保カフ その他
保カフ 『俺、視えるんです!』 後編
午前3時、今俺は尿意と闘っています。
我慢してやり過ごそうと思いましたが無理そうです。もう限界なので、誰か代わりにトイレに行ってきてくれませんか?
(やばい、やばい! もう漏れる! ぱっといってぱっと帰ってくる。絶対出てくれるなよー)
隣で微かに寝息を立てている美丈夫を起こさないように、そろりとベッドを抜け出し意を決してトイレへと向かう。
(それにしても綺麗な寝顔だったな、俺とは大違いだ。やべっ涎垂れてた)
ベッドで眠る恋人の寝顔を思い出しながら口元を拭う。
部屋からトイレまでは少し距離がある。家の一番端にあるのだ。廊下をまだ掃除していないので、スリッパを履かされていてパタパタと音を立てながら廊下を進んだ。
「どうか、いませんように」
そう祈りながら、ゆっくりとトイレの扉を開き中を確認する。
「「あ"あ"ぁぁぁーー!!」」
霊の断末魔のような声と俺の叫び声が重なり、それは静かな夜に響き渡った。
(霊が用足してるぅー! ってか、お前がびっくりしてんじゃねえよ。俺はお前の何百倍も怖えわ!)
腰を抜かして床に這いつくばっていると、紺色のパジャマを着た恋人が裸足で駆け寄ってくる。
「カフカ、どないした!? 何事や、大丈夫か?」
「ふくたいちょ······いる、いるんです。なかに」
助けを求めるように手を伸ばすと、その手を掴みそのまま俺の体を引っ張り上げてくれる。そして、怯えて震えている俺にもう大丈夫だと言い聞かせるように、彼は力強く抱きしめてくれた。
「中におるって、便所にか? 僕が確認してくるから、それまでお前はその柱にでもしがみついとけ」
絶対に離すまいと副隊長にしがみついていたら、動きにくいから邪魔だと言われた。仕方なく近くの柱にコアラのように引っついて、様子を窺う。
「なんや、なんもおらんやんけ······あ、まさかこれか? 古い家やからなあ、蜘蛛くらいおるやろ」
柱とおさらばし、そろりそろりとトイレへと近づく。すると、副隊長が俺の足から抜け落ちたスリッパで蜘蛛をすくい、トイレの小窓から放り出していた。
「カフカが怖がるから堪忍な。もう来るんやないぞ、お家へ帰り」
何故か用を足していた霊はやはり綺麗サッパリいなくなっている。そのことにほっと胸を撫で下ろすと、思い出したかのように尿意が顔を出す。トイレに入りたくてもじもじとしていると、副隊長は欠伸交じりにこちらを見つめている。
「もうおらんくなったから、入ってええで。まだ済ませてへんのやろ?」
そう言って部屋に帰ろうとしている恋人のパジャマの裾を掴む。
「あの、終わるまで待っててもらえませんか? すぐに終わらせるんで」
きっと子どもみたいだと呆れたのだろう。ため息をつき、面倒くさそうに頭を掻いている。そして、分かったからはよ済ませてこいと言われたので、俺は慌ててトイレに駆け込んだ。
「······あの、副隊長? ほんとにそこにいます? なんで無言なんすか、いつもあんなにお喋りなのに」
「お前、今何時やと思うてんねん。夜中の3時やぞ。僕かて眠い時は喋らへんわ」
「とにかく、何でもいいんでなんか喋っててくださいよ」
「しゃあないなぁ、全く。それなら······カフカが1匹、カフカ2匹、カフカが3匹ーー」
「いや、眠る気満々じゃないすか! しかも、俺数える単位が匹っておかしくねえ!?」
そんな会話をしながら漸くトイレを済ませ出ていくと、扉の隣に彼が佇んでいた。
「はよ、部屋戻って寝るで」
俺の手を引いて連れて行ってくれる。
ちゃんと手洗うたやろな、もちろん洗いましたよ。そんな掛け合いをしていたら、すぐに寝室へと辿り着く。
やっぱりこの人の隣は落ち着くなあ、そう思いながらまた眠りについた。
次の日、帰るなら駅まで送っていくと言ってもらったがお断りした。昨日の迷惑をかけてしまった分を取り返そうと、俺は一生懸命掃除に勤しんだ。
