Away from the Rain


 スマホの画面に、指を滑らせる。ゆらめく炎でできたこの体では、本来ならばそれさえも難しい。随分古びてしまっていて、側から見れば、少しみすぼらしいものかもしれない手袋を見つめた。この優れものは、魔力の流れを調節して不安定な体の形を保ってくれる。おかげで、このようにスマホの画面を触れることが出来た。私にとって生活必需品だ。けれど、もうこれを作ってくれるヒトはいない。黒い、合皮のようなもので作られた艶やかな手袋。ところどころ、凹みのような傷と焦げた跡が残っている。繁々と見つめて、息を吐きながら目を逸らした。
 
 平べったい呼び出し音が、この街を囲む雨音に張り付く。スピーカーをオンにして、ことりと机に置いた。雨は特別嫌だった。頭痛に似た鈍い痛みが全身にまとわりついて、炎は勢いを無くす。そのせいで体を保つのに意識を払はなければならない。外出なんてもってのほかだった。この世界には梅雨というものがある。それを知った時には、地上に出たい気持ちが半減……とは言わないが、確かにゾッとはした。教えてくれた彼は、冗談まじりに「もし地上に出ることになったら、オイラが買い出しいくよ」だかなんだか言っていた。どうせケチャップを注文以上に買われると思い断ったのを覚えている。しかし、今ではきちんと注文数買いに行ってくれていた。思いもよらない伏線回収だ。槍でも降るのだろうか、なんて、雨が降っているなか失礼ながらに思っていた。
 だが、こんな季節、もとい気象があることは知らなかった。
 鳥の声は忘れてしまうほどで、雨音が飽きもせずに世界を囲んでいる。時折、どこからか聞こえる反響しすぎて何を言っているかわからない警報で、この幻想的とも言える天気が異常気象によるものだと改めてわかる。
 
 スマホのスピーカーからは、声が聞こえることはなかった。
 珍しいこともあるな。そう思いながら、窓の外を覗く。朝、高く昇った太陽が白く輝いている。それに照らされる、霧を少し大きくしたくらいの雨粒。どこかでは、虹がかかっているかもしれない。彼に教えてもらった天気の一つを、頭に思い浮かべた。
 スマホは、連絡履歴の画面に変わった。一番上にあるのは、怠けもので、グータラな、常連客の名前だった。
 最近、この気象のせいあってか客足が遠のいている。地下時代からの常連も、この気象と地上での新生活に精を出しているため、全員が揃うことはまずない。まして、ニンゲンの客は、異常気象による不景気で遊ぶ余裕もあまりないようだった。買い出しに行けなくても、今ある在庫でなんとかなるだろう。そう思って、スマホの画面を暗くする。そこに、眉間を寄せて、風に煽られたように揺れる火が映った。目があい、気にしていないと言い聞かせながらテレビのリモコンを探した。焚き火が爆ぜるように、ひりつく炎が服の上を滑っていく。
 
 テレビから流れるのは、どの局も同じ内容だった。
 異常な暑さ、異常な寒さ。それに続く、異常な雨。太陽は出ているのに、雨が何日も続いている。低気圧がどうとか、前線がどうとか。そういう話ではないことが、流れてくる音声でわかる。もっと、環境問題がどうとか、そういうのらしい。あいにく、つい数年前までは井の中の蛙……もとい、地の下にいたものだから、詳しいことはわからないが。
 サンズなら知っているのだろうか。
 地下にいた時は、ただのぐうたらで仕事を放り出して、私の店に入り浸る骨だと思っていた。だが、今はこの世界で研究職をしていると聞いた。口からポフっと、煙のようなものが出るほどに驚いたが、消えたあいつの知り合いということは知ってたため、納得はできた。
 今日は珍しく連絡がつかない。だからそれについては聞くこともできないだろう。ましてや、買い物を頼むことも。ぐうたらなくせにそういうところはまめな彼に対して、なんだか揺れる火が消えてしまうような、不安を抱いた。
 
