第六話
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「それじゃあアッカーマンさん。私は少し事務室の方へ行ってくるから、その間グランバルドさんのこと、お願いね?」
「はい」
ミカサは駐屯地の医務室で、窓際のベットで眠るハルの傍にあるパイプ椅子に座っていたが、兵団医のシャミアさんが駐屯地の事務室の方へ用が出来てしまったらしく少しの間医務室から離れることになったため、ミカサは一度椅子から立ち上がりシャミアさんへ敬礼する。
対人訓練の後、ミカサの蹴りを腹部に受けたハルは泡を吹いて倒れそのまま意識を失ってしまった。
ミカサや側にいたジャン達は、すぐにハルを背負って医務室へと運び込んだが、その後はシャミアさんに任せ、騒ぎを聞きつけたキース教官にすぐに訓練に戻るよう言われてしまい傍に居ることはできなかった。
その後訓練が終わって、再びハルの様子を見に来たが、この通り未だ目覚めていない。一緒にハルを心配して見舞いに来ていたエレンやアルミン、ジャンやライナーやベルトルト、そしてコニーとマルコ達は、男子寮の掃除の任務が割り当てられていたために、少し前に医務室を出てしまった。
ミカサも今は食堂で夕飯を摂る時間だったが、なんだか食欲が湧いてこないのと、なによりも目覚めないハルのことが心配で、事務室へ行くシャミアさんの代わりにハルの傍にしばらく付いていることにしたのだった。
シャミアさんが医務室を後にして、カツカツとパンプスが板張りの廊下を歩いていく音が遠のくのを聞きながら、ミカサはゆっくりと振り返り、ベットで眠るハルを見下ろした。
シャミアさんが言うには腹部への蹴りが原因でハルが気を失ったわけではなく、後ろに倒れた際に後頭部を打って軽い脳震盪を起こしているだけらしいが、手合わせに熱くなって必要以上にハルを傷つけてしまったことを、ミカサは深く反省していた。
「ハル…ごめんなさい」
ミカサはそう静かに、真っ白なベットの中で眠るハルへと謝罪を落とした。
自分は今まで、エレンやアルミンを傷つける相手を懲らしめるために戦うことはあっても、手合わせという形で力を振るったことはなかった。だからこそ加減ができなかったというのもあるかもしれないが、今までハルのように自分が本気を出しても勝てないような、同じ土俵に立って張り合える人に出会ったことがなかった。それが嬉しくて新鮮で、ミカサはハルとの手合わせに夢中になってしまったのも、こうなってしまった原因の一つでもあるのだろう。
ミカサは手合わせをしていた時、胸に抱いていた心地よい高揚を思い出し、それと同時に生まれた後悔で前者の感情を押さえ込むように、胸元をギュッと握りしめる。
「…ぅ…」
「!」
すると、不意にハルが寝苦しそうに眉間にシワを寄せて、重く覆いかぶさっている目蓋の下で瞳を震わせた。
それを見たミカサが慌てて医務室の窓を開けると、春の夜風が医務室へと流れ込んできて、白いレースのカーテンがフワリと舞い踊り始める。
ミカサは夜風に吹かれて少し乱れた黒髪を耳にかけながら、ハルの方へと振り返った。
自分と同じ黒髪の、細く柔らかな前髪を揺らして眠っているハルを見ていると、どうにも母の姿を思い出してしまって、懐かしい思いに駆られながら、ミカサはパイプ椅子へと腰を落とした。静かな医務室に、ギシリと椅子が軋む音がやけに大きく鳴り響く。
「ハル…早く目を覚まして」
自分がここまで、エレンやアルミン以外の人間を気にかけることがあるとは、思ってもいなかった。
ミカサはそんなことを思いながら、ハルのベット横に少々ずり落ちてしまっている掛け布団を掴んで、彼女の肩の辺りまでそっと引き上げた時だった。
「…うっ…ぁ…ぁ…っ」
ハルの唇から、小さな呻き声がはっきりとした苦悶の声になって溢れ始めた。
「ハル…?」
みるみると額や首元に冷や汗の小さな玉が浮かび上がるのに、ミカサは傍にあった氷水と手拭いを絞って、ハルの汗を拭う。
もしかして、急に体調が悪化してしまったのだろうか。今はシャミアさんが居ないのに…。と、ミカサは内心で焦りながらも、止めどなく吹き上がる汗を拭いながら、苦しげに呻くハルへ懸命に声を掛ける。
「ハル…っ、しっかり…しっかりして!」
しかし、ハルが目覚める気配はなく、やがて言葉にならない呻き声は形を持ち始める。
「…っご、めん……ごめん…な…さ…っ」
「!」
夜風に揺れて舞うカーテンが静かに靡く医務室に、ハルの酷く悲しげな声が、ぽたりと降り始めた雨のように落ちていく。
「…っ……みん、な…を…守って、あげられなかった…っ…」
––––ああ、知っている。
ミカサは、ハルが苦しむ姿を見て、いつかの自分と、そしてエレンのことを思い出した。
ミカサとエレンは、突然全てを奪われた。
ミカサは父と母を目の前で殺され、エレンは目の前で、巨人に母親を喰われた。
その時の自分と、エレンの姿に、夢の中で苦しむ目の前のハルが、ぴたりと重なった気がした。
ミカサは、掛け布団から出ているハルの白い左手が震えているのに気がついて、その手を包み込むように両手で握りしめた。ハルの手は、まるで血の気を失っているかのように冷たくなってしまっている。
「…うっ…、やめ…て……嫌だっ…嫌、…だ、ぁ…っ」
「ハルっ!しっかりしてっ、目を覚まして!」