副隊長終わりましたよと声をかけると、彼は俺を見ながら実家のわんころ思い出すなあと呟いた。そして、もっと近くに来いと手招きするので彼との距離を詰める。
「お前のおかげで隅々まで綺麗になったわ。ほんま、ありがとうな」
何故か犬の頭でも撫でるかのごとく、副隊長はわしゃわしゃと俺の頭を撫で回しながら、ええ子やなあと呟いている。褒められて嬉しくはあるのだが、どうにも腑に落ちない。
「なんや、お前。不満そうやなあ。ご褒美でも欲しいんか?」
今度飯でも奢ったるわと言ってくれるので、素直に喜ぶことにしよう。ご褒美カレーに期待しながら、俺はまた頭を撫でられていた。
用事も済ませたし、荷物まとめてさあ帰ろう。
先に副隊長が寝室から出ていき、その後を俺が追う。いや、追おうとしたが、何かに阻まれて出来なかった。
カエラナイデ
俺の手を掴んで離さない、力強い何か。
こんなこと今まで1度だってなかった。彼らはただそこに存在しているだけ、ただこちらを見ているだけだったはず、それなのにーー
(待って、待ってください! 行かないで、副隊長······助けて!)
そう言いたいのに、声が出ない。
俺の口は何かに覆われてしまっている。どうしたらいい? どうすれば······
「カフカぁ? なにしとるん、はよ帰るで」
俺がついてきてないことに気がついて、そう声をかけてくれる。そして、返事をしない俺を訝しげな表情で見つめている。ややあって、彼はこちらへ向かって歩いてきた。
「すまん、気がつかんで······カフカ、泣かんでええ。もう、大丈夫や」
そう言われて漸く自分が涙を流しているとわかった。彼がもう大丈夫だというのなら、俺はそれを信じるだけだ。
「······誰が、カフカに触っていい言うた? こいつに触れてええのは僕だけや······何もせえへんかったら、見逃してやったものを」
俺に話しかける優しい声色から一変。
それは、ついこちらまで怯えてしまいそうになるほどの冷酷さと恐ろしさを纏ったものになっていた。
その場に、何故か緊張感の漂う静寂が訪れる。
そこへ何処からともなくやってきた吹き荒れる風。暫くしてそれが通り過ぎたかと思えば、今度は空気が軋むような違和感に見舞われ、そしてーー
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
突然、副隊長は何語かわからないような言葉を発し始めた。それに合わせ両の手を組み、何かを模したような形を作りながらその指も動いている。
六根清浄 急急如律令!
その言葉で、彼の動きがとまる。
すると、何だか山の頂にでも来たような、空気が澄み清々しい気持ちになった。それに加え、何かに伸し掛かられているような重みも無くなったのだ。辺りを見渡してみても、俺を捕らえていた者たちの姿はどこにもなくどうやら消し飛んだようである。
急に支えを失くし倒れそうになった俺を、副隊長がしっかりと抱きとめてくれる。
「怖い思いさせて、すまんかった······これ、痛むか?」
俺の手首にそっと手が添えられる。そこを見ると、誰かに強く掴まれたような指の跡がくっきりと残っていた。
「いえ、別に痛くはないです」
「そうか······それで? お前にこんな跡をつけた奴はどうなった?」
「えっと、その······消え、ました」
厳密に言うのならば、消滅したが正しいのだろう。離れていき自然と消えていくのは見たことがあるけれど、一瞬で消えて無くなるという体験は初めてで驚きを隠せない。
だが、それよりもだ。副隊長はさも当然のように、霊がどうなったか俺に聞いてきたのだが。
「俺、霊が視えるって······副隊長に言いましたっけ?」
「あほか、それくらいお前を見てればわかるわ。あとなあ、僕、霊感ないから視ることはできへんのやけど、祓うことはできるねん」
カフカ、この話は他言無用や。絶対誰にも言うたらあかん。
彼がそう釘を刺すので、俺は固唾を呑んで聞いていた。
