第三話
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訓練兵団に入団してから迎えた、三日目の朝。
今日は午前に初めての講義が行われ、午後からは対人訓練が行われることになっているが、訓練兵たちは日毎に二班に分けられ、訓練を午前と午後で交互に行う体制になっている。
なので、自分と別班の訓練兵たちは午前中に対人訓練を受け、午後から講義を受けることになっているのだが––––
「(よりにもよってアイツと同じ班になっちまうなんてついてねぇ…)」
と、ジャンは講義室の一番教卓から遠い後ろの席の窓際に座り、両腕を頭の後ろに組んで大きく舌打ちをした。
寄り掛かった椅子の背もたれがギシリと軋む。
第三話 春の風と君の声
ジャンの不機嫌そうに細められた視線の先には、教卓の前の席に座り会話を弾ませている三人組が居る。金髪で小柄なアルミンと、黒髪のミカサ、そして【アイツ】、エレン・イエーガーだ。三人は幼なじみで仲が良くいつも一緒にいるようだが、通過儀礼を受けた昨晩に、食堂でその中の一人であるエレンと軽く衝突したのだ。
このご時世に、あの死に急ぎ野郎は巨人を駆逐するだとか、調査兵団に入るだとか抜かしてやがったが、人間が巨人に敵わないということは『あの日』に人類と領地の三分の一を失ったことで、既に証明されている。
それにも関わらず、同期たちの前で勇敢ぶったエレンのことを見ていられずに口が出てしまったが、別にそのことを後悔しているわけではないし反省もしていない。なぜなら本心では怯えながらも勇敢を気取っている奴より、嘘偽りのない動機を持って憲兵を目指している自分の方がよっぽど爽やかで健全だからだ。
そんなことを思いながら、相変わらず綺麗な黒髪を揺らすミカサと仲良さげに会話をしているエレンにモヤモヤした気持ちを抱えているジャンの顔は自ずと曇って行く。元々悪人面だと周りからは言われるが、それが相まって尚更隣の空いている席には誰も寄りつこうとしない。
(まあ、その方が気楽でいいよな…)
ジャンはふんと投げやりに鼻を鳴らして、開け放たれた側の窓の外へと顔を向けたが、曇りきった自身の胸中とは裏腹に空は青く澄み渡り真っ白な雲が穏やかに流れている。
その中を、一羽の鳶が大きな翼を広げて旋回しているのが見えた。
優雅に大空を舞う鳶の姿を見て、やっぱり一人の方が気楽でいいだろ?と、自分で自分に問いかけるように心の中で呟いた時だった。
「ごめん、隣…いいかな?」
窓の外から教室へ、春に芽吹いた若葉の匂いを乗せた風が吹き込んできたのと同時に、そっと控えめな声が鼓膜を震わせる。
視線を向けた先には、吹きこむ風に黒く短い黒髪の毛先をふわふわと揺らしながら、こちらの顔を少し覗き込むようにして、温和そうな目元に微笑みを浮かべている訓練兵が立っていた。
「は……」
その黒に、ジャンの脳裏に昨晩見たミカサの黒髪が浮かんだ。
彼女の黒髪はミカサの黒髪と限りなく同じ色をしているようだったが、全く同じというわけではなかった。見たところ髪質が、ミカサのように滑らかなものではなく、綿毛のように細く柔らかそうだった。
ジャンはそんなことを考えながら、春風に揺れる綿毛のような黒髪をじっと眺めていると、彼女は少し居心地が悪そうにして肩を落とす。
「えぇっと…ご、ごめん。他を探すね…!」
「あ?なんで……!」
と、口に出したところで、自分が彼女の黒髪に見惚れていたことに気付いて、はっと我に返る。
「悪ぃっ…!少しぼーっとしてた。す、座れよ」
ジャンは首の後ろに回していた両腕を慌てて下ろして、椅子に座り直しながら言うと、彼女は少しほっとしたように微笑んで、「ありがとう」と言った。
腕で抱えるようにして持っていた教材を机の上に置き、椅子を引いて隣に座った彼女に、ジャンは心臓が妙な打ち方を始めたのに違和感を覚えた。
何だか落ち着かない心情のままにジャンは横目で彼女の顔を窺っていると、不意に既視感を覚えて、そういえばと昨日の通過儀礼のことを思い出した。
「…お前、昨日あの芋女と一緒に走らされてた奴だよな?」
そう問いかけると、先に黒い瞳がこちらを向いて、次に少し考え込むような、複雑そうな顔を向けられる。
「芋女…って、もしかして…サシャのこと?」
「他に誰か思いつく奴でも居んのかよ?」
「…いや、ちょっとそのあだ名が気の毒だなって思っただけだよ」
彼女はそう言って苦笑を浮かべると、顎に手を当てて、先ほど声をかけてきた時と同様に少しこちらを覗き込むようにして問いかけてくる。