ぎゅっと固く目蓋を閉じているハルの額から汗が流れ落ち、こめかみや顎を伝って枕を濡らしていく。何かに取り憑かれてそれを必死に振り払うかのように、酷く怯えて首を左右に振り始めたハルを助けたくて、ミカサは座っていたパイプ椅子から立ち上がりハルにより一層大きく声を掛けた。
すると突然、外からビュウと音を立てて強い風が医務室へと吹き込んできた。
その風にレースのカーテンが大きく舞い上がって、医務室のシャミアさんのデスクに置いてあった、医療器具が入っているトレイが派手な音を立てて地面に落ちた。
そして、その甲高い音に驚いたように、ハルは声を上げてベットから飛び起きる。
「ぁぁああああああああ!!?」
「ッハル!落ち着いてっ、大丈夫だから!」
崖から突然突き落とされたかのような叫び声を上げ、頭を両手で抱え上半身を跳ね起こしたハルの背中を、ミカサが労わるように撫でて落ち着かせる。
肩を上下させ荒く呼吸を繰り返すハルは、少しして自分が夢から覚めたことに気づき正気を取り戻し始めたのか、傍で心配げな顔をして寄り添ってくれているミカサへと、ゆっくり視線を向けた。
ミカサに向けられたその黒い瞳は頼りなく揺れていて、今にでも脆く崩れてしまいそうだった。
「ミ、カサっ……」
ミカサの名前を呼んだハルの声は、消えかけの蝋燭の炎のように弱々しく震え、消え入る声の最後は悲しみで溢れていて、それがミカサの胸にも染み込んでいくようだった。
「そう。私…。だから、もう大丈夫」
ミカサはそんなハルの瞳を見つめ返しながら、怯えた子犬を落ち着かさせるような口調で語りかける。
すると、ハルの右目から、一筋の涙が溢れた。
「っ…」
その涙は雨上がりに葉に腰を落とした滴が、大地へと滑り落ちていくかのように、ミカサがハルの手を握っていた手の甲に、音もなく静かに落ちて弾けた。
触れている彼女の手はこんなに冷たいのに、自分の手に落ちてきた涙は、とても温かかった。
「…落ちついて…」
ミカサはハルの手を握っていない方の手で、涙で濡れた頬を人差し指の背中で優しく拭う。
それに、ハルははっと震えた息を短く吐き出して、弱った顔をミカサから隠すように、ミカサに握られていない手で顔の半面を覆い、顔を俯ける。
「っ…ごめん、ミカサ…、…ごめん…」
ハルはごめんと口にした後、他に何か言おうとした口を閉じて、結局再びごめんと酷く掠れた声で溢した。
弱さを隠そうと顔を覆った手の指先も、浅く呼吸を繰り返す喉とその肩も震えたままだが、懸命にその震えを押さえ込もうとして、ハルがギリッと奥歯を噛み締めた音が聞こえた。
今、ミカサの目の前にいるハルは、先程手合わせをしていた快活な彼女とはまるで別人のようだった。
それでも、今見ているハル・グランバルドの姿が、ミカサには彼女の本質であるようにも思えた。
彼女はきっと、今自分に見せている弱さを必死で隠すために、普段は仮面をつけて生活している。
そしてその弱さがどこから生まれたものなのかは分からないが、その弱さからは大切なものを失った時の人の悲しみの匂いがすることに、ミカサは気づいていた。
懸命にその匂いを消そうとしているハルの姿に、ミカサはひどく胸が締め付けられて、目を細めた。
「謝らなくていい…。それに、謝るのは、私の方…。さっきは、思い切り蹴ってしまって…ごめん。あなたは… ハルは、私を気遣って攻撃しなかったのに…、私は止められなかった」
ミカサはハルへ頭を下げ、深く反省をして言うと、顔を覆ったままのハルが小さく首を横に振った。
「…それこそ、謝らなくていいよ。だってさっきは本気の、真剣勝負だったんだ。ミカサはちゃんと宣言したルールに則って、最後まで本気を出してくれてのに、…私は最後の最後まで本気を出せなかっただけだから」
本当はそんな余裕なんてないはずなのに、気遣って声をかけてくれるハルに、ミカサはなんだか自分が情けなく思えて表情を曇らせる。
そんなミカサに気がついて、ハルは指の隙間からミカサへと視線を向けた。
「ミカサは…思っていたよりも繊細なんだね」
「そんなことは…」
ないと顔を上げて否定をしようとした時、ポンと頭の上に軽い重さが乗った。それは先程まで自分の顔を覆い隠していたハルの手だった。
「…心配してくれてありがとう、ミカサ」
「っ…」
ハルが自分の頭を撫でてくれる手は相変わらず冷たく、顔色も悪いが、こちらを見つめている瞳から彼女の優しさが伝わってきて、ミカサは握っていたハルの手にぎゅっと力を込めた。
ミカサはハルが先程何故魘されていたのか、その理由を聞こうと息を吸った。
無理に聞き出すつもりはなかったが、それを知ることが出来れば少しでもハルの力になれると思ったからだ。
彼女のことを見ていると、なぜだか寄り添いたいと思ってしまう。そしてそれはまるで、エレンに対して自分が向けている感情と…とても良く似ている。
「…っハル…、聞きたいことが…」
ミカサが口を開いた時だった。
「ちょっ、押すなよクリスタ!!別に逃げたりしねえって!!」
「そんなこと言って!ユミル隙を見て絶対逃げ出そうとしてるでしょう!?」
「そうですよ!絶対そんなことさせませんからね!この私の目が黒いうちは!!」
「あんた達…一応見舞いに行くんだから少しは静かにしな」
医務室の外の廊下から、なにやら賑やかな話し声が聞こえてきて、ミカサは言葉を飲み込みハルの手を離した。そうして医務室の扉へと視線を向ければ、話し声と足音が入り口の前で止まり、その扉が開いた。
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