 立っていれば落ち着かず歩き出してしまいそうで。腰を下ろしたソファーは、自分の光に照らされて黒光りしていた。革と革の継ぎ目に、指を滑らせる。その光の反射を眺めていた。いつもならこの時間、サンズと話をしているのだろうと思うと、手持ち無沙汰だった。あいている時間をぼーっとするしか潰す手段を持たない私は、季節外れに暖炉に火でも渡そうかとそわそわと立ち上がる。
 と、携帯からプルルルルと音が鳴った。一瞬目を細めてから、つけたままだった手袋をキュッと位置を調節した。そのままスマホを手に取る。映し出されているのは意外な人物だった。
「……?」
 フリスク。
 その名前を見るのは久しくなかった。ニュースでは引っ張りだこで、見かけない日はないからだ。けれど、こうして私個人にかけてくるとは珍しい。今日は珍しいことばかりだと思いつつ、画面をタップした。
『ぐ、グリルビー!今ちょっといい?』
 スピーカーにする間もないまま、その声は耳に届いた。チリ、と焦げるような匂いがする。それは、不穏な予感を感じとった自分からだった。暗かった画面に、焦った様子のフリスクが写った。画面が揺れて、時々固まる。周りにはパピルスくんやトリエルさんもいるらしいが、見切れていてよくわからない。しかし、ただごとではないということはわかった。
『サンズが行方不明で……!』
 
 通話を終えて、私はスマホを机に置いた。そして、いい匂いとは言えない焦げ臭い香りを纏ったまま、部屋を彷徨く。ソファーを横切って、机に手を置いて、そして窓から顔を覗かせた。それを繰り返しているうちに、頭は聞いた情報の整理が終わっていた。
 異変に気づいたのは、今朝。ほんの今さっきだったという。骨兄弟宅のリビングに、サンズのケータイ、財布が置かれていた。寝床にも仕事場にもいない。パピルスくんが知り合い全員に声をかけ、慌てたフリスクが行方不明と、私にも連絡をよこしたそうだった。何も言わずに家を出ることはあっても、財布も連絡手段もない。これはおかしい。サンズのケータイを開いた時、私の通知が入っていたそうで、何か知っているのではないかという算段だったそうだ。だが、生憎なことに私はただの、彼がいつも通っている店の店主というだけだ。特別仲がいいわけでも、連絡手段を以ているわけでもない。
 けれど、薪に異物が混じっているように、スッキリしない感情が煙っていた。
 さーっと、通雨の皮を被った雨が、音を立て続ける。私も、探した方がいいのだろうか。雨が窓に当たって、太陽と私の光を反射しながら滑っていく。反対になった自分の顔が写っている。いくつも。
 彼はただの常連だ。客と店主という関係だ。それ以下でも、それ以上でもない。
 時々、忙しい時は店を任せる。
 時々、閉店後。悲しいほどに静かな店の中で酒を煽る。文句を言わずに付き合ってくれる。
 その度彼は、火がふっと息をかけられたように、笑顔が不安定になる。太陽が一瞬雲隠れたみたいに、影が落ちる。
 彼は何かを隠している。けれど、それが何かはわからなかった。
 私は、相談役でもなんでもない。ただの拠り所なのだ。猫が雨宿りをするように、彼がふらっと立ち寄れる、都合がいい場所だ。きっと、追えば去ってしまう。
 けれど、どうしても燻った不安と心配が、自分を動かそうとする。そんな、行動したい気持ちと、自惚れるなという自制が相まって、また何周か部屋を歩いた。
 
 その音は突然で、そして私のしょうもない部屋散歩を止めるのにはぴったりだった。
 どさ、ぎし。
 それは確かに店の方から聞こえた。今いるのは店の奥の部屋からはドア一枚。どこかに体重をかけるような音は聞こえたが、足音は聞こえなかった。
