保カフ (怪獣8号) ふたりは新婚さんシリーズ
保カフ ふたりは新婚さんシリーズ0 番外編
『それはスキを可視化する魔法』
「いたいのいたいの飛んでいけ」
撫でるその手は優しくて、あったかい。
嬉しくて何度も繰り返してやってもらった。そうしたら本当に痛みがなくなって、だから、これは魔法なんだと思ったーー
目を覚ますとそこはいつもと同じ、コンクリートの壁に囲まれた無機質な自室だった。
なんだかとても懐かしい夢を見た気がする。どんな夢かまではわからないが、気分はすこぶる良い。ここ最近、よく眠れないことも多かったが、珍しく朝までちゃんと寝ていたようだ。
日比野カフカには誰にも言っていない悩みがある。
怪獣化が治らない手の甲、人と怪獣の境目とでも言うのだろうか。その部分に少し前から痛みがあるのだ。痛くて眠れないというほどではないが、寝ていると痛みで目が覚めることがある。その痛みはしばらくすると無くなるが、1度起きると何となく気になってよく眠れない。
このことを誰にも言っていないのは、単に心配させたくないだけだ。だが、寝不足により訓練に身が入らないこともあり、またこの痛みが何なのか得体のしれないものへの不安や恐れもあった。だから、そろそろ言ったほうがいいのかもしれない、そう思い始めていた。
「今日はここまでやな、お疲れさん」
週2回、カフカは保科副隊長に稽古をつけてもらっている。
今日がその日で、いつも通りみっちり鍛えてもらってそろそろ終わろうとしていたその時。手の甲に急激な痛みを覚えて、カフカは飲もうとしていた水の入ったペットボトルを取り落した。
「おい、どうした? 大丈夫か、手痛めたんやないか? 見せてみ」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて······」
何となく見られるのが嫌で、無意識に手を後ろに隠してしまう。
「今さら隠しても無駄やろ······カフカ、これは上官命令や。見せろ」
そう言われてしまっては、拒否することができず。ゔーと往生際悪く渋っていると、『返事は?』と急かされて仕方なく了と答える。
隠していた手をゆっくり前に差し出すと、保科が掬い上げるようにそっと手に触れてくる。
「それで? どこが痛い? 大したことなかったとしても、きちんと直しておかんと後々困るのはお前やぞ」
言ってしまって良いんだろうか。
カフカは迷いながらも、この辺りと怪獣肌がむき出しになっているところを指差す。すると目の前の整った顔が悲痛な表情へと変わった。
「······そうか、痛いんか」
まるで自分の手が痛んでるかのような顔をしている保科を見て、やっぱり言うべきではなかったとカフカは後悔した。
この、保科宗四郎という上官は厳しいと見せかけて、実はとても優しい。部下のことをよく見ているし、その都度的確なアドバイスまでしてくれる。一般市民だけではなく、部下までも守りたいと思うような人だ。そんな人にこんな表情をさせてはいけない。
「あ、いや、そんな深刻な感じのやつじゃなくてですね。たまたまちょっと痛いかなぁってくらいのなんで、大丈夫です」
そう言って手を引っ込めようとしたが、それを保科は良しとしなくて。掴まれた手は引いてもびくともしなかった。
「カフカ·····ここ、少し触れてもええか」
わざわざ了承を得なくても良いのにと思いながら、遠慮なくどうぞと勧めた。すると、カフカの手を掴んでるほうとは逆の手でそっと撫でるように触れてきた。
最初に掴まれたときから感じていたが、保科の手は驚くほど冷たい。それは運動した後とは思えないくらいに。逆に、カフカの手は汗をかいた体と同様に熱を帯びている。だからだろうか、その温度差がとても心地良い。不思議と痛みも和らいでいく、そんな気がした。
「副隊長の手、すごく冷たいんですね」
「あーすまん。嫌やったか? 生まれつきやねん、冷えっ冷えやろ」
そう言って手を離そうとするので、今度はカフカのほうがそれを引き止める。
「全然嫌じゃないです! むしろひんやりとしてて、気持ちいいというか。痛みもなくなってきた気がします」
「そうか? せやったら、もう少しこうしといたるわ」