「保科家はその昔、霊を祓う陰陽師を生業としとったんや」
それは、一族しか知らない保科家の秘密だという。
表向きは怪獣討伐一族、だがその実除霊を主とする陰陽師一族であったのだ。
けれどいつしか、本家が怪獣討伐、分家が陰陽師とその役割が分かれていった。さらに時を経ていくうちに分家は廃れてしまい、本家の怪獣討伐のみが受け継がれていく。
だが、偶に本来の陰陽師の能力を持った子が生まれることがある。そのような子が生まれた世代では必ずと言っていいほど、怪獣発生率が高く保科家に災難をもたらすとされているらしい、と。
「だから、僕は小さい頃から一族に忌み嫌われる存在やった。ずっとこんな力、なかったら良かったのにって思うて生きてきた······だけどな、今初めてこの力があって良かったて思えたんや」
普段あまり見ることができない赤い瞳が、こちらをまっすぐに捉えている。その瞳に映る俺の顔は今どんな表情をしているのだろう。
「もうあいつらの好きにはさせへん。お前のことは僕が必ず守ったる。だから、お前のその瞳、僕に貸してくれ······霊が視えるお前と視えへんけど処理できる僕、ええコンビやと思わへんか?」
俺たちはないものを補い合い、支え合って幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたしーーとはいかないのだろう。だけれど、この人と一緒ならば、どんな茨の道もきっと怖くない。幸せという頂を目指して、後ろを振り返ることなくふたりでただひたすらに突っ走っていけばいいのだ。
「俺でお役に立てるのなら、喜んで」
👻👻👻👻
古い保科家の避暑地を遠くに眺めながら、俺は副隊長の運転する車に揺られていた。
「というか、分かってたんなら早く教えて下さいよ。俺ひとりで騒いで馬鹿みたいじゃないすか」
「あほ、霊の前で幽霊おるとか視えるとか言うたらあかんねん。そんでもって、きゃあ怖いとか怯えてみせたら彼奴等をますます喜ばせるだけや。そういうのを養分にして、肥え太って結果悪霊になったりするから始末に負えん」
ということはだ。ずっと怯え続けていた間抜けな俺は幽霊さんたちに3食風呂付きくらいの悠々自適な生活を与えていた、ということになるのかもしれない。とんでもねえ話だ。
なんだか悪寒がして、ぶるぶると震えていると副隊長の手が伸びてきて俺の頬にそっと触れてくる。
どないした? と言う彼の表情がとても穏やかですごく優しい。触れられたところがじんわりと温かくなり何かに包まれているような、そんな安心感すらある。寒さや不安なんて一瞬で消し飛んでしまうのだから、本当にこの人はすごい。
「あとなあ、今まで霊がお前に何もしてこんかったのは、だれもお前のそばにおることを邪魔せえへんかったからやろなあ。それやのに、僕が現れてよっぽど腹立ったんか······それにしても、ほんまお前何にでも好かれよるな」
「······え、ちょっと待って下さい。それってつまりーー」
副隊長とお付き合いしたから、霊が悪霊化した? でも、副隊長とお付き合いしたから、霊を払ってもらえた······これっていいことなんだろうか。もしや、損も得もしないプラマイゼロってやつなのでは?
「なんや、その顔。まさかお前、僕のせいでひどい目合うたって思うとるんやないやろな?」
「いやいや、そんなことないです」
「なに目そらしとんねん! こっち向けや。あのなあ、言うとくけど。僕がおらんでも遅かれ早かれあんなことになってたはずや。助けてやったんやから、感謝こそすれど責められる謂れはないで」
「助けてやったって、なんか上からな言い方で嫌っすね。視えないくせに」
「お前の上司やねんから、上からは合うとるやろ! ちゅうか、今お前。視えんって僕のこと馬鹿にしたんか!?」
なんだか、いつの間にか口喧嘩のようになってしまいました。ちょっとした冗談のつもりだったのですが、どうしたらいいんでしょう。
誰か仲裁に入ってくれませんか?
