保カフ その他
保カフ 『保科宗一郎の出張土産話』 後編
目の前の男が大きな背を丸め縮こまっている。
タクシーに連れ立って乗り込み、着いた先は高級料亭であった。日比野とともに訪れることは想定内であったため、馴染みの所を予約していたのだ。宗一郎の隣に並ぶ男は、場違いであることに居たたまれないのだろう。居心地が悪そうに、こんな所初めて来ましたと呟いている。
「なんや、宗四郎に連れてきてもらったことないんか。ここの女将はなあ、昔関西で小料理屋しててん。うちのおかんと仲ええから、そん時からの付き合いや。だから、あいつにとっても馴染みのところなはずなんやけど」
前の女とは来とったみたいやけどなあ、何でやろな?
そう意地悪くありもしないことを言ってみせると、あからさまにショックを受けましたと言わんばかりの表情をする。感情が全てだだ漏れの様がほんの少し可愛く思えて、宗一郎はつい攻め手を緩めてしまう。
「まあ、こんな店来て手放しで喜ぶような女は、あの弟とは合わへんやろうから。お前くらいでちょうどええんやないか? ほら、暗い顔してんと酒でも呑めや」
じゃあ、お言葉に甘えてと日比野が手にしたお猪口になみなみと酒を注いでやる。入って間もない新人と飯に来て、酒を酌み交わすのはこれが初めてかもしれないと思うと少し笑えてくる。
「お前、ようその年で防衛隊に入れたなあ······もう32やろ、自分」
「弟さんが、保科副隊長が拾ってくださったおかげです」
勿論そのことも調べて知ってはいるが、本人も知っていたとは少し予想外であった。きっと恩を感じて彼が日々鍛錬に励んでいるだろうことは容易に想像がつく。
尊敬や憧れが恋へと変化するのは納得できるが、では弟はどこでその色を変えたのだろうか。まさか、一目惚れとでも言うのか。
入隊前後のことなど他愛のない話を続けていると、目の前の男の言葉が突然途切れ酒を呑んでいた手も止まり動かなくなった。
「どないした? 大丈夫か、おい」
そう声をかけるが、反応はない。耳を澄ますと日比野から僅かに寝息が聞こえてくる。
「嘘やろ、こいつ!? 酔っぱらって寝よったで······信じられへん」
お猪口を手にしたまま、ふらふらと揺れて船を漕いでいる。
それ程多く酒を勧めたわけではない。本人も酒は好きだと言って喜んで飲んでいた。無理していた様子は微塵もなかったはずだ。
「酒弱すぎるやろ、こいつ。全くしゃあないなぁ」
手にしているお猪口を奪ってテーブルに置き、席を立って日比野の隣に座り直し傾いているその体を抱きとめる。すると、安心しきった顔でその腕に収まり、すやすやと気持ちよさそうな寝顔を晒してくる。
今まで何度となく弟の恋人の愛が如何程か試すようなことをしてきたが、これはそれ以前の問題だ。あまりにも警戒心がなさすぎて、逆に心配になってしまう。いくら恋人の身内といえど、よく知りもしない相手の誘いに乗り何の疑いもなくついて行く。挙句の果てには酔って無防備に寝顔を晒すなど以ての外だ。こんなもの手を出してくださいと言っているようなものではないか。
「こいつ、よお今までこんなんで無事に生きてこれたもんやなあ」
少し甘い言葉で口説いてやればすぐにこちらに靡くような女ばかりで辟易していたが、これはこれで弟の相手としてどうなんだろう。
涎を垂らして眠りこけている男の頬を軽く摘んでみると、ゔっと少しだけ嫌そうな顔をする。その様に何だか愛着のような親しみは感じられるが、恋心を持てるかと問われれば疑問だ。本当に変化球すぎてこちらも対処に困るな、と宗一郎は抓ってしまった頬を優しく撫でてやりながら思った。
だがしかしだ、せっかくここまで来て何の成果もなしに帰るのも面白くない。せめて悪戯しましたという跡でも残しておこうと、日比野の首筋に唇を這わせたその時である。閉められていた障子戸がとれるのではないかという勢いで開き、何やらどす黒いものを纏った鬼、もとい弟がやって来た。