 何ごとかと思って、窓から離れる。テレビのリモコンを触って、電源をオフにした。焚き火がすっと消えてしまったような静寂の中で、屋根を撫でるように優しく叩く雨音が強調されている。スマホをポケットに突っ込んで、店とこの部屋が繋がるドアを開けた。
 正直にいうと半ば予想をしていた。逆に、そうであった欲しいとさえ思っていた。広がるのは、いつものカウンター、青白い影。だがそのクマは色濃い。言い聞かせるように頭に浮かべる。私は彼の拠り所。私個人としてではなく、彼はグリルビーズの店主を求めているはずだ、と。大きな窓からは慣れない朝日が道となって降り注いでいる。けれど、彼が座っているところまでには届いていなかった。
「……よお。いつもの」
 私は平常心を装うようにして、そっと後ろでドアを閉めた。幸い、意識して感情を表に出さないようにするのは得意だった。それでも口元がこわばるのを感じる。子供のように小さく丸まった背丈が、似合わないカウンター席で笑っている。腐った三日月のようなその笑顔は、随分とくたびれていた。
 それでも、散策すれば魔力の残骸を残して消えてしまうのだろう。スタスタと、冷蔵庫に一直線に向かい、開けた。痛いくらいの冷たさがふんわりと通り向ける。あらかじめタオルを持った手を伸ばして、何本かあるケチャップのストックのうち、一つを手に取った。ボトルはもう結露を始めており、タオルに水滴が吸い込まれていく。全体を拭ってからカウンターに置いた。いつも通り、コップも何もない。
「さんきゅ」
 いつもなら勢いよく飲み干しているはずだ。だが、彼はチビチビと舐めるように口をつけているだけだった。それを横目に、乾かしておいたグラスを棚にしまう。ガラス戸に反射するサンズの顔。それを盗むように見つめて、肩の力を抜こうと勤めた。
 写っているのは、少々やつれた姿だった。いつものパーカーは、ところどころ綻びがあり、びっしょりと濡れて色を濃くしている。いたたまれない。私は振り向きながらグラスを置いた。そのまま、ゆったりと彼を見つめる。
「ん?……あぁ、服?いいよ、オイラ、こう見えて風邪引いたことないんだ」
 気だるげに両手を広げて、そのまましぼむみたいにまた丸くなる。私は、タオルをカウンターに適当に放って、サンズの向かいに立った。上目遣いで、彼は見上げる。そこにいつものような陽気さはないし、ましてや余裕も見て取れなかった。それなのに明るく振る舞おうとするその笑顔だけは、変わらない。まるで外の太陽と小雨のように、あべこべなサンズ。
 彼の目の前に、手を出した。パチンと、捻るように指を鳴らせば、体から炎が分離して彼に走っていく。近づくあかりに少々びっくりしつつ、サンズは笑った。死んだ珊瑚みたいに白い骨は、私のオレンジで照らされる。周りでクルクルと円を描くように、火が回って、頂上で消えていった。
 炎が完全になくなり、間が置かれた。私は踵を返してまたグラスを棚に戻す作業に戻った。きゅっと足音がなる。
「ワオ、すごいな。オイラ、おまえさんの魔法初めて見たかも」
「……」
「あぁ、ありがとさん。おかげで心もぽっかぽかだぜ。おぉ、服がお日様のいー匂い」
 ふっと息をついて、それから私はポツポツと彼との会話を始めた。といっても、私からは何も言わない。彼の独り言に、視線で返事をするだけだった。
 きっと彼は、自分が行方不明で探されているということをわかっている。そして、そのことを私が知っているということもわかっているだろう。だが、だからといってその話をして詮索するのは変な話だと思った。客が話始めたらそれの相槌を打つ。必要そうなら手助けできるような一言を伝える。それが自分の仕事だった。
「あー……その、グリルビー」
 しばらく経ってから、サンズはカウンターをミトンの指で叩きながら口を開いた。
