紙風船を空へ高く
りんがたどたどしく話している間、殺生丸はただそれを黙って聞いていた。
既に日は沈み始めている。
森を包む橙が、朱に変わっていく。
森全体が夕焼けの色に染まっていた。
虚ろな瞳でりんは、紅の紙風船を捉えた。
「……紙風船、してたの。おっかぁと…。どれだけ高く飛ばせるか競争してた。…りん、負けちゃった。明日は絶対勝ってみせるからね、って言ったら、おっかぁは“そうだね、楽しみにしてるから”って笑ったの」
「そうか」
「でも紙風船、ペシャンコにされちゃった…。もう、出来ないの…。もう、おっかぁと…」
「そうか…」
血溜まりに浮かぶ、ひしゃげた紙風船。
やがて血と共に、茶色く変色していった。
「―――っ…うっ…うぇっ…」
りんの目からは、後から後から涙が零れ落ちる。
「―――我慢せずともよい」
「っうぅ…うぁっ、うわぁあああんっ!」
噛み殺していた嗚咽が、大きな泣き声へと変わった。
殺生丸の胸に顔を埋めて、全てを出し切るように涙を流す。
殺生丸は、りんの頭を抱え込み、りん自体を余す所無く包み込んだ。
殺生丸の着物に、りんの涙が染みていく。
奥の木陰には、下僕と双竜の気配があったが、事情を察したのか、姿を現す事は無かった。
やがてぐったりと、りんの重みが全て、殺生丸に預けられた。
泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
そっと抱き上げた。
腫れた瞼から涙が滲む。
頬に残る雫の跡をひと舐めして、りんを優しく抱き締めた。
「殺生丸さま…」
遠慮がちに邪見が声を掛けて来た。
りんを心配そうに見やっている。
「火を起こせ」
下僕の方には振り向かず、一言命じた。
「はいっ!只今!」
やがて灯った火の側に、毛皮に包んだりんを大事そうに横たえる。
「りんのやつ…今まで顔には出しませんでしたが、随分と辛い目に合って来たのですな…」
苦い顔で邪見がりんを見つめた。
この小さな身体に、どれほどの悲しみを抱え込んでいたのかと想像すると、憐れでならない。
邪見の話を聞きながら、殺生丸はりんを見つめた。
焚き火の炎に照らされて、りんの顔にゆらゆらと光が揺れる。
ふと、殺生丸が踵を返し歩き出した。
そして拾い上げたのは、紅色の紙風船。
それを焚き火にくべてしまおうと、炎の元へと戻って来る。
炎の上に紙風船をかざす。
「殺生丸さま…」
邪見もそのほうが良いと思った。
りんに辛い思いを呼び起こさせる紙風船。
誰もりんの泣き顔など見たくはない。
悲しい過去ごと燃やしてしまおう。
だが、手から紙風船を離す、寸での所で、殺生丸は思い止まった。
炎から遠ざけ、手に持ったそれを見つめる。
「殺生丸さま…?」
もし、今これを燃やしてしまえば、確かにりんの辛い記憶は薄れるかもしれない。
しかし、それと同時に、母と競った楽しい思い出も消えてしまうかもしれない。
人には忘れてしまったほうがいい事もある。
だが、決して忘れてはならない物もある。
死者は、生者の中にしか、その存在を止どめてはおけないのだ。
りんは、家族の事を決して忘れてはならない。
辛い思い出として消し去ってしまうよりも、楽しい思い出として、いつか、もう一度笑顔で紙風船を飛ばして欲しい。
傷は簡単には癒えないだろう。
長い年月をかけても、無くなる事は決して無い。
後何年経てば、涙は止まるのかまだ分からない。
だが、その傷を何時か笑顔に変えてしまえる強さが、りんにはあることを、殺生丸も邪見も知っていた。
いつか…。
殺生丸は紅色の紙風船を、丁寧に折り、懐へとしまった。
そんな主の仕草に驚きつつも、何となく、殺生丸の心中を邪見は理解する。
「今度やる時は、わしも負けてはおられませぬな」
薪をくべながら、しみじみと邪見は空を見上げる。
夕闇は消え、いつしか上弦の月が、くっきりと浮かんでいる。
夜空には無数の星が散らばり、秋の訪れを告げる、凛とした空気が一行を包んだ。
朝になればきっと、いつもより少し照れた表情を浮かべて、りんは笑ってくれるだろう。
そんな顔を思い浮かべながら、殺生丸はそっとりんの頭をひと撫でした。
(終)