「副隊長と俺って今は上司と部下じゃなくて、恋人同士ですよね? 恋人には上も下もないと思ってたんすけど」
もうなんだか、売り言葉に買い言葉。
こんなことを言いたいわけではないのに、落としどころがわからない。涙腺が緩みそうなのを必死にこらえる。
「恋人やって言うならなあ、お前。いつまでも副隊長言うとらんで、僕のことちゃんと名前で呼べや」
喧嘩腰な口調が同じなので最初は気がつかなかったが、言い返そうと彼の言葉を反芻して漸く分かった。その内容の違いに、俺は思わず俯いていた顔をあげる。
口論の末の着地点がまさかの甘い沼地だったとは露知らず。
これはきっと傍から見れば、痴話喧嘩というやつに分類されてしまうのだろう。
「え······あっ! それは、その······えっとぉーー宗四郎、さん?」
「それや、それ! やっぱええなあ。ずっと、名前で呼んで欲しかったんや」
怒っていたはずの彼の表情が、いつの間にか砂糖菓子のような甘さを含んだものになっている。これはなんと言うか、見てはいけないものだ。
「それは、ちょっとずるくないすか」
「ずるないわ。お前を繋ぎ止めておけるんならな、形振り構わず何でもやるって決めてん。そうせんと、いつ誰にお前のこと取られてしまうか分からんからなあ」
「それ、絶対俺が言うべき台詞ですよね」
車のミラー越しに、夕日よりも赤く染め上げている俺の顔が見えた。けれど次の瞬間、俺の視界には恋人の綺麗な顔があって、次第に距離が近づいてきて見えなくなった。
それは、信号で停車しているほんの少しの間ですぐに離れていく。なんでかこんな時だけは信号が変わるのをとても早く感じられ、もうずっと変わらなければいいのにとさえ思ってしまう。
「続きは、また今度しような」
車窓から見える夕日よりも美しい、その赤が優しくこちらを捉えていた。
ーーやっぱり、仲裁役はいらないです。
これからもどうか、あたたかく俺たちを視守っていてください。
おわり

午前3時、今俺は尿意と闘っています。
我慢してやり過ごそうと思いましたが無理そうです。もう限界なので、誰か代わりにトイレに行ってきてくれませんか?
(やばい、やばい! もう漏れる! ぱっといってぱっと帰ってくる。絶対出てくれるなよー)
隣で微かに寝息を立てている美丈夫を起こさないように、そろりとベッドを抜け出し意を決してトイレへと向かう。
(それにしても綺麗な寝顔だったな、俺とは大違いだ。やべっ涎垂れてた)
ベッドで眠る恋人の寝顔を思い出しながら口元を拭う。
部屋からトイレまでは少し距離がある。家の一番端にあるのだ。廊下をまだ掃除していないので、スリッパを履かされていてパタパタと音を立てながら廊下を進んだ。
「どうか、いませんように」
そう祈りながら、ゆっくりとトイレの扉を開き中を確認する。
「「あ"あ"ぁぁぁーー!!」」
霊の断末魔のような声と俺の叫び声が重なり、それは静かな夜に響き渡った。
(霊が用足してるぅー! ってか、お前がびっくりしてんじゃねえよ。俺はお前の何百倍も怖えわ!)