「えらい早かったなあ、宗四郎。仕事ほっぽり出してきたんか?」
こちらの軽快さとは対照的に、おどろおどろしいまるで呪詛のような地を這うほどの低い声が聞こえてくる。
「カフカに何したんや。返答しだいでは殺す······いや、何であってももうお前は亡き者にせんと気が済まん」
そう言って帯刀していた刀で斬りかかってくるので、空になった皿でとりあえず防ぎ切り抜ける。
「お前、討伐に行くわけでもないのに刀まで持ってきたんか。ほら、危ないからそんなもん仕舞い。上等な皿が傷だらけやないか」
「そう思うなら、皿置いて大人しく細切れになれや!」
このままでは寝ている日比野にも切っ先が当たるかもしれないと思い、彼の体を椅子の背もたれに寄りかからせその場から離れた。頭に血が上っていてもそれくらいの判断はできるようで、宗四郎も大人しくそれに続き彼との距離をとる。
「出来るもんならやってみい。まあ、お前には無理やろうけどなあ」
そうは言っても本気でこちらを仕留めに来る弟を、武器もなしに躱わし続けるのは至難の業だ。
それにこちらへの威嚇なのか、ただの八つ当たりなのか。
座敷に飾られている高級な皿や壺、掛け軸などが木っ端微塵に刻まれていく。気品ある料亭の一室がそれはもう悲惨な有様である。小さい頃弟は癇癪を起こすと手当り次第近くにある物を壊していたが、それは今もなお健在のようだ。
弁償せんといかんなあと考えていると、漸くお目覚めなのか日比野がう~んと唸っている。そして、ぼんやりとしながらも弟の気配に気づいたのか宗四郎さんと呼んだ。
「ほら、お前の大事なお姫さんがお目覚めやで。ほっといてええんか?」
「そんな手は食わん······カフカ、ちょっとの間そこでじっとしとき。すぐに終わらすから」
日比野はまだ寝ぼけているのかふにゃふにゃと訳のわからない言葉を発し、またテーブルにうつ伏せになる。二度寝するんかい!と突っこみを入れている場合ではなかった。弟が深く踏む込みこちらへと斬りかかってくる。
ーー危ない!!
そう発したのは二度寝していたはずの日比野であった。危険を顧みず宗一郎を庇うように間に入ってきたのだ。咄嗟に両手で日比野の体を引くようにして、そのまま宗一郎は彼ごと後ろに倒れる。そのため、宗四郎の振りかぶった刀の切っ先は兄の腕を少し掠めたものの、強烈なその一撃はほぼ空を切ることとなった。
「お前、何しとん! 前に出てきたら危ないやろ。俺が後ろに倒れんかったらお前ざっくりいっとったで」
怖さで震えているであろう体を落ち着かせるように撫で擦ってやると、日比野が大きな声を上げる。
「保科隊長、腕が!」
「ん? ああ、これくらい大丈夫や······ただのかすり傷やから」
すると日比野は不意に立ち上がり、宗四郎の方へと向かっていく。近づいたら危ないでと宗一郎は注意してみたが、彼は聞く耳を持たないようだ。
「宗四郎さん、何であんなことするんですか」
「なんでって······あいつが悪いんやろ。僕のカフカを取り上げようとするから。それやのになんであいつを庇うん? お前も僕より兄貴のほうがええんか!?」
きっと宗四郎には昔の光景が思い出されているのだろう。いつも、いつだって、付き合い出した女が少し経つと、宗一郎のほうが良いと言い出すようになる。そう仕向けたのは確かに宗一郎であるが、でもそれは単にきっかけを与えたにすぎない。それくらいの想いしか持たない相手を選んでしまう弟が悪いのだ。もっと相応しい相手がきっとどこかにいるはずなのに。
「宗四郎さん、俺の言ってることちゃんと聞こえてますか?」
「そうなんか······やっぱり、お前もあいつのほうがええんやな」