保科の両手が挟むようにカフカの手に優しく添えられる。そして、時折優しく撫でてくれる。その手は冷たいのに、どこか温かい。安心感にも似たそれは、触れられたところから熱とともに痛みまでも奪い去っていくようで。すごく心地が良かった。
そして、ふといつかの懐かしい記憶が思い出されるーー
「いたいのいたいの飛んでゆけ」
ついそう口からこぼれ出ただけだったが、その言葉をしっかりと耳に拾った保科は怪訝そうな顔をこちらへ向けてきた。
「あ、いや、その······昔、子供の頃の話で。怪我したときに母親が痛いところを撫でながら『いたいのいたいの飛んでゆけ』って言うと、本当に痛くなくなったんです。それが魔法みたいで······なんかそれに似てるなって思っただけなんですけどーー」
変なこと言ってすみません、とカフカが謝るとすごく驚いたと言わんばかりに目を見開かれて、居心地が悪くなり視線をそらす。ついでに『痛くなくなったのでもう大丈夫です』と言って手も解放してもらった。
「恥ずかしいんで、今のはできれば忘れてください」
「あーいやいや、馬鹿にしとるとかやのうて。かわいいこと言いよるなあって思っただけや」
30過ぎた年上の男にかわいいと言う時点で、もう馬鹿にしているのではと言い返したかったが。赤かった顔がさらに赤く染まっているのだろうと思うと、それどころではなかった。
「せやけど、痛いのがなくなったゆーのは、お前の気の持ちようやろ。僕は大したことしとらんのに、魔法やなんやって······まるで僕の手柄みたいにするんわ気がひけるわ。でもまあ、お前が僕を必要としてくれるなら、いつでも魔法かけにきたるで」
保科は人差し指を立てくるくると円を描くような動きをさせている。
そんな彼になんと返したらいいのか分からず、ただ見つめていると保科の顔が少しずつ朱に染まっていく。
「お前ここ笑うとこやぞ、なに引いてんねん! 何でもいいからせめて反応してくれや。恥ず過ぎるやろ」
「あ、いえ、その······保科副隊長って本当に優しい人だなって思って」
思ったことをそのまま伝えると、彼は少し苦笑いを浮かべる。そして、カフカの頭を優しく撫でながら呟いた。
「お前は特別や」
「え? それどういう意味ーー」
撫でていた手はすぐに離れ、保科は途中になっていた帰り支度を再開する。
「さあて、そろそろ帰ろか。なに、ぼさっとしてんねん。お前も早く、支度せい」
そう言って保科は不自然に話題を変えた。
カフカの言葉が聞こえなかったわけではないだろう。単にその問いに答えてくれる気がないということだ。
相手は上官であるしこれ以上食い下がるわけにもいかず、カフカは言われるがまま慌てて荷物を鞄に詰めた。
「カフカ、冗談抜きにや。その手が痛いときは、僕を頼ってこい。この手でよかったら、いつでも貸したるから」
それから、週2回の特訓の日になると、なぜか手が痛み出して保科に癒やしてもらうということが続いた。
さすがにこの痛みの周期は何かおかしいと思うけれど、保科に会うと手の痛みだけでなく心も癒やされるような気がして気づかないふりをしていた。彼とのこのほんのひと時がカフカにとっては楽しみであり、失いたくないものとなっていたからだ。
そんなある日、保科の仕事がたて込んでいて、急に来られないという連絡があった。その際特訓もさることながら、手の心配までしてくれる彼になんだか申しわけなくなってくる。努めて明るい声で大丈夫だと伝えた。
だが、カフカはそれを少し後悔し始めている。
手の痛みがどんどん増していっているのだ。どうにか和らげようと自分で手を揉んでみたり試行錯誤するが、解決方法が見つからない。
いつも冷やしてもらっているからと、氷水にもつけてみたがこれも効果がなかった。それどころか逆に痛みが酷くなったような気さえする。また、他の人には内緒でと言ってこっそりキコルに痛み止めをもらったりもしたが、一向に効いてくる気配もない。
これはもう、詰んだなと諦めの境地でベッドに横たわる。
気にせずもう寝てしまおうと目を瞑るが、痛すぎて全くもって寝れる気がしない。それならばせめて時間を有効活用しようと、カフカは部屋を後にした。
