第五話
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「ミカサッ、どうかお手柔らかにっ…!うわあ!?」
と言うハルの願いも虚しく、容赦のない鋭いミカサの右ストレートが頬を掠め、ハルは悲鳴を上げる。
「ハル、集中して。私は手加減しない」
そう言って綺麗に両拳を胸の前に構えて、身をかがめ更なるパンチを繰り出そうとしているミカサに身の危険を感じたハルは、もう仕方がないと腹を括る。
いつの間にやら、周りには同期達がひしめく様に集まり、すっかり二人の戦いを観戦するムードを作り上げてしまっているようだった。それだけではなく、どちらが勝つかと賭け事まで始められてしまっている。
周りから聞こえてくる声を聞いていると、ライナーを派手に吹っ飛ばしたミカサに圧倒的票が入っているのは明らかであったし、現にミカサが繰り出してくる一撃は早くて鋭い。ライナーが吹き飛ばされたのも納得できるパワーの攻撃に、ハルは精神を集中させ、ミカサの攻撃を躱し時々往なしながら反撃の隙を窺う。
「やっぱ押されてんなぁ…」
ミカサから一方的に攻撃を受ける形になっているハルに、周りは半ば勝利も決しているような雰囲気になっている中、コニーがそう呟くと、いいやと傍に居たアルミンが首を振った。
「…ただ押されてるだけじゃないよ。時々ミカサの攻撃を受け止めて、上手く力を外に流してる」
「アルミンの言う通りだ。…あれを繰り返して、ミカサに反撃する隙を作ろうとしてるんだ」
アルミンの言葉にエレンもじっと、目力のある瞳で熱心に二人の戦いを見つめながら言うと、ちょうどミカサの回し蹴りを上手く両手で受け止めたハルが、片足で体を支えることになり僅かに体勢を崩したところを狙って、左足でミカサの右脇腹を目掛けて横蹴りを繰り出す。
「!?」
ミカサは渾身の蹴りがいなされるとは予想しておらず驚くが、持ち前の反射神経でハルから後方に飛び退くようにして離れ、その蹴りを紙一重で回避する。
「今度はっ、こっちの番だね…!」
先程まで及び腰だったハルも、ミカサの攻撃を受けているうちにすっかり気分が乗ってきた様子で、トントンと右足のブーツの先を地面に軽く打ち付けて、先程のミカサと同様に胸の前で拳を握る。
大きく息を吸って、肩から力を抜きながら吐き出したハルが纏う空気感が、一気にピンと張り詰めたのを感じたミカサは、自身の握っていた拳を更に硬く握りしめた。
誰かと対峙した際に、ここまで緊張感を得たのは、初めてのことのように思えた。
ハルはそんなミカサの感情を感じ取ってか、口元ににっと笑みを浮かべると、まるで鳥が眼前を飛んでいくような速さで、ミカサの視界の中からふと姿を消した。
ミカサがはっと驚いて息を呑んだ刹那に、背後から矢でも飛んでくるような早く鋭い気配を感じ取って、振り返り様に体を逸らせば、鼻先を拳が掠めていった。そうして間近でハルと視線が交わり、黒い双眼に自分の驚いた顔が映り込んでいるのが見えて、何故だか急に、ミカサは懐かしい気持ちに見舞われる。
その理由は、こうして客観的になって、純粋な黒い瞳と髪を見るのが、自分の母親と死別して以来初めてだからなのだと、ミカサはすぐに理解できた。そしてそれと同時に、ハルには自分と同じ東洋人の血が流れているのだということも直感する。
「ミカサっ、すごいね…今のを避けるなんてっ!」
ハルは背後からの奇襲を避けられたことになぜか感動しているようだったが、そんなことを言いながら次の攻撃を繰り出してくるので油断ならない。
ミカサは先程とは状況が打って変わって、防戦一方になってしまい、それを歯痒く思いながらもどこかで歓喜していた。今まではエレンやアルミンと喧嘩をしていた年の近い子供や、時には柄の悪い大人も相手に拳を振るうことは何度となくあったけれど、こうやってただ純粋に手合わせをして楽しいと感じたことは今までに一度だってなかった。