既に日は沈み始めている。
森を包む橙が、朱に変わっていく。
森全体が夕焼けの色に染まっていた。
虚ろな瞳でりんは、紅の紙風船を捉えた。
「……紙風船、してたの。おっかぁと…。どれだけ高く飛ばせるか競争してた。…りん、負けちゃった。明日は絶対勝ってみせるからね、って言ったら、おっかぁは“そうだね、楽しみにしてるから”って笑ったの」
「そうか」
「でも紙風船、ペシャンコにされちゃった…。もう、出来ないの…。もう、おっかぁと…」
「そうか…」
血溜まりに浮かぶ、ひしゃげた紙風船。
やがて血と共に、茶色く変色していった。
「―――っ…うっ…うぇっ…」
りんの目からは、後から後から涙が零れ落ちる。
「―――我慢せずともよい」
「っうぅ…うぁっ、うわぁあああんっ!」
噛み殺していた嗚咽が、大きな泣き声へと変わった。
殺生丸の胸に顔を埋めて、全てを出し切るように涙を流す。
殺生丸は、りんの頭を抱え込み、りん自体を余す所無く包み込んだ。
殺生丸の着物に、りんの涙が染みていく。
奥の木陰には、下僕と双竜の気配があったが、事情を察したのか、姿を現す事は無かった。
やがてぐったりと、りんの重みが全て、殺生丸に預けられた。
泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
そっと抱き上げた。
腫れた瞼から涙が滲む。
頬に残る雫の跡をひと舐めして、りんを優しく抱き締めた。
「殺生丸さま…」
遠慮がちに邪見が声を掛けて来た。
りんを心配そうに見やっている。
「火を起こせ」
下僕の方には振り向かず、一言命じた。
「はいっ!只今!」
やがて灯った火の側に、毛皮に包んだりんを大事そうに横たえる。
「りんのやつ…今まで顔には出しませんでしたが、随分と辛い目に合って来たのですな…」
苦い顔で邪見がりんを見つめた。
この小さな身体に、どれほどの悲しみを抱え込んでいたのかと想像すると、憐れでならない。
邪見の話を聞きながら、殺生丸はりんを見つめた。
焚き火の炎に照らされて、りんの顔にゆらゆらと光が揺れる。
ふと、殺生丸が踵を返し歩き出した。
そして拾い上げたのは、紅色の紙風船。
それを焚き火にくべてしまおうと、炎の元へと戻って来る。
炎の上に紙風船をかざす。
「殺生丸さま…」
邪見もそのほうが良いと思った。
りんに辛い思いを呼び起こさせる紙風船。
誰もりんの泣き顔など見たくはない。
悲しい過去ごと燃やしてしまおう。
だが、手から紙風船を離す、寸での所で、殺生丸は思い止まった。
炎から遠ざけ、手に持ったそれを見つめる。
「殺生丸さま…?」
もし、今これを燃やしてしまえば、確かにりんの辛い記憶は薄れるかもしれない。
しかし、それと同時に、母と競った楽しい思い出も消えてしまうかもしれない。
人には忘れてしまったほうがいい事もある。
だが、決して忘れてはならない物もある。
死者は、生者の中にしか、その存在を止どめてはおけないのだ。
りんは、家族の事を決して忘れてはならない。
辛い思い出として消し去ってしまうよりも、楽しい思い出として、いつか、もう一度笑顔で紙風船を飛ばして欲しい。
傷は簡単には癒えないだろう。
長い年月をかけても、無くなる事は決して無い。
後何年経てば、涙は止まるのかまだ分からない。
だが、その傷を何時か笑顔に変えてしまえる強さが、りんにはあることを、殺生丸も邪見も知っていた。
いつか…。
殺生丸は紅色の紙風船を、丁寧に折り、懐へとしまった。
そんな主の仕草に驚きつつも、何となく、殺生丸の心中を邪見は理解する。
「今度やる時は、わしも負けてはおられませぬな」
薪をくべながら、しみじみと邪見は空を見上げる。
夕闇は消え、いつしか上弦の月が、くっきりと浮かんでいる。
夜空には無数の星が散らばり、秋の訪れを告げる、凛とした空気が一行を包んだ。
朝になればきっと、いつもより少し照れた表情を浮かべて、りんは笑ってくれるだろう。
そんな顔を思い浮かべながら、殺生丸はそっとりんの頭をひと撫でした。
(終)
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