ぽすん、と何かが足にぶつかったような感覚がして視線を下に向けると、そこにいたのはレディのペットのミニリッパーだった。普段は主人である彼女から片時も離れようとしないのに、今は珍しく一人だ。縋るように私の足に抱きついたり、ぽかぽかと叩いたりしている。
　いくら殴られようが所詮は人形、たいした力は無い。だが、小さな身体でちょこまかと足元に纏わりつかれるのは正直邪魔だ。スラックスの裾をぐいぐいと引っ張っているこの物体をいっそ蹴り飛ばしてしまおうかとも思ったが、もしこれを傷つけてしまったらレディは大層悲しむだろう。下手をしたら口をきいてくれなくなるかもしれない。面倒くさいが、すべては可愛いレディのためだ。
「はいはい、一体どうしたんですか」
　適当にそう声をかけると、ミニリッパーはさっきまで私を引っ張って行こうとした方向へと駆け出した。どうやら私を何処かへ導こうとしているらしい。
　こちらをちらりと振り返り、『早く来い！』と言わんばかりにぴょんぴょんと飛び跳ねて私を急かす。まったく、人形のくせにわがままで生意気。こちらの都合などお構いなしだ。日頃からレディに可愛がられ、甘やかされているせいだろうか。やれやれ、と思いながら後を追った。
　しばらくそうしていると、辿り着いたのは彼女の部屋の前。ここなら別にこのチビ助にわざわざ案内をされるまでもないのだが。
　ミニリッパーに促されるままにドアノブを握って捻れば、それは何の抵抗もなくあっさりと回る。
「……おや」
　部屋の鍵はかかっていなかった。僅かに開いたドアの隙間からミニリッパーはぐいぐいと身体をねじ込むようにして部屋に入り、そのままカウチソファへと一目散に駆け寄っていく。
　ソファの上には彼女がいた。なんとも安らかな表情を浮かべ、胸元は一定のリズムで上下している。ただ眠っているだけのようだ。どうやらベッドへ行かずにソファでうたた寝をしたまま、本格的に寝入ってしまったらしい。ミニリッパーは自分では彼女をベッドまで運ぶことができないため、私に知らせに来たのだろう。
「これはこれは。よく知らせてくれましたね。おチビさん」
　褒めてやるつもりで頭を帽子越しに軽くぽんぽんと撫でれば、不本意なのだと言わんばかりに、ふん、とそっぽを向いた。そして小さな爪刃でベッドを指し示し、早く彼女を運ぶよう指示をしてくる。小癪で憎たらしい態度だが、確かにレディをこのまま放っておいたら身体を冷やして風邪をひいてしまうだろう。
　ソファと身体の間に腕を差し入れて抱き上げても、彼女は目を閉じたまま私の腕の中でうぅん、と可愛らしく唸るだけだった。そのままベッドへと運んで連れて行ってその身体を横たえ、ブランケットをかける。するとミニリッパーもベッドによじ登り、中に潜り込んで彼女にぴったりと寄り添うようにして寝転がった。どうやらそこがこのチビ助の就寝時の定位置らしい。
　ベッドに移されミニリッパーに密着された彼女は少し身動いだものの目を覚ます気配はなく、すぐにまたすやすやと寝息を立てはじめる。よほど疲れているのだろうか、それにしてもなんて不用心なのだろう。いくらここが自室だとはいえ、施錠をしていない部屋でここまで無防備になるだなんて。もし私以外の悪い男が部屋に入ってきたら一体どうするつもりだったんでしょう。自分はそんな目には遭わないとでも思っているのでしょうか。
　嗚呼、人を疑わず、周りの男達が抱く恋慕にも劣情にも気づかない。無邪気で隙だらけの可愛いレディ。きっとあなたは今、殺人鬼など出る幕のない穏やかな夢の中にいるのでしょうね。夢の世界ですら私から逃げて遠ざかっていってしまうだなんて、なんて残酷な人。
　いっそこのまま、眠っている間に唇を奪ってしまおうか。芽生えた悪戯心は欲望に変わっていき、顔を近づけて淡い薔薇色の唇にそっと口づける。
　わずか一瞬の、柔らかく甘美な感触。すでに深い眠りについている彼女は、微かに触れ合うだけのキスでは目を覚まさない。ほんの戯れのような接吻は少々物足りなく感じるが、もっと深いキスを交わすのならば微睡みの中などではなく、彼女の意識のある時がいい。
　――その時には、こんな優しいだけの口づけでは終わらせない。捕らえて逃がさないようにして私好みに染めて、その無垢な身体も、純粋な心も、あなたのすべてを暴き、たっぷりと愛してさしあげましょう。
「おやすみなさい。良い夢を」
　私の可愛い、愛しい人。どうか幸せな優しい夢の中、誰のものにもならないで。私があなたをこの腕の中に抱きしめる、その日まで。