第七話
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「な、なあ…ちょっといいか?」
食堂から寮へと戻る道中で、聞き覚えのある声に呼び止められて、ハルは後ろを振り返った。
そこにはエレンとアルミンの姿があり、アルミンは少し緊張した様子で微笑んでいて、エレンは眉をハの字にして佇んでいる。エレンは立体起動適正検査の際には負っていなかったはずの怪我をしていて、額に包帯を巻いていた。
ハルはきっと姿勢制御の自主練習をして怪我をしたのだろうと察しながらも、どうしたのかと聞かれることはエレンも不本意だろうと思い聞き返すことはしなかった。
「引き止めて悪い。…こんなこと聞かれて迷惑だろうけど、恥を忍んで頼む。…っ教えてくれないか、空中で上手く姿勢制御をする方法!」
エレンは切羽詰まった様子で、ハルに深々と頭を下げた。ハルも力になりたい気持ちはあるが、口でどう説明するべきか悩みながら、喉を唸らせ腕を組んだ。
「上手く姿勢制御する方法かぁ…。なかなか、言葉で説明するのは難しいなぁ…」
「ああ、皆そう言うんだ。まあ…真面目に答えてくれない奴がほとんどだったけど。…やっぱり、感覚的なものなのか?見たところみんな簡単そうにこなしていたが、俺にはなんであれができるのかさっぱりで…。っ俺に、才能がねえってことなのかな…」
「エレン…」
肩を落として項垂れたエレンに、傍に居たアルミンが気遣うように視線を向ける。
「俺は、兵士になれねぇってことなのか…」
エレンは口惜しげに小さく呟いて、体の横で手が白くなるほど拳を固く握りしめた。それに、アルミンもエレンと同じように口惜しげな表情を浮かべると、ふと視線をハルへ向けて、前のめりになって問い掛ける。
「…ねえハル!バランスを取る時に気をつけることとか、何かないかな?ほんの些細なことでもいいから、教えて欲しんだっ」
友人の為に懸命になっているアルミンに、ハルは「そうだね…」と息を吐き出すように呟いて、静かにエレンの方へと視線を向けた。
「…ベルトで吊るされている状態の時、重心を何処にかければ一番安定するのかを見つける事が大事だと思うんだけど…多分、エレンの場合は…」
「?」
ベルトの故障の可能性があると話そうとして、エレンが首を傾げたのに、ハルはふとして口を継ぐんだ。
今ベルトの故障の話をしても、明日また再検査を受けなければいけないエレンにとっては集中力を欠く情報にしかならないだろう。故障もハルは少し遠くから、それも一度エレンのベルトの金具から僅かな金属音を聞いただけであったし、100%故障だと言い切ることはできない。
恐らくだが、訓練当日にキース教官にベルトの故障の話を持ち出したところでどうにかなるとも思えない。そうなると、エレン自身で明日の試験をクリアすること以外、壁を乗り越える道はないだろう。
「いいや、なんでもないよ。…私が見ていた時は、エレンは全部前のめりに回転してしまっていたから、自分が思っている以上に重心を後ろに落として、足の先に力を入れてみるのはどうだろう?…横に回ることがないなら、もう前と後ろにだけに神経を集中させた方がいいと思う」
ハルはエレンが検査を受けていた時の状況を、アルミンと同じように懸命に思い出しながらアドバイスをすると、エレンはそのアドバイスを熱心に聞いた後、感激しながらパッと表情を輝かせた。
「なるほどな…っ、ありがとう!こんなに親身に教えてくれたのはお前が初めてだよハル!…そうか、確かに俺がひっくり返ってたのは毎回前方だったよなぁ…。これで脱落しなくて済みそうな気がしてきたよ」
まだ訓練兵団に入団してからそう日も経ってはいないが、すでに多くの脱落者が104期の同期から出てしまっている。訓練の厳しさに耐えられなかったというのが、現時点では理由の殆どを占めているかもしれないが、この先の訓練ではもっと厳しく、そして命にも関わる危険な訓練も増えていくだろう。そうすればきっと脱落者も比例するように増えていくはずだ。
そんな中で、ハルはエレンが本当に心の底から兵士になることを望んでいるのだと、会話の中でひしひしと感じていた。
同期の訓練兵の中で、本当に自分の意思で兵士になることを志して滞在している者はきっと多くはない。巨人にウォール・マリアを奪われてから、巨人憎しの風潮に流され、世間体を気してここに来ただけの者のほうが、皆口にはしないが多いだろう。
「エレンは…本当に、兵士になりたいんだね?」
そのことを踏まえてもそうだが、『あの日』に自分と同じくシガンシナで巨人の脅威を目の当たりにしたエレンが、兵士になろうと懸命になっている姿に、ハルはエレンの心情を探るようにして問いかけると、エレンは「ああ」と迷いなく頷いて、瞳に強い意思を宿らせた。
「兵士になることもそうだけど……。俺には、調査兵団に入って、…やらなきゃいけないことがあるんだ」
「調査兵団に?」
「…俺は調査兵団に入って、巨人を駆逐する。…俺から故郷を奪った、母さんを食った…あいつらを…一匹残らずだっ」
強い怒りと憎しみを滲ませ、そう噛み締めるようにして言ったエレンに、ハルは胸の奥に沈めたものが蠢くのを感じて、それを押しとどめるように奥歯を噛み締めた。
