのは、ハルが自分の言葉を聞いて、ちゃんと真摯に受け止めてくれると分かっているからだ。
「そっか。…その気持ち、なんとなく分かる気がする。弟達も、よくジャンと同じようなこと言っていたんだ。『俺はもうガキじゃねぇんだから、ほっといてくれよ』って、…ね?」
「ああ、その通りだ。お前の弟たちとは気が合いそうだな…」
「うん。きっとそうだと思う。ジャンと仲良くしてるの、良く想像できるもの」
ハルが優しく微笑んでそう言うのに、ジャンも自然と浮かんできた笑みを返す。
そうすると、ハルはふと何かに気づいたように、ジャンの前髪に手を伸ばし、それを指先で掴んで掌に載せた。
ジャンが覗き込んだ彼女の白い掌に乗っていたのは、タンポポの綿毛だった。
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