宗四郎と会話が成立していないことに漸く気づいたようで、日比野は溜息をついた。そして、両手を大きく振りかぶってそのまま宗四郎の頬をばちんと叩き、その顔を宗一郎のほうへと無理やり向かせる。
「よく見ろ、宗四郎! お兄さん怪我して血が出てるだろうが!! だめだろ、こんなことしたら」
その場にいた保科兄弟は突然の叱責に目をぱちくりし無言になった。この時ばかりはこの2人がやはり兄弟なんだと思わせるほど同じ反応をしていたのだ。日比野の姿に何となくだが母親の姿が重なり合っていて、少しの間兄弟の思考はそこで停止する。
暫くして宗四郎の体が脱力しその手から刀が床へと滑り落ちた。そして、膝から崩れ落ちそうになっている彼を日比野が抱きとめる。すると、宗四郎は緩く日比野の背につかまりながら、か細い声でほっぺた痛いと呟いた。
「カフカ······お前、力一杯叩き過ぎや。腫れ上がったらどなしてくれるねん」
「そうでもしなきゃ、俺の言ってること聞いてくれなかったでしょう?」
帰ったらほっぺた冷やしてあげるんで今は我慢して下さい、嫌や我慢できんと抱き合いながら話している2人を見ながらも宗一郎は呆気に取られていた。
まさか我を忘れて暴れまわる弟を、一発で正気に戻せる者がいるとは思わなかったのだ。それはこの世でたった1人、その母親だけがなせる業だと信じて疑わなかったから。
小さい頃はただの子どもの癇癪くらいですんでいたが、成長するにつれて才だけでなく技も会得してしまっては手のつけようがない。相対するにはこちらにもそれ相応のものが必要になる。でなければ血を見るのは明らかで。だが、かわいい弟を傷つけたくない宗一郎は、一頻り気の済むまで暴れさせて疲れて止まるのを待つだけだった。
(そうか、こんな逸材がおったんか······これはええ拾いもんしたやんか、宗四郎)
宗一郎は突然肩を震わせ、くくくっと笑い出す。その声は次第に大きくなり、目の前の抱き合ったままの2人は何事かと振り向いた。
「くくっ ふははっ! 宗四郎、お前。ほっぺた叩かれてめっちゃ叱られてるやん! お前、いくつや? もうええ年やのに······ガキん頃に悪さしておかんに尻叩かれてるのとおんなじやないか!」
腹を抱えてヒイヒイ言いながら笑っている宗一郎に、むかっ腹を立てた宗四郎も負けじと反論する。
「いつの話しとんねん! うっさいわ、ボケ。お前もおかんに叱られて隠れて泣いてたん知ってるんやぞ。あとなあ、おかんおかん煩いねん、僕はマザコンちゃうわ。このクソ兄貴」
五十歩百歩、この後もしょうもない言い合いが続き、日比野も次第に可笑しくなってきてくすくすと笑っていた。
暫くして宗一郎がよいしょと言いながら立ち上がる。
「日比野、俺は女将に部屋散らかしたこと謝ってくるから······弟のこと頼んだで」
はい、お任せくださいと答える日比野の声を背に受けながら、宗一郎は部屋を後にする。廊下で少し中の様子をこっそり伺っていると、最愛は甘えた声で恋人に話しかけている。
「なあ、カフカ。僕のこと、嫌いになったりせえへん?」
「なったりしません。俺は宗四郎さんが大好きですから。お兄さんのことも特に興味ないです。俺、会ってみて分かったんですけど、言うほど似てませんよね?」
「······そんなら、僕とあいつ、どっちがかっこええ?」
「もちろん、宗四郎さんです! 世界で一番格好良い、俺の大好きな人です」
「ほんまかあ? それやったらええけど」
そう言ったきり会話が途切れ静かになったと思ったら、リップ音とくぐもった声が聞こえてきて宗一郎は静かにその場を離れていく。
(これ以上は馬に蹴られてまうからな、お邪魔虫は退散しよか。まあでも、日比野カフカの発言に1つ付け加えるとするならばーー)
保科宗四郎は世界で一番かわええ弟やっちゅうことやろな
「······とまあ、こういうことがあったんや。おもろいやろ? 出張ごっつい楽しかったわ。また行きたいなあ」