腰を抜かして床に這いつくばっていると、紺色のパジャマを着た恋人が裸足で駆け寄ってくる。
「カフカ、どないした!? 何事や、大丈夫か?」
「ふくたいちょ······いる、いるんです。なかに」
助けを求めるように手を伸ばすと、その手を掴みそのまま俺の体を引っ張り上げてくれる。そして、怯えて震えている俺にもう大丈夫だと言い聞かせるように、彼は力強く抱きしめてくれた。
「中におるって、便所にか? 僕が確認してくるから、それまでお前はその柱にでもしがみついとけ」
絶対に離すまいと副隊長にしがみついていたら、動きにくいから邪魔だと言われた。仕方なく近くの柱にコアラのように引っついて、様子を窺う。
「なんや、なんもおらんやんけ······あ、まさかこれか? 古い家やからなあ、蜘蛛くらいおるやろ」
柱とおさらばし、そろりそろりとトイレへと近づく。すると、副隊長が俺の足から抜け落ちたスリッパで蜘蛛をすくい、トイレの小窓から放り出していた。
「カフカが怖がるから堪忍な。もう来るんやないぞ、お家へ帰り」
何故か用を足していた霊はやはり綺麗サッパリいなくなっている。そのことにほっと胸を撫で下ろすと、思い出したかのように尿意が顔を出す。トイレに入りたくてもじもじとしていると、副隊長は欠伸交じりにこちらを見つめている。
「もうおらんくなったから、入ってええで。まだ済ませてへんのやろ?」
そう言って部屋に帰ろうとしている恋人のパジャマの裾を掴む。
「あの、終わるまで待っててもらえませんか? すぐに終わらせるんで」
きっと子どもみたいだと呆れたのだろう。ため息をつき、面倒くさそうに頭を掻いている。そして、分かったからはよ済ませてこいと言われたので、俺は慌ててトイレに駆け込んだ。
「······あの、副隊長? ほんとにそこにいます? なんで無言なんすか、いつもあんなにお喋りなのに」
「お前、今何時やと思うてんねん。夜中の3時やぞ。僕かて眠い時は喋らへんわ」
「とにかく、何でもいいんでなんか喋っててくださいよ」
「しゃあないなぁ、全く。それなら······カフカが1匹、カフカ2匹、カフカが3匹ーー」
「いや、眠る気満々じゃないすか! しかも、俺数える単位が匹っておかしくねえ!?」
そんな会話をしながら漸くトイレを済ませ出ていくと、扉の隣に彼が佇んでいた。
「はよ、部屋戻って寝るで」
俺の手を引いて連れて行ってくれる。
ちゃんと手洗うたやろな、もちろん洗いましたよ。そんな掛け合いをしていたら、すぐに寝室へと辿り着く。
やっぱりこの人の隣は落ち着くなあ、そう思いながらまた眠りについた。
次の日、帰るなら駅まで送っていくと言ってもらったがお断りした。昨日の迷惑をかけてしまった分を取り返そうと、俺は一生懸命掃除に勤しんだ。
副隊長終わりましたよと声をかけると、彼は俺を見ながら実家のわんころ思い出すなあと呟いた。そして、もっと近くに来いと手招きするので彼との距離を詰める。
「お前のおかげで隅々まで綺麗になったわ。ほんま、ありがとうな」
何故か犬の頭でも撫でるかのごとく、副隊長はわしゃわしゃと俺の頭を撫で回しながら、ええ子やなあと呟いている。褒められて嬉しくはあるのだが、どうにも腑に落ちない。
「なんや、お前。不満そうやなあ。ご褒美でも欲しいんか?」
今度飯でも奢ったるわと言ってくれるので、素直に喜ぶことにしよう。ご褒美カレーに期待しながら、俺はまた頭を撫でられていた。
用事も済ませたし、荷物まとめてさあ帰ろう。
先に副隊長が寝室から出ていき、その後を俺が追う。いや、追おうとしたが、何かに阻まれて出来なかった。
カエラナイデ
俺の手を掴んで離さない、力強い何か。
こんなこと今まで1度だってなかった。彼らはただそこに存在しているだけ、ただこちらを見ているだけだったはず、それなのにーー
(待って、待ってください! 行かないで、副隊長······助けて!)