 無言で、私はその続きを待つ。けれど、ちらりと見れば彼は視線をあっちこっちにやって、落ち着かなそうに座り直したりしているが見てとれた。目には険しい色が浮かんで、微かに、歯を食いしばるような笑顔が見える。
 様子がおかしい。何か、葛藤しているような、大事なことを迷っている雰囲気を醸し出していた。
 けれど、私はわからなかった。何を迷っているのだろう。しかし同時に私は決めていたのだ。保守的でいようと。
 そんな、火が風に吹かれているように不安定な時間が続いた。けれど、進展がある前に、外の騒がしさが周りを包んだ。不安定な時間を壊した。
 元々雨音が跳ねる音で静かとは言えなかった。壊れているジュークボックスは何も言わず、その強調された天気の音が飽きるほどに耳についているだけだった。今ではそれに加えて、人の声が聞こえる。サンズはふるふると頭を振ってから、高い椅子から降りた。その瞬間に、ドアが開かれ見慣れた人たちが入り口に蔓延る。その後ろは、太陽が高く止まっていて、やはり雨が落ちている。
「サンズ……!」
 フリスクは口を開いた。悲しそうな笑みを浮かべてこちらに来る。足から雨が滑り落ちて、店内の床を濡らした。
「よかった、ここにいたんだ。みんな心配して……」
 私はその様子を見ていた。フリスクが話しかける。その後ろでトリエルやアンダイン、そしてパピルスが見守っている。それに背を向けてこちらを見るサンズを、見ていた。
 日の光が彼の背中を照らす。そこから溢れ出た光の道は、足元に届くこと無く消え失せている。影になった顔には、深く刻まれたシワが見える。けれど、その食いしばられた笑顔は、苦しいほどに消えていなかった。握られている拳は、震えて、ミトンには尖った指先で穴があきそうになっている。
「悪い、邪魔したな」
 そして、彼は振り向こうとする。私から顔を背けようとする。
 ここで引き止めなければ、きっと彼は行ってしまう。ここではないどこかに。そして、フリスクたちの場所でもないどこかに。それが、本能的にわかった。チリっとゆらめきながら火花が散っている。それが小さい感情の塊みたいに爆ぜる。慌てて周りを見回したそこに、私と彼を結びつけるものがあった。私はそれを手にとる。クシャッと音が遠くから聞こえた。燃やさぬようにと、冷静さを保とうとする。そして乱暴に、ポケットに隠されたその手を掴んだ。確かに、それを手渡す。そのシワだらけのミトンに握らさせる。手のひらに押し付けた。戸惑いつつも、彼は確かにそれを手で握った。
 
 彼は、消えてしまった。隠すことのできなかった、助けてくれと言わんばかりの、悲しみと懇願を含んだ表情を、私の瞼の裏に残して。
 キラキラと、私の光に照らされる魔力の残留。それは残酷なほどに綺麗で、でも空気に溶けていってしまった。私には絶対に掴むことの出来ない、雨のように。
 
 さーと、また雨粒は降る。ドームのように街を囲んで雨が降る。アスファルトに当たって、水溜まりを作り、屋根にあたって塊となって落ちていく。水溜まりは太陽の光を反射し、滑るように揺らめいている。落ちる雨はそこで跳ねて、波を立てていた。広い光が明るく刺している。私の脇を、子供たちが走っていく。ぱたたと、レインコートに雨が跳ね返り滑って、私のところに飛んできた。ヒッと息を飲み、慌てて少し火力をあげる。触れることなくその雨粒は蒸発した。
 こんな事をもう何十回も繰り返して、道を歩いていた。時に傘から滴り落ちる水。時に風で舞って私目掛けて飛んでくる水。触れればひりつくような痛みが鋭く襲う。ぐぅ、と倦怠感と永遠と続く鈍い痛みを噛み締めながら、防水加工されたブーツで足を進めていた。