ここは第6部隊保科隊長執務室。出張から帰ってきた隊長を出迎えたのは、お気に入り枠の話をした部下である。面白い土産話があると聞かされていたのだが、蓋を開けてみるとそんなもの何処にあるのやら彼は首を捻るばかりだ。
「そのお話のどこがそんなにおもしろいんすか? 寧ろ、すげえ怖いんすけど」
「なんでや? こないおもろいことないやんか。まあ、ええわ。ほら、お土産で買うてきた菓子食べていき」
あざすといってその部下がもぐもぐと食していると、宗一郎が今の話は他の奴には内緒やでと伝えてくる。それに対し部下は勿論心得てますと返す。その返答に気を良くした隊長はいつものごとく、頭を撫でて褒めちぎる。
「ほんまお前はええ子やな。ほら、こっちの菓子も旨いから食べてみ?」
それから数日後、日比野が嫌そうな顔をした宗四郎を引き連れてやって来た。休日を使ってわざわざ先日の謝罪をしに菓子折り持って訪れるということが可笑しくて、宗一郎は笑いを堪えるのに必死である。
「保科隊長、腕のお怪我は大丈夫ですか?」
「それがなあ、ちょっと痛むねん。宗四郎が優しく撫でてくれたら痛みが治まりそうやねんけどなー」
そう言ってちらりと弟のほうを見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「無理ならええねんで。代わりにカフカに撫でてもらうから。お願いできるか?」
分かりましたと言って日比野が手を出そうとすると、宗四郎がその手をとりぎゅっと握りしめてやめさせた。
「カフカのこと、名前で呼ぶなや。このクソ兄貴」
猫が爪を研ぐがごとく、がりがりと腕を掻きむしられてしまったが終始ご満悦な宗一郎であった。
終

目の前の男が大きな背を丸め縮こまっている。
タクシーに連れ立って乗り込み、着いた先は高級料亭であった。日比野とともに訪れることは想定内であったため、馴染みの所を予約していたのだ。宗一郎の隣に並ぶ男は、場違いであることに居たたまれないのだろう。居心地が悪そうに、こんな所初めて来ましたと呟いている。
「なんや、宗四郎に連れてきてもらったことないんか。ここの女将はなあ、昔関西で小料理屋しててん。うちのおかんと仲ええから、そん時からの付き合いや。だから、あいつにとっても馴染みのところなはずなんやけど」
前の女とは来とったみたいやけどなあ、何でやろな?
そう意地悪くありもしないことを言ってみせると、あからさまにショックを受けましたと言わんばかりの表情をする。感情が全てだだ漏れの様がほんの少し可愛く思えて、宗一郎はつい攻め手を緩めてしまう。
「まあ、こんな店来て手放しで喜ぶような女は、あの弟とは合わへんやろうから。お前くらいでちょうどええんやないか? ほら、暗い顔してんと酒でも呑めや」
じゃあ、お言葉に甘えてと日比野が手にしたお猪口になみなみと酒を注いでやる。入って間もない新人と飯に来て、酒を酌み交わすのはこれが初めてかもしれないと思うと少し笑えてくる。
「お前、ようその年で防衛隊に入れたなあ······もう32やろ、自分」
「弟さんが、保科副隊長が拾ってくださったおかげです」
勿論そのことも調べて知ってはいるが、本人も知っていたとは少し予想外であった。きっと恩を感じて彼が日々鍛錬に励んでいるだろうことは容易に想像がつく。
尊敬や憧れが恋へと変化するのは納得できるが、では弟はどこでその色を変えたのだろうか。まさか、一目惚れとでも言うのか。
入隊前後のことなど他愛のない話を続けていると、目の前の男の言葉が突然途切れ酒を呑んでいた手も止まり動かなくなった。
「どないした? 大丈夫か、おい」
そう声をかけるが、反応はない。耳を澄ますと日比野から僅かに寝息が聞こえてくる。
「嘘やろ、こいつ!? 酔っぱらって寝よったで······信じられへん」