皆が寝静まった深夜、カフカは突如走り込みを始める。
残念ながら外には出られないので、第1部隊の敷地内ぎりぎりのところ、駐車スペースにほど近い場所でひたすら走り続けた。もしかしたら、疲れて眠れるかもしれないという一縷の望みもあった。
そして、程よく疲れが溜まってくると、少し痛みが紛れたような気がする。これならば、もう少し体を酷使すればなんとかなるかもしれない。汗を拭いまた一走りしようと思ったその時だった。
車の走ってくる音がしたと思ったら、少し手前でとまった。すぐに誰かが降りてきたが、車のライトがこちらを照らしていて、眩しくてよく見えない。
「やっぱり、ここか。お前なんで電話に出えへんねん。こっちは夕方からずっとかけてんのやぞ」
ライトの光で目がチカチカしてその姿はよく捉えられないが、声で誰であるかはすぐにわかった。
「保科副隊長、なんでこんな時間に?」
「それはこっちの台詞や。お前いつから走っとる? 手痛くて眠れんのやないか? 痛いときは言えって、言うたやろ」
漸く目が慣れてきて、保科の顔がはっきりと見える。口調は怒っているように感じたが、こちらを心配している顔つきだった。
ついこの間会ったばかりだというのに、なんだか随分と会えなかったような気さえする。
ーーああ、俺······この人が好きなんだ
それは嘘偽りなどない、カフカの本心だった。
だけれど、靄がかかったみたいにどうしてか今まではっきりとは言葉にできなかった気持ちでもある。
昨日のカフカは、1日中端末とにらめっこしていた。『時間の都合がついたからいつも通りに特訓を』もしかしたら、保科からこのような連絡がくるかもしれないと期待して。
だが、連絡はなかった。そのことにひどく落胆していたし、なんだか妙に疲れてしまって。だからもうやめようと思い、今日は朝から一度も端末を見ていない。
「すみません、今日は端末全然見てなかったので」
なぜか喉につっかえて、それ以上の言葉が出てこない。彼に言いたいことがたくさんあるのに。
連絡をもらえて、心配してくれて、こんな夜中に来てくれて······なにより
「貴方に会えて嬉しい······ずっと、会いたかった」
カフカが絞り出すように呟くと、保科は驚いた表情を見せた。
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「お前、なんで泣いとるん······会えて泣くほど嬉しいとか、どんだけ僕のことーー」
保科の手がカフカの目元を優しく撫でる。すると水滴がぽたりと落ちた。
泣いてなんかないと言いたかったが、俯くと両の手をぽたぽたと水滴が落ちて濡らしていく。
何故泣いているのか自分でも分からず呆然としていると、保科がカフカの後頭部に手を添えて引き寄せた。涙が保科の肩口を濡らしていく。
「僕もお前に会えて嬉しいわ。同じやなあ」
それから、彼らは無数の星に照らされながら、2人の時を静かに過ごした。
保科はカフカが泣き止むのを待ち、またその手に触れ痛みを癒やしてくれる。いつものことながら、嘘みたいに痛みが綺麗さっぱりなくなっていくので、カフカはやっぱり魔法みたいだと思った。
しかしながらこの現金すぎる痛みは、昔経験したものの延長上にあるものではないかと、ふとカフカは思い当たる。
小学生の頃、予防接種の注射が嫌で、熱っぽいから学校を休みたいと嘘をついたことがある。その時、熱がありますようにと体温を測っている時必死で念じていたら、ほんの少しだが本当に熱が出たということがあった。これは、人間多少のことなら良いことでも悪いことでも気合いで何とかなる、というカフカの精神論を裏づけるものでもある。
今回のことが本当にこれと似たようなものなら、完全に悪いことに分類されるだろう。こんな歳にもなってみっともないし、いたたまれない。でもやめられないのも事実。それほどまでに保科という男に惚れてしまっているのだと、漸く気づいてしまったから。
たから、どうかこの嘘に彼が気づかずに、魔法をかけ続けてくれることを願うばかりだ。
「お前、もうそろそろ僕のものにならへんか?」
その後、保科のこのひと言により2人はお付き合いを始めることになるのだが、それはまだもう少し先のお話である。