そう言いたいのに、声が出ない。
俺の口は何かに覆われてしまっている。どうしたらいい? どうすれば······
「カフカぁ? なにしとるん、はよ帰るで」
俺がついてきてないことに気がついて、そう声をかけてくれる。そして、返事をしない俺を訝しげな表情で見つめている。ややあって、彼はこちらへ向かって歩いてきた。
「すまん、気がつかんで······カフカ、泣かんでええ。もう、大丈夫や」
そう言われて漸く自分が涙を流しているとわかった。彼がもう大丈夫だというのなら、俺はそれを信じるだけだ。
「······誰が、カフカに触っていい言うた? こいつに触れてええのは僕だけや······何もせえへんかったら、見逃してやったものを」
俺に話しかける優しい声色から一変。
それは、ついこちらまで怯えてしまいそうになるほどの冷酷さと恐ろしさを纏ったものになっていた。
その場に、何故か緊張感の漂う静寂が訪れる。
そこへ何処からともなくやってきた吹き荒れる風。暫くしてそれが通り過ぎたかと思えば、今度は空気が軋むような違和感に見舞われ、そしてーー
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
突然、副隊長は何語かわからないような言葉を発し始めた。それに合わせ両の手を組み、何かを模したような形を作りながらその指も動いている。
六根清浄 急急如律令!
その言葉で、彼の動きがとまる。
すると、何だか山の頂にでも来たような、空気が澄み清々しい気持ちになった。それに加え、何かに伸し掛かられているような重みも無くなったのだ。辺りを見渡してみても、俺を捕らえていた者たちの姿はどこにもなくどうやら消し飛んだようである。
急に支えを失くし倒れそうになった俺を、副隊長がしっかりと抱きとめてくれる。
「怖い思いさせて、すまんかった······これ、痛むか?」
俺の手首にそっと手が添えられる。そこを見ると、誰かに強く掴まれたような指の跡がくっきりと残っていた。
「いえ、別に痛くはないです」
「そうか······それで? お前にこんな跡をつけた奴はどうなった?」
「えっと、その······消え、ました」
厳密に言うのならば、消滅したが正しいのだろう。離れていき自然と消えていくのは見たことがあるけれど、一瞬で消えて無くなるという体験は初めてで驚きを隠せない。
だが、それよりもだ。副隊長はさも当然のように、霊がどうなったか俺に聞いてきたのだが。
「俺、霊が視えるって······副隊長に言いましたっけ?」
「あほか、それくらいお前を見てればわかるわ。あとなあ、僕、霊感ないから視ることはできへんのやけど、祓うことはできるねん」
カフカ、この話は他言無用や。絶対誰にも言うたらあかん。
彼がそう釘を刺すので、俺は固唾を呑んで聞いていた。
「保科家はその昔、霊を祓う陰陽師を生業としとったんや」
それは、一族しか知らない保科家の秘密だという。
表向きは怪獣討伐一族、だがその実除霊を主とする陰陽師一族であったのだ。
けれどいつしか、本家が怪獣討伐、分家が陰陽師とその役割が分かれていった。さらに時を経ていくうちに分家は廃れてしまい、本家の怪獣討伐のみが受け継がれていく。
だが、偶に本来の陰陽師の能力を持った子が生まれることがある。そのような子が生まれた世代では必ずと言っていいほど、怪獣発生率が高く保科家に災難をもたらすとされているらしい、と。
「だから、僕は小さい頃から一族に忌み嫌われる存在やった。ずっとこんな力、なかったら良かったのにって思うて生きてきた······だけどな、今初めてこの力があって良かったて思えたんや」
普段あまり見ることができない赤い瞳が、こちらをまっすぐに捉えている。その瞳に映る俺の顔は今どんな表情をしているのだろう。
「もうあいつらの好きにはさせへん。お前のことは僕が必ず守ったる。だから、お前のその瞳、僕に貸してくれ······霊が視えるお前と視えへんけど処理できる僕、ええコンビやと思わへんか?」
俺たちはないものを補い合い、支え合って幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたしーーとはいかないのだろう。だけれど、この人と一緒ならば、どんな茨の道もきっと怖くない。幸せという頂を目指して、後ろを振り返ることなくふたりでただひたすらに突っ走っていけばいいのだ。