お猪口を手にしたまま、ふらふらと揺れて船を漕いでいる。
それ程多く酒を勧めたわけではない。本人も酒は好きだと言って喜んで飲んでいた。無理していた様子は微塵もなかったはずだ。
「酒弱すぎるやろ、こいつ。全くしゃあないなぁ」
手にしているお猪口を奪ってテーブルに置き、席を立って日比野の隣に座り直し傾いているその体を抱きとめる。すると、安心しきった顔でその腕に収まり、すやすやと気持ちよさそうな寝顔を晒してくる。
今まで何度となく弟の恋人の愛が如何程か試すようなことをしてきたが、これはそれ以前の問題だ。あまりにも警戒心がなさすぎて、逆に心配になってしまう。いくら恋人の身内といえど、よく知りもしない相手の誘いに乗り何の疑いもなくついて行く。挙句の果てには酔って無防備に寝顔を晒すなど以ての外だ。こんなもの手を出してくださいと言っているようなものではないか。
「こいつ、よお今までこんなんで無事に生きてこれたもんやなあ」
少し甘い言葉で口説いてやればすぐにこちらに靡くような女ばかりで辟易していたが、これはこれで弟の相手としてどうなんだろう。
涎を垂らして眠りこけている男の頬を軽く摘んでみると、ゔっと少しだけ嫌そうな顔をする。その様に何だか愛着のような親しみは感じられるが、恋心を持てるかと問われれば疑問だ。本当に変化球すぎてこちらも対処に困るな、と宗一郎は抓ってしまった頬を優しく撫でてやりながら思った。
だがしかしだ、せっかくここまで来て何の成果もなしに帰るのも面白くない。せめて悪戯しましたという跡でも残しておこうと、日比野の首筋に唇を這わせたその時である。閉められていた障子戸がとれるのではないかという勢いで開き、何やらどす黒いものを纏った鬼、もとい弟がやって来た。
「えらい早かったなあ、宗四郎。仕事ほっぽり出してきたんか?」
こちらの軽快さとは対照的に、おどろおどろしいまるで呪詛のような地を這うほどの低い声が聞こえてくる。
「カフカに何したんや。返答しだいでは殺す······いや、何であってももうお前は亡き者にせんと気が済まん」
そう言って帯刀していた刀で斬りかかってくるので、空になった皿でとりあえず防ぎ切り抜ける。
「お前、討伐に行くわけでもないのに刀まで持ってきたんか。ほら、危ないからそんなもん仕舞い。上等な皿が傷だらけやないか」
「そう思うなら、皿置いて大人しく細切れになれや!」
このままでは寝ている日比野にも切っ先が当たるかもしれないと思い、彼の体を椅子の背もたれに寄りかからせその場から離れた。頭に血が上っていてもそれくらいの判断はできるようで、宗四郎も大人しくそれに続き彼との距離をとる。
「出来るもんならやってみい。まあ、お前には無理やろうけどなあ」
そうは言っても本気でこちらを仕留めに来る弟を、武器もなしに躱わし続けるのは至難の業だ。
それにこちらへの威嚇なのか、ただの八つ当たりなのか。
座敷に飾られている高級な皿や壺、掛け軸などが木っ端微塵に刻まれていく。気品ある料亭の一室がそれはもう悲惨な有様である。小さい頃弟は癇癪を起こすと手当り次第近くにある物を壊していたが、それは今もなお健在のようだ。
弁償せんといかんなあと考えていると、漸くお目覚めなのか日比野がう~んと唸っている。そして、ぼんやりとしながらも弟の気配に気づいたのか宗四郎さんと呼んだ。
「ほら、お前の大事なお姫さんがお目覚めやで。ほっといてええんか?」
「そんな手は食わん······カフカ、ちょっとの間そこでじっとしとき。すぐに終わらすから」
日比野はまだ寝ぼけているのかふにゃふにゃと訳のわからない言葉を発し、またテーブルにうつ伏せになる。二度寝するんかい!と突っこみを入れている場合ではなかった。弟が深く踏む込みこちらへと斬りかかってくる。
ーー危ない!!