終

『それはスキを可視化する魔法』
「いたいのいたいの飛んでいけ」
撫でるその手は優しくて、あったかい。
嬉しくて何度も繰り返してやってもらった。そうしたら本当に痛みがなくなって、だから、これは魔法なんだと思ったーー
目を覚ますとそこはいつもと同じ、コンクリートの壁に囲まれた無機質な自室だった。
なんだかとても懐かしい夢を見た気がする。どんな夢かまではわからないが、気分はすこぶる良い。ここ最近、よく眠れないことも多かったが、珍しく朝までちゃんと寝ていたようだ。
日比野カフカには誰にも言っていない悩みがある。
怪獣化が治らない手の甲、人と怪獣の境目とでも言うのだろうか。その部分に少し前から痛みがあるのだ。痛くて眠れないというほどではないが、寝ていると痛みで目が覚めることがある。その痛みはしばらくすると無くなるが、1度起きると何となく気になってよく眠れない。
このことを誰にも言っていないのは、単に心配させたくないだけだ。だが、寝不足により訓練に身が入らないこともあり、またこの痛みが何なのか得体のしれないものへの不安や恐れもあった。だから、そろそろ言ったほうがいいのかもしれない、そう思い始めていた。
「今日はここまでやな、お疲れさん」
週2回、カフカは保科副隊長に稽古をつけてもらっている。
今日がその日で、いつも通りみっちり鍛えてもらってそろそろ終わろうとしていたその時。手の甲に急激な痛みを覚えて、カフカは飲もうとしていた水の入ったペットボトルを取り落した。
「おい、どうした? 大丈夫か、手痛めたんやないか? 見せてみ」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて······」
何となく見られるのが嫌で、無意識に手を後ろに隠してしまう。
「今さら隠しても無駄やろ······カフカ、これは上官命令や。見せろ」
そう言われてしまっては、拒否することができず。ゔーと往生際悪く渋っていると、『返事は?』と急かされて仕方なく了と答える。
隠していた手をゆっくり前に差し出すと、保科が掬い上げるようにそっと手に触れてくる。
「それで? どこが痛い? 大したことなかったとしても、きちんと直しておかんと後々困るのはお前やぞ」
言ってしまって良いんだろうか。
カフカは迷いながらも、この辺りと怪獣肌がむき出しになっているところを指差す。すると目の前の整った顔が悲痛な表情へと変わった。
「······そうか、痛いんか」
まるで自分の手が痛んでるかのような顔をしている保科を見て、やっぱり言うべきではなかったとカフカは後悔した。
この、保科宗四郎という上官は厳しいと見せかけて、実はとても優しい。部下のことをよく見ているし、その都度的確なアドバイスまでしてくれる。一般市民だけではなく、部下までも守りたいと思うような人だ。そんな人にこんな表情をさせてはいけない。
「あ、いや、そんな深刻な感じのやつじゃなくてですね。たまたまちょっと痛いかなぁってくらいのなんで、大丈夫です」
そう言って手を引っ込めようとしたが、それを保科は良しとしなくて。掴まれた手は引いてもびくともしなかった。
「カフカ·····ここ、少し触れてもええか」
わざわざ了承を得なくても良いのにと思いながら、遠慮なくどうぞと勧めた。すると、カフカの手を掴んでるほうとは逆の手でそっと撫でるように触れてきた。
最初に掴まれたときから感じていたが、保科の手は驚くほど冷たい。それは運動した後とは思えないくらいに。逆に、カフカの手は汗をかいた体と同様に熱を帯びている。だからだろうか、その温度差がとても心地良い。不思議と痛みも和らいでいく、そんな気がした。
「副隊長の手、すごく冷たいんですね」
「あーすまん。嫌やったか? 生まれつきやねん、冷えっ冷えやろ」
そう言って手を離そうとするので、今度はカフカのほうがそれを引き止める。
「全然嫌じゃないです! むしろひんやりとしてて、気持ちいいというか。痛みもなくなってきた気がします」
「そうか? せやったら、もう少しこうしといたるわ」