「…えーっと…君は確か…、ジャン…だった?」
「なんで知ってんだ」
目を合わせたことすらないのになぜ彼女が自分の名前を知っているのか不思議に思って問い返せば、顎に手を当てたままの彼女が、瞳に少しいたずらな色を浮かべた。
「…昨日の通過儀礼の時に、教官の頭突きを受けていたから…?」
「…それで覚えられてんのか」
何だか複雑な気持ちになって眉間に皺を寄せたジャンに、彼女はくつりと喉を鳴らして笑った。
「よろしく、ジャン。私はハル・グランバルドっていうんだ」
そう言って手を差し出してきた彼女の、ハルの手を取る。
見た目は少女というよりは、美少年寄りな顔立ちの彼女の手は、白くて思っていたよりも小さいと感じた。しかし、過弱さは感じられなかった。…なぜなら彼女の掌から、豆が潰れては固まった皮膚の感触がしたからだ。
そういえば、彼女の故郷もエレン達と同じシガンシナだったということを思い出す。そうすれば、彼女がこれまで開拓地に居たということは容易に想像できた。
そして今感じている小さな手の逞しさは、そのまま彼女が過ごしてきた開拓地での日々の厳しさを体現したものだと思うと、少しだけ胸の奥が痛むようだった。
それでも、目の前の彼女は殺伐とした背景を感じさせないような人当たりの良い微笑みを湛えていて、ジャンはなんだか居た堪れなくなってその手を離した。
「……、死ぬ寸前まで走ってた割には、意外と元気そうだな」
「そう見えるだけだよ。あっと言う間に朝になったと思ったら、身体中バキバキなんだ…。これじゃあ午後からの対人訓練に響きそうだよ…」
ううんと背中を伸ばすように両腕をあげたハルが、イタタと表情を曇らせて肩を回すのに、ジャンは少し呆れながら両足を組んで椅子の背もたれに再び寄りかかる。
「そりゃあ自業自得だろ。会ったばっかの他人に余計な気ぃ遣うからそんなことになんだよ。お人好しなのかただの馬鹿なのかは知らねぇが、自分の身を守りてぇならこれを期に程々にしとくこったな」
「他人…じゃ、ないんじゃないかな」
「あ?」
少し声音を落ち着けて答えたハルは、じっとジャンを見つめる。
「これから一緒に、兵士になるために生活していく仲間であって、同士なんじゃないかなって、私は思うけどな…」
「…」
ああ、こいつも同じか。
ジャンはそう思った。昨晩勇敢ぶった偽善を振りかざしたあいつと…。
そう思うと胸の中にまた淀んだ雲が浮かんできて、喉の奥がザラついた。それを直ぐにでも吐き出してしまいたくて、耐えられずに舌打ちが出る。
分かっている。
こうやって昨日の晩のように何もかも口から吐き出してしまえば、面倒なことが余計に面倒になるんだってことは。…それでも、耐えられないのだ。この虚勢が、自分自身の弱さの現れだと分かっていたとしてもだ。
「お前なぁ…芋女に巻き添えくらって散々走らされた挙句飯も抜かれたんだろ?そんな目に遭ったってのによくそんなことが言えるな?…まあどうせ本心じゃねぇんだろうが。…そうやっていい奴ぶってる奴に、ロクな奴はいねぇんだよ」
そう一息で言い切った後の、沈黙が重い。
ジャンはハルの方は向いてはいなかったが、彼女がじっと自分の顔を見つめているのを感じていたし、何より彼女の視線は顔に向いているのに、何故か胸に刺さるようで、ジャンはしばらく奥歯を噛んでいたが、耐えられなくなってゆっくりと視線をハルへと向けた。
そうして、彼女の双眼と目が合って、ジャンは短くはっと息を呑んだ。
それは自分が想像していた表情と、彼女が浮かべていた表情が、全く正反対のものであったからだ。
「……悪いことばかりじゃなかったんだ」
澄んだ瞳に、自分の顔が映っているのが見えた。
それはあまりにも穏やかな色を浮かべていて、まるで暗示にでもかかってしまったかのように目が離せなくなる。
「…じゃあ、良いことってのは、何だったんだよ」
視線も、意識も持っていかれているのに、口先だけが残っていた僅かな自分の意思だけで動く。
すると、ハルは少し照れたような、嬉しそうな顔をして小首を傾げて見せる。
「サシャと友達になれたんだ」
「…は?」
あまりにも気の抜けてしまうような返答に、ジャンは呆気に取られ素っ頓狂な声を上げてしまう。
そしてそんなジャンをお構いなしに、今度は右手の人差し指をピンと伸ばしたかと思えば、あっと閃いたように目を輝かせて言った。
「…ああっ、それにほら…君と話すきっかけにもなった…!」
「は、はぁっ!?」
あまりにも短絡的で、それでいて驚異的に真っ直ぐな言葉に、ジャンは驚き思わず椅子を蹴り飛ばして立ち上がってしまう。