そう発したのは二度寝していたはずの日比野であった。危険を顧みず宗一郎を庇うように間に入ってきたのだ。咄嗟に両手で日比野の体を引くようにして、そのまま宗一郎は彼ごと後ろに倒れる。そのため、宗四郎の振りかぶった刀の切っ先は兄の腕を少し掠めたものの、強烈なその一撃はほぼ空を切ることとなった。
「お前、何しとん! 前に出てきたら危ないやろ。俺が後ろに倒れんかったらお前ざっくりいっとったで」
怖さで震えているであろう体を落ち着かせるように撫で擦ってやると、日比野が大きな声を上げる。
「保科隊長、腕が!」
「ん? ああ、これくらい大丈夫や······ただのかすり傷やから」
すると日比野は不意に立ち上がり、宗四郎の方へと向かっていく。近づいたら危ないでと宗一郎は注意してみたが、彼は聞く耳を持たないようだ。
「宗四郎さん、何であんなことするんですか」
「なんでって······あいつが悪いんやろ。僕のカフカを取り上げようとするから。それやのになんであいつを庇うん? お前も僕より兄貴のほうがええんか!?」
きっと宗四郎には昔の光景が思い出されているのだろう。いつも、いつだって、付き合い出した女が少し経つと、宗一郎のほうが良いと言い出すようになる。そう仕向けたのは確かに宗一郎であるが、でもそれは単にきっかけを与えたにすぎない。それくらいの想いしか持たない相手を選んでしまう弟が悪いのだ。もっと相応しい相手がきっとどこかにいるはずなのに。
「宗四郎さん、俺の言ってることちゃんと聞こえてますか?」
「そうなんか······やっぱり、お前もあいつのほうがええんやな」
宗四郎と会話が成立していないことに漸く気づいたようで、日比野は溜息をついた。そして、両手を大きく振りかぶってそのまま宗四郎の頬をばちんと叩き、その顔を宗一郎のほうへと無理やり向かせる。
「よく見ろ、宗四郎! お兄さん怪我して血が出てるだろうが!! だめだろ、こんなことしたら」
その場にいた保科兄弟は突然の叱責に目をぱちくりし無言になった。この時ばかりはこの2人がやはり兄弟なんだと思わせるほど同じ反応をしていたのだ。日比野の姿に何となくだが母親の姿が重なり合っていて、少しの間兄弟の思考はそこで停止する。
暫くして宗四郎の体が脱力しその手から刀が床へと滑り落ちた。そして、膝から崩れ落ちそうになっている彼を日比野が抱きとめる。すると、宗四郎は緩く日比野の背につかまりながら、か細い声でほっぺた痛いと呟いた。
「カフカ······お前、力一杯叩き過ぎや。腫れ上がったらどなしてくれるねん」
「そうでもしなきゃ、俺の言ってること聞いてくれなかったでしょう?」
帰ったらほっぺた冷やしてあげるんで今は我慢して下さい、嫌や我慢できんと抱き合いながら話している2人を見ながらも宗一郎は呆気に取られていた。
まさか我を忘れて暴れまわる弟を、一発で正気に戻せる者がいるとは思わなかったのだ。それはこの世でたった1人、その母親だけがなせる業だと信じて疑わなかったから。
小さい頃はただの子どもの癇癪くらいですんでいたが、成長するにつれて才だけでなく技も会得してしまっては手のつけようがない。相対するにはこちらにもそれ相応のものが必要になる。でなければ血を見るのは明らかで。だが、かわいい弟を傷つけたくない宗一郎は、一頻り気の済むまで暴れさせて疲れて止まるのを待つだけだった。
(そうか、こんな逸材がおったんか······これはええ拾いもんしたやんか、宗四郎)
宗一郎は突然肩を震わせ、くくくっと笑い出す。その声は次第に大きくなり、目の前の抱き合ったままの2人は何事かと振り向いた。