保科の両手が挟むようにカフカの手に優しく添えられる。そして、時折優しく撫でてくれる。その手は冷たいのに、どこか温かい。安心感にも似たそれは、触れられたところから熱とともに痛みまでも奪い去っていくようで。すごく心地が良かった。
そして、ふといつかの懐かしい記憶が思い出されるーー
「いたいのいたいの飛んでゆけ」
ついそう口からこぼれ出ただけだったが、その言葉をしっかりと耳に拾った保科は怪訝そうな顔をこちらへ向けてきた。
「あ、いや、その······昔、子供の頃の話で。怪我したときに母親が痛いところを撫でながら『いたいのいたいの飛んでゆけ』って言うと、本当に痛くなくなったんです。それが魔法みたいで······なんかそれに似てるなって思っただけなんですけどーー」
変なこと言ってすみません、とカフカが謝るとすごく驚いたと言わんばかりに目を見開かれて、居心地が悪くなり視線をそらす。ついでに『痛くなくなったのでもう大丈夫です』と言って手も解放してもらった。
「恥ずかしいんで、今のはできれば忘れてください」
「あーいやいや、馬鹿にしとるとかやのうて。かわいいこと言いよるなあって思っただけや」
30過ぎた年上の男にかわいいと言う時点で、もう馬鹿にしているのではと言い返したかったが。赤かった顔がさらに赤く染まっているのだろうと思うと、それどころではなかった。
「せやけど、痛いのがなくなったゆーのは、お前の気の持ちようやろ。僕は大したことしとらんのに、魔法やなんやって······まるで僕の手柄みたいにするんわ気がひけるわ。でもまあ、お前が僕を必要としてくれるなら、いつでも魔法かけにきたるで」
保科は人差し指を立てくるくると円を描くような動きをさせている。
そんな彼になんと返したらいいのか分からず、ただ見つめていると保科の顔が少しずつ朱に染まっていく。
「お前ここ笑うとこやぞ、なに引いてんねん! 何でもいいからせめて反応してくれや。恥ず過ぎるやろ」
「あ、いえ、その······保科副隊長って本当に優しい人だなって思って」
思ったことをそのまま伝えると、彼は少し苦笑いを浮かべる。そして、カフカの頭を優しく撫でながら呟いた。
「お前は特別や」
「え? それどういう意味ーー」
撫でていた手はすぐに離れ、保科は途中になっていた帰り支度を再開する。
「さあて、そろそろ帰ろか。なに、ぼさっとしてんねん。お前も早く、支度せい」
そう言って保科は不自然に話題を変えた。
カフカの言葉が聞こえなかったわけではないだろう。単にその問いに答えてくれる気がないということだ。
相手は上官であるしこれ以上食い下がるわけにもいかず、カフカは言われるがまま慌てて荷物を鞄に詰めた。
「カフカ、冗談抜きにや。その手が痛いときは、僕を頼ってこい。この手でよかったら、いつでも貸したるから」
それから、週2回の特訓の日になると、なぜか手が痛み出して保科に癒やしてもらうということが続いた。
さすがにこの痛みの周期は何かおかしいと思うけれど、保科に会うと手の痛みだけでなく心も癒やされるような気がして気づかないふりをしていた。彼とのこのほんのひと時がカフカにとっては楽しみであり、失いたくないものとなっていたからだ。
そんなある日、保科の仕事がたて込んでいて、急に来られないという連絡があった。その際特訓もさることながら、手の心配までしてくれる彼になんだか申しわけなくなってくる。努めて明るい声で大丈夫だと伝えた。
だが、カフカはそれを少し後悔し始めている。
手の痛みがどんどん増していっているのだ。どうにか和らげようと自分で手を揉んでみたり試行錯誤するが、解決方法が見つからない。
いつも冷やしてもらっているからと、氷水にもつけてみたがこれも効果がなかった。それどころか逆に痛みが酷くなったような気さえする。また、他の人には内緒でと言ってこっそりキコルに痛み止めをもらったりもしたが、一向に効いてくる気配もない。
これはもう、詰んだなと諦めの境地でベッドに横たわる。
気にせずもう寝てしまおうと目を瞑るが、痛すぎて全くもって寝れる気がしない。それならばせめて時間を有効活用しようと、カフカは部屋を後にした。
皆が寝静まった深夜、カフカは突如走り込みを始める。