ガランと大きな音を立てて椅子が倒れ、机に乗せていた教材と文具がガサリと落ちる音に、講義室に居た同期達の視線が何事かとジャンに集まる。
「ちょ…ジャ、ジャンどうしたのそんな大声出してっ」
「っ~お前がおかしなこと言うからだろうがっ…!」
「そんなに変なこと言った覚えは……」
ハルが慌てた様子で椅子から腰を上げるのに、ジャンはどうしてか胸が早鐘を打ち鳴らすことに困惑し狼狽えてしまう。と、その時だった。
ガラリと講義室の前方の扉が開き、今日の講義担当であろう教官が入ってきた。
「よーし…全員揃ってるな?講義を始めるぞ。初日に支給した教本は机に出しているか?」
教官が卓上に抱えてきた教材をドサリと置きながら言うのに、「まずい」とハルが慌てて地面に散乱しているジャンの教材と文具をかき集める。ジャンも一息遅れて、自分の教材と文具をかき集め始めた。
「よし、ではまず教材の裏に名前を記入しろ」
ハルとジャンは教材と文具を全て拾い上げると、いそいそと各々の椅子に座り教材を裏返して名前を記入し始める。が、名前を書こうとしたジャンは用意していた鉛筆の先が先ほどの衝撃で全て折れていることに気付いて焦る。…と、さっと横から一本の鉛筆が差し出された。
「(使っていいよ)」
と、ハルが声には出さずに口だけを動かして言うのに、ジャンも短く小声で礼を言って受け取った。
教官が行う講義は、極めて基本的なものだった。今日が初めての座学だからという理由もあるからだろうが、内容としてはこの兵団の組織や存在意義を大まかに理解しておくためのもので、正直少々退屈だった。
そんな中、教官も話しを聞くだけではつまらんだろうと、趣向を変えて今度は生徒を指名して教本を朗読してもらう方針にしたようで、そこで一番最初に指名されたのがハルだった。
「ハル・グランバルド」
「!…はい」
「この続きの、兵団説明の部分を朗読してくれ」
「はい!」
ハルは少し慌てた様子で教本を手に取ると、椅子から立ち上がり、一呼吸おいて指定された箇所の朗読を始める。
「……まず第一に、訓練兵団とはーー」
「……、」
それはただの朗読に過ぎず、何ら、特別なことを彼女はしているわけではない。
それでも、すぐ傍で鼓膜を震わせるその声がひどく、…綺麗だと感じた。
ジャンはその声に引き寄せられるかのように、視線を教本から隣に立つ彼女へと向けた。
開け放たれた講義室の窓から入り込んでくる春風を受けて、相変わらず細く柔らかそうな黒髪が揺れている。睫毛は長く、その下の黒い瞳は黒曜石のようにキラキラと輝いていた。
体格は華奢で細身だが、真っ直ぐで歪みのない、まるで芯が通っているかのように伸びた背中が彼女の誠実さを体現しているかのようで、上着の下に着ている黒のハイネックが白い肌をより一層際立たせており、口元に一つ存在感を示している黒子が…なんとも魅力的だ。
そして何よりも、彼女の声は子守唄ように穏やかで、優しい響きを持っている。
顔立ちもミカサと似ているが、よく見れば違うところはたくさんあるのだと気づかされる。
ミカサの知的な瞳とは違って、ハルの瞳は黒目でも少々色素が薄く柔らかな印象がある。その横顔は大人びていて、可愛らしいや綺麗だと表現するよりも、清廉だという言葉が合う。
そんな彼女に見惚れ、小さな唇から紡がれる声に聞き入っていると、あっという間に朗読を終えてしまったハルが椅子を引いて静かに腰を落とす。
それを少し残念だと思っていると、不意にハルは鉛筆を手に取って、自身のノートの左下に何かをサラリと書いた。そして、それをそっとジャンの方へと寄せて見せる。
「(ちょっときんちょーした)」
彼女の大人びた雰囲気とは少し違って、可愛らしい丸い文字で書かれたそれ。
ジャンはノートからハルへと視線を向けると、彼女はふんわりと花開くように微笑みを浮かべていた。
可愛い。
ジャンはそう、不覚にも思ってしまう。
「(ダセェな)」
自分のノートの端に書いた言葉は、本当は彼女に向けた言葉ではなかったが、ハルはそれを見て、声を出さずに「ひどいなあ」と苦笑する。
胸の中に、熱くて甘い感情が滲み上がってくるのを感じながら、ジャンはマズいと視線を彼女から逸らし、窓の外へと向けた。
見上げた空は相変わらず青く澄み渡り、真っ白な雲が漂っている。
そうして先ほど空を旋回していた鳶の側には、いつの間にかもう1羽の鳶が寄り添うようにして飛んでいたのだった。
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