「くくっ ふははっ! 宗四郎、お前。ほっぺた叩かれてめっちゃ叱られてるやん! お前、いくつや? もうええ年やのに······ガキん頃に悪さしておかんに尻叩かれてるのとおんなじやないか!」
腹を抱えてヒイヒイ言いながら笑っている宗一郎に、むかっ腹を立てた宗四郎も負けじと反論する。
「いつの話しとんねん! うっさいわ、ボケ。お前もおかんに叱られて隠れて泣いてたん知ってるんやぞ。あとなあ、おかんおかん煩いねん、僕はマザコンちゃうわ。このクソ兄貴」
五十歩百歩、この後もしょうもない言い合いが続き、日比野も次第に可笑しくなってきてくすくすと笑っていた。
暫くして宗一郎がよいしょと言いながら立ち上がる。
「日比野、俺は女将に部屋散らかしたこと謝ってくるから······弟のこと頼んだで」
はい、お任せくださいと答える日比野の声を背に受けながら、宗一郎は部屋を後にする。廊下で少し中の様子をこっそり伺っていると、最愛は甘えた声で恋人に話しかけている。
「なあ、カフカ。僕のこと、嫌いになったりせえへん?」
「なったりしません。俺は宗四郎さんが大好きですから。お兄さんのことも特に興味ないです。俺、会ってみて分かったんですけど、言うほど似てませんよね?」
「······そんなら、僕とあいつ、どっちがかっこええ?」
「もちろん、宗四郎さんです! 世界で一番格好良い、俺の大好きな人です」
「ほんまかあ? それやったらええけど」
そう言ったきり会話が途切れ静かになったと思ったら、リップ音とくぐもった声が聞こえてきて宗一郎は静かにその場を離れていく。
(これ以上は馬に蹴られてまうからな、お邪魔虫は退散しよか。まあでも、日比野カフカの発言に1つ付け加えるとするならばーー)
保科宗四郎は世界で一番かわええ弟やっちゅうことやろな
「······とまあ、こういうことがあったんや。おもろいやろ? 出張ごっつい楽しかったわ。また行きたいなあ」
ここは第6部隊保科隊長執務室。出張から帰ってきた隊長を出迎えたのは、お気に入り枠の話をした部下である。面白い土産話があると聞かされていたのだが、蓋を開けてみるとそんなもの何処にあるのやら彼は首を捻るばかりだ。
「そのお話のどこがそんなにおもしろいんすか? 寧ろ、すげえ怖いんすけど」
「なんでや? こないおもろいことないやんか。まあ、ええわ。ほら、お土産で買うてきた菓子食べていき」
あざすといってその部下がもぐもぐと食していると、宗一郎が今の話は他の奴には内緒やでと伝えてくる。それに対し部下は勿論心得てますと返す。その返答に気を良くした隊長はいつものごとく、頭を撫でて褒めちぎる。
「ほんまお前はええ子やな。ほら、こっちの菓子も旨いから食べてみ?」
それから数日後、日比野が嫌そうな顔をした宗四郎を引き連れてやって来た。休日を使ってわざわざ先日の謝罪をしに菓子折り持って訪れるということが可笑しくて、宗一郎は笑いを堪えるのに必死である。
「保科隊長、腕のお怪我は大丈夫ですか?」
「それがなあ、ちょっと痛むねん。宗四郎が優しく撫でてくれたら痛みが治まりそうやねんけどなー」
そう言ってちらりと弟のほうを見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「無理ならええねんで。代わりにカフカに撫でてもらうから。お願いできるか?」
分かりましたと言って日比野が手を出そうとすると、宗四郎がその手をとりぎゅっと握りしめてやめさせた。
「カフカのこと、名前で呼ぶなや。このクソ兄貴」
猫が爪を研ぐがごとく、がりがりと腕を掻きむしられてしまったが終始ご満悦な宗一郎であった。
終