 太陽が空間を温めるように輝いている。本来ならば、今は新緑の季節。若々しい緑が当たりを囲んで、それに明るい日が当たる、気持ちの良い季節のはずなのだ。今や、緑の葉は雨のせいで落ち、水に流されてしまっている。自分と反対方向に、小さな川となって道の隅で流されるそれらを見つめながら、ふるふると頭を緩く振った。
 サンズがいなくなって、随分が経とうとしていた。以来、店のモンスター達は日々の話に花を咲かせつつ、時折申し訳なさそうに目を伏せることが増えた。笑いの中に、寂しさが滲み出ているのがわかる。
 常連客達でさえ、その落ち込みようだった。なら、最近会えていないフリスクやパピルスくん達は、どんな風にして過ごしているのだろうか。もっと身近で、長い時間を過ごしてきた彼ら達は、どう過ごしているのだろうか。
 何かが変わっても、それを受け止めて進むしか道は無い。だとしても、ふと面影を感じた瞬間に。陰るように不安と悲しさが顔をのぞかせてしまうのは、仕方の無い事だった。
 そう、仕方ないのだ。こうして今、用事が済んだというのに、道を無意味に歩いてしまうのも。背の低いその青い姿を探してしまうのも。仕方の無いことなのだ。
 危険だとわかっていた。空中を漂う刺すような湿気は、着々と体を蝕む。さっきよりも幾分か鈍った視界の中で、ふらっと現れては私を揶揄う彼を探していた。
 手にかかる重さは、意識をここに繋ぎ止める。確かにここで歩いていると実感させてくれる。少々無理をしてしまったかな。随分と長かった散歩を終わらせて、店の支度をしなければ。
 私は角を曲がった。何本か道はズレているが、合流するはずだと頭の中の地図に従う。しかし、そこは私の通ったことの無い道で。誰もいない広場が歩く道の横に広がっていた。
 思わず、雨に濡れた柵に手をかけそうになり、慌てて数歩下がる。はぁ、と溜息をつきながら目線を上げた。
 誰もいない公園。からからと遊具たちは笑うように揺れて、錆びた体を雨に晒している。視界が開け、そこに水溜まりが大きく何個も広がっていた。微かに子供の足跡が残り、でこぼことした地面には、しっとりと雨が染み込み。太陽の光をこれでもかと輝かせる。ベールのように雨がいくつも重なって、視界を覆っていた。
 私は段々と目眩が強くなるのを感じた。早く帰らなければ。万が一倒れてしまっては死んでしまう。
 しかし、その足が帰路を辿ることはなかった。
 その青を捉えた。
 薄いオレンジの陽の光を纏った、子供のような背丈の彼。私は帰路を辿らなかった。
 柵に手をかける。じゅっと水が蒸発し、熱を奪い、痛みを感じさせた。だが気遅れることは無かった。その手に力を入れて、柵に足をかける。傘を持ったまま、そして荷物を腕にかけたまま、公園内に入った。
 ばしゃばしゃと、いつもなら避ける、水溜まりを踏んだ。幸い靴は水を入れないし、長い丈のパンツも同様に防水加工がされていた。けれど、隙間から入る泥が混じった水は、やはり痛かった。顔を素直にしかめて、傘を持つ手に力を入れる。どうしてもぶれるそこから、雨がつたい、頭の炎が悲しく爆ぜるのを聞いていた。
 彼は広場の中央に立っていた。傘もささず、雨に打たれ、まるで見えないみたいに宙を見つめている。
「……」
 私は、彼の目線に合わせるようにしゃがんだ。水が滲んだ地面に近づくのは怖かった。けれど、それよりもサンズの方が怖い思いをしていると知っていた。
 彼は私を見なかった。足元を見て、亡霊のようなおぼれげな目線をゆらめかせている。それは私の炎のように不安定で、でも私の炎とは違い、明るくはなかった。
 は、と、彼は息を零した。それはいつも彼が笑う音に似ていた。だが、その歪んだ目と、震える笑み。何よりも、何かを抑えるように丸くなって背中と、胸に爪を立てる鋭い指先は、確かに違かった。
 その、は、という音はだんだん増えてくる。間隔を狭くして、彼の喉を圧迫し、口から溢れ出る。は、は、は……!