「俺でお役に立てるのなら、喜んで」
👻👻👻👻
古い保科家の避暑地を遠くに眺めながら、俺は副隊長の運転する車に揺られていた。
「というか、分かってたんなら早く教えて下さいよ。俺ひとりで騒いで馬鹿みたいじゃないすか」
「あほ、霊の前で幽霊おるとか視えるとか言うたらあかんねん。そんでもって、きゃあ怖いとか怯えてみせたら彼奴等をますます喜ばせるだけや。そういうのを養分にして、肥え太って結果悪霊になったりするから始末に負えん」
ということはだ。ずっと怯え続けていた間抜けな俺は幽霊さんたちに3食風呂付きくらいの悠々自適な生活を与えていた、ということになるのかもしれない。とんでもねえ話だ。
なんだか悪寒がして、ぶるぶると震えていると副隊長の手が伸びてきて俺の頬にそっと触れてくる。
どないした? と言う彼の表情がとても穏やかですごく優しい。触れられたところがじんわりと温かくなり何かに包まれているような、そんな安心感すらある。寒さや不安なんて一瞬で消し飛んでしまうのだから、本当にこの人はすごい。
「あとなあ、今まで霊がお前に何もしてこんかったのは、だれもお前のそばにおることを邪魔せえへんかったからやろなあ。それやのに、僕が現れてよっぽど腹立ったんか······それにしても、ほんまお前何にでも好かれよるな」
「······え、ちょっと待って下さい。それってつまりーー」
副隊長とお付き合いしたから、霊が悪霊化した? でも、副隊長とお付き合いしたから、霊を払ってもらえた······これっていいことなんだろうか。もしや、損も得もしないプラマイゼロってやつなのでは?
「なんや、その顔。まさかお前、僕のせいでひどい目合うたって思うとるんやないやろな?」
「いやいや、そんなことないです」
「なに目そらしとんねん! こっち向けや。あのなあ、言うとくけど。僕がおらんでも遅かれ早かれあんなことになってたはずや。助けてやったんやから、感謝こそすれど責められる謂れはないで」
「助けてやったって、なんか上からな言い方で嫌っすね。視えないくせに」
「お前の上司やねんから、上からは合うとるやろ! ちゅうか、今お前。視えんって僕のこと馬鹿にしたんか!?」
なんだか、いつの間にか口喧嘩のようになってしまいました。ちょっとした冗談のつもりだったのですが、どうしたらいいんでしょう。
誰か仲裁に入ってくれませんか?
「副隊長と俺って今は上司と部下じゃなくて、恋人同士ですよね? 恋人には上も下もないと思ってたんすけど」
もうなんだか、売り言葉に買い言葉。
こんなことを言いたいわけではないのに、落としどころがわからない。涙腺が緩みそうなのを必死にこらえる。
「恋人やって言うならなあ、お前。いつまでも副隊長言うとらんで、僕のことちゃんと名前で呼べや」
喧嘩腰な口調が同じなので最初は気がつかなかったが、言い返そうと彼の言葉を反芻して漸く分かった。その内容の違いに、俺は思わず俯いていた顔をあげる。
口論の末の着地点がまさかの甘い沼地だったとは露知らず。
これはきっと傍から見れば、痴話喧嘩というやつに分類されてしまうのだろう。
「え······あっ! それは、その······えっとぉーー宗四郎、さん?」
「それや、それ! やっぱええなあ。ずっと、名前で呼んで欲しかったんや」
怒っていたはずの彼の表情が、いつの間にか砂糖菓子のような甘さを含んだものになっている。これはなんと言うか、見てはいけないものだ。
「それは、ちょっとずるくないすか」
「ずるないわ。お前を繋ぎ止めておけるんならな、形振り構わず何でもやるって決めてん。そうせんと、いつ誰にお前のこと取られてしまうか分からんからなあ」
「それ、絶対俺が言うべき台詞ですよね」
車のミラー越しに、夕日よりも赤く染め上げている俺の顔が見えた。けれど次の瞬間、俺の視界には恋人の綺麗な顔があって、次第に距離が近づいてきて見えなくなった。
それは、信号で停車しているほんの少しの間ですぐに離れていく。なんでかこんな時だけは信号が変わるのをとても早く感じられ、もうずっと変わらなければいいのにとさえ思ってしまう。
「続きは、また今度しような」
車窓から見える夕日よりも美しい、その赤が優しくこちらを捉えていた。
ーーやっぱり、仲裁役はいらないです。
これからもどうか、あたたかく俺たちを視守っていてください。
おわり

