保カフ その他
保カフ 月夜の邂逅
日比野カフカは困っていた。
日課である資料室での勉強にちっとも身が入らないのである。時間は限られているというのに、どうしたことだろう。いつもは一分一秒を惜しんで、怪獣の生態を解き明かそうとしているのに。
そもそも、今日は資料室へ向かう足取りが重かったのだ。何故か行きたくない、そう思ってしまうほどに。
「だめだな、こりゃ……今日はもう諦めよう」
ぐだぐだと言い訳しながら、悩んでいても仕方がない。潔くやめることもまた、己のためだ。さっさと寝て、明日に備えよう。
日比野は机に広げていたノートや資料を片付け、資料室を後にした。
出来ることなら気分転換に屋上にでも行って、月を眺めながら一服したいが肝心の煙草がない。日比野は彷徨うようにうろうろと基地内を歩き回った。消灯後に勉強するわけでもなく、意味もなくこんな所にいたらきっと怒られてしまうのだろう。そう思うのに、日比野の足は止まらない。
「何やってるんだろう、俺。もう部屋に帰ろう」
そう踵を返そうとした時、微かに人の声が聞こえてきたのだ。やめておけばいいものを、その声のする方へとゆっくり近づいていく。渡り廊下から外へと繋がる、基地の一番端でフェンスで囲まれた場所。特に何もないところだが、こんなところで何をしているのだろう。
「お前、何してねん……頭に乗るなや。こぉら、あかんって」
聞き覚えのある声とイントネーション。
すぐに誰であるか、日比野には分かった。だが、縫いとめられたようにその場から動くことができない。
月に照らされ、きらきらと輝く美しい横顔。楽しげに揺れる黒髪。見てはいけないものを見てしまった、そんな感覚。それなのに、目を離すことができない。
「ん? どないした。急にそんな鳴き始めて……あ〜? カフカぁ……お前、何しとん」
日比野の存在にいち早く気づいたのは、目の前の男、ではない。その男の周りをぐるぐると忙しなく纏わりついている黒いもの。
「ふ、副隊長こそ、何してるんですか? こんな所で」
名を呼ばれて、漸く日比野は我に返ることができた。赤い瞳がこちらを捉えて、何故と問うので答えに窮しオウム返しのように日比野も問う。その間もにゃあにゃあと鳴き声が絶えずしていた。
「ここのフェンスが壊れてて、少し穴があいとるやろ? ここからな、この猫が入ってきよんねん。すぐに追い出すんやけど、また帰ってきてしもうて」
その黒猫はよほど保科を気に入っているのか、飼い猫のように懐いている。保科の手に乗っていたかと思うと、今度は肩に足をかけそのまま頭の上に乗っかろうとしていた。
「なんで、頭に乗んねん! 変なやつやなぁ」
文句を言いつつも楽しそうに、猫とじゃれ合っている。
「副隊長……あげたんじゃないですか? なんか、食いもんとか」
日比野のその言葉にぎくりと分かりやすい反応を見せた。
「やっぱりそうなんすね。そうじゃなきゃ、ここまで懐かないっすよ」
「しゃあないやん、物欲しそうにずっと付いてきよるし。なんやかわええから、ついな」
頭にべったりと張りついていた猫の首根っこを掴み引き剥がそうとすると、その手から逃れ今度は保科の懐へと潜り込む。暴れまわるなと文句を言いつつも、その猫を抱きかかえながら楽しそうに頬摺りしていた。
「分かってるんやで。中途半端に可愛がったらあかんて。だからな、今こいつのこと、引き取ってくれる人探してるところや。手を差し伸べたら、きちんと最後まで面倒みるのが筋やからな」
その言葉を聞いてまず真っ先に日比野が思ったことは責任感があってさすがだとか、すごく優しい人だなとかでもない。ただ、羨ましいなであった。
「ん? よぉ見たら……この猫、瞳が少し緑がかってるなあ。カフカ、お前のその眼と似とるやん。よし、今日からこいつの名前は――かふかや」