 目を大きく見開いて、雨を溜め込んだみたいに潤んだ瞳を私に投げる。
 えぐえぐと、涙を堪えながら形にならない声を出すサンズ。何を隠しているのか、何を考えているのか、分からない彼。視線の先、見下ろしたそこには、子供のような彼がいた。震えた口を何度かはくはくと動かし、ついにサンズは言葉を繋げていこうとしていた。
「今日は……晴れだった。前は、晴れだった」
 開口一番、彼はそう言った。私はその言葉の真意がわからなかった。
「……明日が当たり前にある。毎日が目まぐるしく変わる。それが……わからない」
 は、は、は。彼は腹の中の醜い部分をさらけ出すように、その言葉を押し出した。震えた目で私を見る。
「毎日、記録したんだ。彼がそうしろって言ったから。覚えていた。だから記録して、観測して、そしたら……いや、そうして、俺は生きていた」
 ぎゅうと、まるで自分の首を絞めるように彼はシャツを握りしめる。ぎち、と、鋭い指先がくい込んで、服が悲鳴をあげていた。
 かくいう私は、サンズの言葉を追うのに必死だった。正直いうと、彼の言っていることは納得ができなかった。けれど、何となく理解はできるような気がした。 
「観測して、記録して……そこに、彼がいると思った」
 しきりに、サンズの口から出る彼、という言葉。私の頭の中にはあのひび割れた顔しか浮かばなかった。
 サンズは一つ、不規則に息を吸いながら続きを話した。
「彼のために、生きて、その先に、彼がいると思った……けど」
 そのままフラフラとサンズは揺れる。倒れそうなところで持ちこたえて、また身を縮め込む。
「なのに、今は?
 俺には役目があった……言われたことをやってた。そしたら、生きていると思ったんだ」
 その声は、恐怖に震えていた。過去の自分には芯があった。彼という芯があり、今はその芯がなくなってしまった。生きる芯が、なくなった。
 サンズは崩れこんだ。雨水と混じった跳ねる。服を汚し、膝を染める。
 私は考えた。静かに。私は考える事だけが得意だった。そして口を開いた。ゆっくりと。風が入ってくる。体に巡る。
「お前は、今。なんのために生きている?」  
 久しぶりに出した声は、折れた傘のように頼りなく、不安定だと感じた。かさかさとして、聞き苦しい。まるで落ちた紅葉のような声だった。
 そう言いながら、私は彼の頭の上に傘を傾けた。瞬間、小さく爆ぜるような痛みが襲う。何重にも重なって、それは激しい痛みとなっていた。音を立てる水の音は、自分の声と比べ物にならないくらい聞き苦しく、忌々しい。
 この質問に、彼は答えることは無かった。逆にその恐怖に染まった目に怒りを滲ませる。
 傘を持っていた手を、信じられないくらいの力ではたかれる。驚きはなかった。
 ふわりと風にまう傘は、ころころと転がって、遊具の柵に引っかかった。もう手は届かない。
「お前は俺を追求しなかった、無口だった、そういうキャラクターだった」
 怒りを滲ませた声で、捲し立てるように、彼は言う。
「変わったんだ」
 直ぐに彼の怒りは、悲しみへ変化していった。しばらくの沈黙が降りた。雨は勢いをまして私たちを打ち付ける。全身がヒリヒリと、そしてぱちぱちと痛みが走る。矢のように降り掛かっては、体に穴を開け、貫通して蒸発をする。けれど表情には出さなかった。出せなかった。
 そしてサンズは、ふっと息を零しながら言った。
「……お前はなんなんだ……?俺は……一体なんなんだ?」
 彼はそう言って、泣いた。
 初めて頬に涙を流した。ミトンの手袋をしていないその手では、拭うことの難しい涙が、するすると通っていく。
 私は足を進めようとした。だが、力は入らない。無理やり腕を伸ばして、彼を抱きしめようとした。そうすれば彼の気持ちがほんの少しでもわかると思ったんだ。魔力の流れ、感情の流れ、それが、サンズから私に流れれば。少し分けてもらえれば。背負わせてくれるのならば、楽になるのではないかと思ったんだ。
 その手が、冷たい頬に滑った。しゅっと、音を立てて、涙が乾いた。目が合った。その、消えそうに揺れてけれど隠しきれない期待を滲ませた目を。
 ただの常連客だった。
 時々店を任せることもあった。
 時々、閉店後酒を飲むのに付き合ってくれるだけだった。
 私は彼に特別な感情を抱いているのだろうか。わからなかった。ただ、助けたいと。私は思い、行動をしただけだった。
 私がさいごに目にしたのは、その悲しいほどに濡れた瞳だった。
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