「…話してる余裕があるなら、まだ本気じゃない」
ミカサはハルが繰り出してくる軌道が読みにくい見事な足蹴りを何度も避けながら、挑発するようにして答えると、ハルは楽しげにニッと白い歯を見せて笑った。
すると、不意にミカサの耳に馴染んだ声が、同期達の群集の一角から聞こえてきて息を呑んだ。
「ミカサ頑張れ!!お前なら楽勝だろ!?」
「!?」
ふとその声のした方へと視線を向ければ、其処にはエレンが立っていた。
エレンはミカサへ熱い視線を送りながら、ぐっと拳を興奮した様子で握っている。その様子を見たミカサの纏う雰囲気が、急に鋭く燃えるような闘気を滲み出し初めたのに、ハルはハッと息を呑んだ。
「…ッ」
ミカサの瞳には、燃え上がるような炎が揺れていて、ハルはその視線に一瞬だが気圧されてしまった。
そしてその隙を目掛けて、ミカサの空気を切り裂くようなストレートパンチが飛んでくる。
「ハル!!」
「!」
その時、自分の名前を呼んだ声が、やけにハッキリと鼓膜を震わせた。
ハルはその声に背中を引かれるようにして後方へと倒れるようにミカサの拳を避けると、そのまま片手を地面についてミカサから距離を取るように翻り、ザッと乾いた地面へ、砂埃を上げながら左足と右の片膝をついた。
「…少し、意外だった」
ハルがぽつりと独り言のように溢すと、すぐ背中で、先程自分の名前を呼んだ声と同じ声が返ってくる。
「…何がだよ」
ハルは後ろを首だけで振り返り、視線を持ち上げる。
其処に立っていたのは、心配げな顔を浮かべてこちらを見下ろしているジャンが居た。
「だって、君もてっきりミカサを応援しているんだと思っていたから」
ハルからそう見上げながら言われたジャンは、明らかに不本意そうな表情を浮かべ、はあと短くため息を吐きながら両腕を組んだ。
「…っんでそーなんだよ」
「あれ、違うの?」
「違ぇよっ!!」
首を傾げたハルにジャンは堪らずといった様子で声を上げると、黒い瞳が少し驚いたようにころっと丸くなる。
「…っていうことは、ジャンは…私を応援してくれているの?」
ハルはライナーが午前中に話していた、ジャンがミカサの黒髪を褒めていたと言う話から、てっきりミカサを応援しているのだと思い込んでいたし、そもそもこの群集の殆どはミカサに賭けをしていて、自分に賭けている人物は居たとしてもライナーとベルトルト以外に居ないだろうとも思っていた。
そのことに対して自分は特に気にも留めていないと思っていたのだが、こうして自分に期待を寄せてくれている人が居るのかもしれないと思うと、どうにも期待というものが生まれてしまって、ハルはじっとジャンを見上げてしまう。
そんなハルの捨て犬が飼い主を求めて縋るような視線を受けて、ジャンはなんだか居た堪れなくなりながらも、はあと軽く溜息を吐きながら胸の前で組んでいた腕を解き、上着の内ポケットから一本のペンを取り出すと、ハルと視線を合わせるようにしてその場にしゃがみ込み、「ほらよ」と差し出しながら言った。
「俺はただ、お前が怪我しねぇか心配なだけだ。…だから、どっちにも賭けちゃいねぇし、別に応援もしてねぇよ」
「!」
その返答は期待を寄せていたものではなったが、そもそもこの賭け事を望んでいなかったハルにとって、期待していた言葉以上に嬉しいものだった。
差し出された自分のなんの変哲もないただのペンが、やけに輝かしいトロフィーのように見えるのは、太陽の光を反射させている所為だけではないだろう。
「おい、なんだよ急に黙り込んで…っ」