そう言って保科がその猫を撫でると、猫は嬉しそうに鳴き頭を擦り付けるようにしてじゃれている。
「ちょっと、変な名前つけないでくださいよ。副隊長が飼うわけじゃないんですよね!?」
「飼い主が見つかるまでや……ん? おんなじ色かと思ったけど、お前のほうが綺麗なエメラルドやな」
日比野は首に腕をかけられぐいっと引き寄せられた。そして、至近距離でじっと瞳を見つめられる。その距離の近さに思わず身を引こうとするが、引き寄せる力のほうが圧倒的に強くそれは叶わなかった。
せめて顔だけでも背けようと思ったところで、何故か猫のかふかが正面に張り付いた。保科の視線から逃れることができて良かったが、これでは何も見えない。困ったなと思っていたら、今度は頭をよじ登って背中側へ回っている。
「うわっ何やってんだ!? そんなところで爪研ぐなよ」
「ははっ! お前も気に入られよったな。仲間やと思われたんちゃうか」
猫はあまり居心地が良くなかったのか、すぐに日比野の背から離れまた保科の元へと戻っていく。
「仲間……そうですね。落ちるはずだった俺を拾ってくれて、面倒みてくれてますもんね」
日比野がそう答えると、保科は驚いたようにその瞳を見開いた。だが、すぐにいつも通り優しい笑顔へと戻っていく。
「お前のことも、きちんと最後まで面倒みたらなあかんな。手差し伸べたもんの務めや」
保科の手が伸びてきて、日比野の頭に触れた。そして、その手は下りてきて頬を滑り顎の髭をひと撫でする。
「……お前は猫っちゅうより、犬やな」
「いや、猫でも犬でもなくて人間ですけど!?」
真面目にそう返す日比野を可笑しそうに眺め、今日はもう解散しよかと抱きかかえていた猫を放す。
「また明日からビシバシ鍛えていくから、覚悟せいよカフカ」
「はい! 頑張ります」
ふたりと一匹はそれぞれの場所へと帰っていく。
今日この夜のことは彼ら以外誰も知らない。夜を照らす弓張月だけが見ていた、偶然の出会いであった。
日比野カフカは困っていた。
日課である資料室での勉強にちっとも身が入らないのである。時間は限られているというのに、どうしたことだろう。いつもは一分一秒を惜しんで、怪獣の生態を解き明かそうとしているのに。
そもそも、今日は資料室へ向かう足取りが重かったのだ。何故か行きたくない、そう思ってしまうほどに。
「だめだな、こりゃ……今日はもう諦めよう」
ぐだぐだと言い訳しながら、悩んでいても仕方がない。潔くやめることもまた、己のためだ。さっさと寝て、明日に備えよう。
日比野は机に広げていたノートや資料を片付け、資料室を後にした。
出来ることなら気分転換に屋上にでも行って、月を眺めながら一服したいが肝心の煙草がない。日比野は彷徨うようにうろうろと基地内を歩き回った。消灯後に勉強するわけでもなく、意味もなくこんな所にいたらきっと怒られてしまうのだろう。そう思うのに、日比野の足は止まらない。
「何やってるんだろう、俺。もう部屋に帰ろう」
そう踵を返そうとした時、微かに人の声が聞こえてきたのだ。やめておけばいいものを、その声のする方へとゆっくり近づいていく。渡り廊下から外へと繋がる、基地の一番端でフェンスで囲まれた場所。特に何もないところだが、こんなところで何をしているのだろう。
「お前、何してねん……頭に乗るなや。こぉら、あかんって」
聞き覚えのある声とイントネーション。
すぐに誰であるか、日比野には分かった。だが、縫いとめられたようにその場から動くことができない。
月に照らされ、きらきらと輝く美しい横顔。楽しげに揺れる黒髪。見てはいけないものを見てしまった、そんな感覚。それなのに、目を離すことができない。
「ん? どないした。急にそんな鳴き始めて……あ〜? カフカぁ……お前、何しとん」
日比野の存在にいち早く気づいたのは、目の前の男、ではない。その男の周りをぐるぐると忙しなく纏わりついている黒いもの。
