1話
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冬の冷たい風を全身で受け止め、浅葱は足早に進学塾に向かっていた。
掃除当番にあたってしまい、妹や親友、友人達と帰れなくなったことに多少気分を害されながら黙々と歩いて行く。
しかし元来の性質か、はたまた表情筋が死滅しているか彼女の心情を察する者はおらず、傍目には無表情で小走りしているくらいにしか映っていないのだろう。
それでも艶やかな黒髪を靡かせながら歩く姿は美しかった。
「……私も行きたかったな……」
小さく呟かれた言葉に寂しさを滲ませ、首に巻いているマフラーを巻きなおす。
見上げた空は雲に覆われ気分が浮上する事はなかった。
(それにしても、美朱ったら授業中に食べ物の夢なんて。食い意地だけは人一倍ね)
学校規則で双子は同じクラスにはなれない。だから詳細は分からないが、親友である本郷唯に話は聞いていた。
なんでもその夢のせいで先生にこってり絞られたらしい。どうりで帰りに顔を合わせなかったはずだ。
「………」
不意に帰りがけ先生に言われた言葉が脳裏によみがえった。
「双子なのに、どうしてこうも出来が違うのか。お前は妹の様に気を抜くなよ」と。
産まれた頃から言われ続けてきた言葉が胸に突き刺さり、浅葱はぎゅっと手を握り締めているしかなかった。
(確かに私は美朱より勉強も運動もできるけど、でもあの子のように人を惹きつける才能はないもの。
あの子はそこにいるだけで皆を癒せるけど、私は“みんな”を遠ざけるしか出来ないもの)
私はあんなにキレイに笑えない。
私はあんなに純真でない。
私はあんなに人に懐くことはできない。
どれも天があの子にくれた贈り物だ。運動や勉強なんて本人の努力でなんとでもなる。でもその性質までは変えられない。
優しさは努力で培われるものではない。だから私にはない。優しさや純真は遠い昔に置き去りにしてきた。
そんな事を思いながら歩いていると、いつの間にか目的地の建物まで来ていたらしい。
学習塾や稽古教室、なにかのオフィスなどが入っているビルが目の前にそびえ立っている。
浅葱はジクジクと痛む胸を押さえながら、思考を切り替えるために首を振った。
ぐらっ。
「え…?」
(今の地震?)
近くの壁に寄り掛かかりながら周囲を見渡すが、誰も騒ぐことなく通り過ぎていく。
もしかして立ち眩みだろうか。寝る間も惜しんで勉強なんてするもんじゃないなとつくづく思う。
(今日は少しだけにして早く寝た方が良いのかもしれないわ)
うん、と一人で頷き浅葱はビルの中に入っていった。
*
かれこれ塾が始まって三十分以上経っているが、妹である美朱が入ってくる様子はない。とても母親思いの妹にしておかしい。
もしかして寄り道でもしてお腹でも壊したのだろうか。あの子ならあり得る。
街の明かりでキラキラしている外をぼんやりと見ながら、昔のことをなんとなく思いだした。
幼いころ両親が離婚し、親権を母親が持った。実の父は仕事人間で、家庭を顧みず夫婦仲は冷め切っていたのだろう。思い出せる中でも、父親と触れ合った記憶はない。
母子家庭になったため、自分達と兄を含んだ三人の子供を立派に育てようと頑張っている母を見て私たちは育った。だから母を悲しませるようなことを美朱がするとは思えないが……。
もしかしたら何かに巻き込まれているのではないのだろうか。そんな心配をしている浅葱の耳に聞きなれた声が飛び込んできた。
「すいません!!遅くなりました!!」
心配し過ぎだったらしい。元気一杯の声に浅葱はほっと肩の力を抜いた。