ハルは二人に動揺を悟られないように振る舞おうとしていたが、人の感情の変化に敏感なのか、アルミンはハルの纏う雰囲気が微かに揺らいだのを感じ取って、「あ…」と表情を沈ませる。
「… ハルも、僕たちと同じシガンシナ区出身だよね?…こんなこと、僕が聞くのもおかしいかもしれないけど…。どうして訓練兵になろうと思ったの?普通なら、もう巨人なんて見たくないって…思うはずなのに」
アルミンにそう問いかけられて、ハルは噛み締めていた奥歯を浮かせて、ふっと短く息を吐き出すと、南の空へと視線を向けた。空はもう日が落ち始めていて、濃いオレンジ色に染まっている。
「……私は、家に帰りたいんだ…」
ハルは戻れなくなってしまった故郷に思いを馳せるようにして、独り言のように呟いた。
「家には…、父さんと母さんが居て…、市街地には弟たちも居る。…私は離れ離れの皆を、同じ墓に入れてあげたいんだよ。…きっと皆、寂しがっているからね。それに…」
ハルは苦しげに眉を寄せ、目蓋を閉じた後、小さく言葉を繋いでいく。…その声音には、悲しみではなく、怒りの感情が滲んでいた。
「…迎えに行かなきゃ…いけないんだ。私は…私が弱かったせいで皆を、…置いてきてしまったから…」
「… ハル…、お前も家族を…亡くしてるんだな?」
エレンはそんなハルのことをじっと見つめて、古傷が傷んだ時のように、表情を曇らせる。
それに、ハルはふと口元を微かに緩ませて、先程の自分を無かったことにするように、明るい口調で話始めた。
「…っなんか、湿っぽくなっちゃったね。私、もう宿所に戻るよ…!今日は少し冷えるし、明日に備えて二人ももう戻った方がいい」
ハル自身、己の過去の話をすることはなるべく避けて来ていた。過去のことを思い出すのは、時間が経った今でも辛く、悲しいもので…きっとこの感情は、この先癒えることはないかもしれない。
…それでも、ほんの少しだけ話すことができたのは、エレンたちも同じくシガンシナで、大切なものを失ったもの同士だったからかもしれない。
「あ、ああ。そうだな。引き止めて悪かったよ!アドバイスしてくれて、ありがとうな!」
「…ハル、僕からもお礼を言うよ。ありがとう!!」
ハルのこれ以上は踏み込んでは欲しくなさそうな空気を察して、エレンとアルミンはそう言うと、手を振って後ろを振り返り男子寮へと歩いていく。
そんなエレンの背中を見送りながら、ハルは息を大きく吸って、エレンのことを呼び止める。
「…っエレン」
不意に呼び止められ、エレンと側に居たアルミンが少し驚いた様子で振り返ったのに、ハルは心臓のある左胸に手を当てて言った。
「エレン、君ならきっとできる。だから、自分を信じて」
「!…っああ!そうだよな!!」
面と向かってしっかりと会話をしたのは今回が初めてだったが、昔からの友人のように親身になって相談に乗ってくれ、出来ると信じてくれたハルに、エレンは素直に嬉しくなって、答えるように親指を立て笑って見せたのだった。
“
「ねぇエレン。ハルってとても優しいんだね。…ミカサが僕ら以外に興味を持って、ハルのこと気に掛けてた理由が、なんとなく分かった気がするよ」
アルミンはエレンと共に男子寮へと向かいながら、嬉しそうにして言うと、エレンもその隣で同じく微笑みを浮かべなが頷く。
「そうだな。俺の問題にも親身になって相談に乗ってくれたし…いい奴だったな!……だけど、」
「?」
エレンは歩く足をふと止めて、オレンジ色の空を見上げながら、ほんの少しだけ憤りを込めるように目を細めて囁いた。
「あいつは、巨人が憎いって…言ってなかったな」
夜風の少しだけ肌寒い風が頬を撫でて、アルミンは小さく息を吐きだすと、そんなエレンの横顔を見つめながら、家族の話をしていたハルの顔を思い浮かべる。
「…そうだね。巨人が憎いっていうよりは……なんだか自分自身のことを、責めてるみたいだった…」
アルミンの言葉に、エレンは自分も過去を思い出しながら、ハルに対して抱いた疑問を押し殺そうと目蓋を閉じる。
そうすれば、…閉じた目蓋の裏に、すぐに浮かんでくる。
巨人が母さんを瓦礫の下から見つけ出して食殺したあの光景も、俺を抱え、ミカサの手を引いて巨人から救い出してくれたハンネスさんの、自分の弱さを嘆いていた姿も。
巨人に挑まず、母さんの元を離れたハンネスさんのことをあの時は恨んでいたが、ハンネスさんが居なければ自分も、そしてミカサもあの巨人に殺されていた。血も繋がっていないのに、ハンネスさんはあの地獄の中で、自分たちの身を案じて駆けつけて来てくれたのだ。今となっては感謝の言葉だけでは足りない。
しかし、そんなハンネスさんと、同じ言葉を口にしたハルは、自分と同じく家族と故郷を奪われたのに、何故巨人に対して憎悪を抱かないのか…。
それは、エレンには到底理解出来そうにないことだった。
しかし、先程この夕日に染まった空を見上げて、失ってしまった家族へ思いを馳せていたハルのことを、責める気にもなれなかった。
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