「ふ、副隊長こそ、何してるんですか? こんな所で」
名を呼ばれて、漸く日比野は我に返ることができた。赤い瞳がこちらを捉えて、何故と問うので答えに窮しオウム返しのように日比野も問う。その間もにゃあにゃあと鳴き声が絶えずしていた。
「ここのフェンスが壊れてて、少し穴があいとるやろ? ここからな、この猫が入ってきよんねん。すぐに追い出すんやけど、また帰ってきてしもうて」
その黒猫はよほど保科を気に入っているのか、飼い猫のように懐いている。保科の手に乗っていたかと思うと、今度は肩に足をかけそのまま頭の上に乗っかろうとしていた。
「なんで、頭に乗んねん! 変なやつやなぁ」
文句を言いつつも楽しそうに、猫とじゃれ合っている。
「副隊長……あげたんじゃないですか? なんか、食いもんとか」
日比野のその言葉にぎくりと分かりやすい反応を見せた。
「やっぱりそうなんすね。そうじゃなきゃ、ここまで懐かないっすよ」
「しゃあないやん、物欲しそうにずっと付いてきよるし。なんやかわええから、ついな」
頭にべったりと張りついていた猫の首根っこを掴み引き剥がそうとすると、その手から逃れ今度は保科の懐へと潜り込む。暴れまわるなと文句を言いつつも、その猫を抱きかかえながら楽しそうに頬摺りしていた。
「分かってるんやで。中途半端に可愛がったらあかんて。だからな、今こいつのこと、引き取ってくれる人探してるところや。手を差し伸べたら、きちんと最後まで面倒みるのが筋やからな」
その言葉を聞いてまず真っ先に日比野が思ったことは責任感があってさすがだとか、すごく優しい人だなとかでもない。ただ、羨ましいなであった。
「ん? よぉ見たら……この猫、瞳が少し緑がかってるなあ。カフカ、お前のその眼と似とるやん。よし、今日からこいつの名前は――かふかや」
そう言って保科がその猫を撫でると、猫は嬉しそうに鳴き頭を擦り付けるようにしてじゃれている。
「ちょっと、変な名前つけないでくださいよ。副隊長が飼うわけじゃないんですよね!?」
「飼い主が見つかるまでや……ん? おんなじ色かと思ったけど、お前のほうが綺麗なエメラルドやな」
日比野は首に腕をかけられぐいっと引き寄せられた。そして、至近距離でじっと瞳を見つめられる。その距離の近さに思わず身を引こうとするが、引き寄せる力のほうが圧倒的に強くそれは叶わなかった。
せめて顔だけでも背けようと思ったところで、何故か猫のかふかが正面に張り付いた。保科の視線から逃れることができて良かったが、これでは何も見えない。困ったなと思っていたら、今度は頭をよじ登って背中側へ回っている。
「うわっ何やってんだ!? そんなところで爪研ぐなよ」
「ははっ! お前も気に入られよったな。仲間やと思われたんちゃうか」
猫はあまり居心地が良くなかったのか、すぐに日比野の背から離れまた保科の元へと戻っていく。
「仲間……そうですね。落ちるはずだった俺を拾ってくれて、面倒みてくれてますもんね」
日比野がそう答えると、保科は驚いたようにその瞳を見開いた。だが、すぐにいつも通り優しい笑顔へと戻っていく。
「お前のことも、きちんと最後まで面倒みたらなあかんな。手差し伸べたもんの務めや」
保科の手が伸びてきて、日比野の頭に触れた。そして、その手は下りてきて頬を滑り顎の髭をひと撫でする。
「……お前は猫っちゅうより、犬やな」
「いや、猫でも犬でもなくて人間ですけど!?」
真面目にそう返す日比野を可笑しそうに眺め、今日はもう解散しよかと抱きかかえていた猫を放す。
「また明日からビシバシ鍛えていくから、覚悟せいよカフカ」
「はい! 頑張ります」
ふたりと一匹はそれぞれの場所へと帰っていく。
今日この夜のことは彼ら以外誰も知らない。夜を照らす弓張月だけが見ていた、偶然の出会いであった。