残念ながら外には出られないので、第1部隊の敷地内ぎりぎりのところ、駐車スペースにほど近い場所でひたすら走り続けた。もしかしたら、疲れて眠れるかもしれないという一縷の望みもあった。
そして、程よく疲れが溜まってくると、少し痛みが紛れたような気がする。これならば、もう少し体を酷使すればなんとかなるかもしれない。汗を拭いまた一走りしようと思ったその時だった。
車の走ってくる音がしたと思ったら、少し手前でとまった。すぐに誰かが降りてきたが、車のライトがこちらを照らしていて、眩しくてよく見えない。
「やっぱり、ここか。お前なんで電話に出えへんねん。こっちは夕方からずっとかけてんのやぞ」
ライトの光で目がチカチカしてその姿はよく捉えられないが、声で誰であるかはすぐにわかった。
「保科副隊長、なんでこんな時間に?」
「それはこっちの台詞や。お前いつから走っとる? 手痛くて眠れんのやないか? 痛いときは言えって、言うたやろ」
漸く目が慣れてきて、保科の顔がはっきりと見える。口調は怒っているように感じたが、こちらを心配している顔つきだった。
ついこの間会ったばかりだというのに、なんだか随分と会えなかったような気さえする。
ーーああ、俺······この人が好きなんだ
それは嘘偽りなどない、カフカの本心だった。
だけれど、靄がかかったみたいにどうしてか今まではっきりとは言葉にできなかった気持ちでもある。
昨日のカフカは、1日中端末とにらめっこしていた。『時間の都合がついたからいつも通りに特訓を』もしかしたら、保科からこのような連絡がくるかもしれないと期待して。
だが、連絡はなかった。そのことにひどく落胆していたし、なんだか妙に疲れてしまって。だからもうやめようと思い、今日は朝から一度も端末を見ていない。
「すみません、今日は端末全然見てなかったので」
なぜか喉につっかえて、それ以上の言葉が出てこない。彼に言いたいことがたくさんあるのに。
連絡をもらえて、心配してくれて、こんな夜中に来てくれて······なにより
「貴方に会えて嬉しい······ずっと、会いたかった」
カフカが絞り出すように呟くと、保科は驚いた表情を見せた。
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「お前、なんで泣いとるん······会えて泣くほど嬉しいとか、どんだけ僕のことーー」
保科の手がカフカの目元を優しく撫でる。すると水滴がぽたりと落ちた。
泣いてなんかないと言いたかったが、俯くと両の手をぽたぽたと水滴が落ちて濡らしていく。
何故泣いているのか自分でも分からず呆然としていると、保科がカフカの後頭部に手を添えて引き寄せた。涙が保科の肩口を濡らしていく。
「僕もお前に会えて嬉しいわ。同じやなあ」
それから、彼らは無数の星に照らされながら、2人の時を静かに過ごした。
保科はカフカが泣き止むのを待ち、またその手に触れ痛みを癒やしてくれる。いつものことながら、嘘みたいに痛みが綺麗さっぱりなくなっていくので、カフカはやっぱり魔法みたいだと思った。
しかしながらこの現金すぎる痛みは、昔経験したものの延長上にあるものではないかと、ふとカフカは思い当たる。
小学生の頃、予防接種の注射が嫌で、熱っぽいから学校を休みたいと嘘をついたことがある。その時、熱がありますようにと体温を測っている時必死で念じていたら、ほんの少しだが本当に熱が出たということがあった。これは、人間多少のことなら良いことでも悪いことでも気合いで何とかなる、というカフカの精神論を裏づけるものでもある。
今回のことが本当にこれと似たようなものなら、完全に悪いことに分類されるだろう。こんな歳にもなってみっともないし、いたたまれない。でもやめられないのも事実。それほどまでに保科という男に惚れてしまっているのだと、漸く気づいてしまったから。
たから、どうかこの嘘に彼が気づかずに、魔法をかけ続けてくれることを願うばかりだ。
「お前、もうそろそろ僕のものにならへんか?」
その後、保科のこのひと言により2人はお付き合いを始めることになるのだが、それはまだもう少し先のお話である。
終