不意に視線を落として、まるで壊れ物に触れるかにように差し出したペンを静かに握ったハルを、ジャンは怪訝に思って顔を覗き込んだ。…そして、面を食らうことになる。
「…っそれ、なんて顔してんだよ」
ジャンはハルの顔を覗き込んだまま、思わずそんな言葉を溢してしまう。
何せハルは体の奥底から滔々と湧き立つ嬉しさを目元から溢れさせていて、顔を俯け日の光を受けていないのにも関わらず瞳をキラキラと輝かせている。
何の混じり気もない思わずこちらまで口元が緩んでしまうような表情に、ジャンは自分の中に先程まであったハルに対する庇護欲のようなものが形を急速に変えていくのを感じた。
「っごめん。なんだか…君の言葉がとても嬉しくて…」
言葉するには少し曖昧で静かなものが、確かな熱をもって鼓動し始める。
「ありがとうジャン。君に心配かけたくないから、…頑張って終わらせるよ」
手渡したペンを受け取ったハルが、少し照れ臭そうに微笑んで見せる。そして、その場に立ち上がりながらペンを上着のポケットにしまい、再びミカサの方へと向き直ると、辺りの風の音に耳を済ませるようにして、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「っおい、ハル!?お前何やって…!」
ジャンはそんなハルの笑顔に見惚れ少しの間惚けてしまっていたが、はっと驚いてその場に立ち上がる。しかし、不意に後ろから肩を掴まれる。振り返れば、其処には何故か勝ち誇ったような顔をしているライナーが居た。
「大丈夫だジャン」
「大丈夫ってなぁ…相手のこと見もしねぇことのどこが大丈夫だってんだよ?」
困惑しながら問いかけるジャンに、ライナーの傍に居たベルトルトが、ハルの背中を見つめながら答える。
「ハルはとても耳が良くて気配に敏感なんだ。特に一人を相手にするような時は、目よりも耳と気配に意識を集中させた方が、相手の動きを素早く正確に読み取れるんだよ」
ベルトルトはさらりと人間離れしたことを口にするので、ジャンは全く腑に落ちていなかったが、ベルトルトもライナーも嘘を吐いている様子はない。困惑した気持ちのままハルの背中を見つめるジャンと同様に、対峙しているミカサも表情を曇らせていた。
「ハル…、何をしてるの」
「……」
声をかけるが、相変わらず空を仰ぐようにして目を閉じて動かないハルに、ミカサは戦いを放棄したのかと少々の憤りと、残念な気持ちを覚えた。
「(もう少し…ハルと手合わせを楽しみたかった)」
そんなことを思いながら、ミカサは強く地面を蹴って、ハルに向かって渾身の一撃を繰り出そうとした…その時––––
「…!?」
ミカサの拳がハルの鳩尾を捉える瞬間、目を閉じたままのハルがミカサの手首をがしりと掴み、力の向かう先をハルの体の横へと逸らされる。
「っ!?」
「貰った!」
それに体勢が大きく崩れて足がもつれたところを、巧妙に足払いで掬われ、体がぐるっと反転し背中が地面に打ち付けられる。その衝撃に一瞬目を閉じてしまい、慌てて目を開けた時には既に、ハルの拳が振り下ろそうとされていた。
ミカサは反射的に右足でハルを蹴り離そうとしたが、間に合わない。…筈、だったのだが––––
落ちてきた拳の勢いが、急にピタリと止まった。
そんなハルはしまったと言うかのような焦った顔をしていて、ミカサも同様にそんなハルの顔を見て、しまったと思ったが、蹴り上げた足は止められず…。
思い切りハルの腹部に自分の右足が食い込む感触がした。
「ぐぇっ!?」
どさっ……
「ミ…ミカサの勝ちだあ!」
地面にハルが背中から倒れた音がやけに大きく聞こえたのに、同期達のわっと興奮した歓声が上がったのは酷く遠くに聞こえて、ミカサは右足の裏から体が急速にヒヤリと冷めていくのを感じながら、慌ててその場から立ち上がりハルの元へと駆け寄ったのだった。
完