「夕城妹!三十分の遅刻は試験に例えれば致命的なんだぞ!ったく、今日はいいから席に座れ」
「……はい」
講師の嫌味に美朱は頷き、浅葱の隣に座る。
その際、背を向けた講師に向かって舌を出したのは幸い気付かれなかった。
「浅葱ごめん、遅れちゃって」
「いいから、ほら今日はここからよ。さっきまでやってたのは後で教えるから」
「ありがと!頼れる姉を持って私ってば果報者!」
「ちょ…っ!美朱っ!?」
嬉しさで声を上げる美朱に思わずつられ浅葱の声も大きくなる。
「夕城姉妹!騒ぐんじゃない!」
「「……はい」」
もう。美朱のせいで怒られたじゃない。
ごめんごめん。あとで何か奢るからさ。
こそこそと小声で話しながら、美朱は気合をいれるための鉢巻を巻きつけ、教えられたテキストのページを開いた。
そんな無邪気な妹に浅葱は羨ましさを滲ませ見ていた。
「いいか!受験まであと二カ月!ここで気を抜くな。来年の春、泣くか笑うかはここからだ」
講師の有り難い(と思われる)言葉を聞きながら、浅葱は何気なく隣に目を向けた。
美朱は窓の外を見て何か考え事をしているらしく、心ここに在らずの情態のようだ。
この分だとまた講師の目に止まってしまうと注意しようとしたが、遅かったようで見慣れた背が視界に広がった。
バシッ。と破裂するような音と共に、美朱が頭を押さえている。どうやら講師の持つ竹刀に打たれたようでやれやれ浅葱はため息をついた。
「チコクの上によそ見か?夕城妹。お前確か「城南」志望だったな。平均偏差値75!合格率30%の難関の!その余裕だと、来年の春は楽勝か?
―――――少しは夕城姉を見習え」
何度も聞いた事のあるセリフに美朱はぎゅっと眉を寄せ、何かに耐えるように前を見据える。ついで出てきたのは、ここで毎日言われている「講師曰く、有り難いおはなし」を自身に言い聞かせる言葉だった。
自己暗示ともいえる延々と続く言葉に、講師の男性は虚をつかれ話を切り上げ教壇に戻っていった。
「……そんなこと分かっているもん」
――――誰よりも自分が
そんな言葉を胸に仕舞い、美朱は手元にあるテキストと向かい合う。
それを見ていた浅葱は、講師の隙を突き彼女の机に飴とメモを投げ入れた。
『疲れた時には甘いもの。なにか悩みがあるなら相談にのるからね』
イチゴ味の飴は彼女の好物だから、少しは元気が出るかもしれない。美朱は驚くと小さく頷き返した。
本当はこんな無理はして欲しくないが、母のために頑張る妹に自分が出来る事はこれくらいしかない。
美朱の笑顔に頬を緩ませ――傍目では無表情で――、浅葱もまた勉強に戻った。
*
夕食を終え、浅葱は一人机に向かい広げられた五線譜にしきりに何かを書き込んで行く。
思いつくままペンを走らせては消すことを繰り返す。
「♪♪~。なんだか違う」
コツコツと指でリズムをとり、鼻歌を書き綴っていく。しかし途中で思い描くものと違うことに気付き、消してしまった。
「……彼らはこんなに儚い存在じゃなかった」
もっと力強く、もっと激しい存在。信念を貫き、理想を掲げ、夢を見続けた。
そして儚く散った……桜の如く……。
目を閉じれば瞼の裏に懐かしい後ろ姿が浮かぶ。凛と立ち真っ直ぐに前だけを見て進む姿。
ゆっくり腕を伸ばし、瞼裏の人々を掴もうとしたが空を切った。
「これじゃあ、女の人の歌だわ…」
受験勉強もそこそこに、趣味である音楽活動に時間を割いてい事は母に内緒だ。
本当は進学校として名高い「城南学院」に行きたいとは思っていない。かといって音楽学校に進み音楽に携わるようなことまでは考えていない。
ただこの胸の奥にずっと残るナニカを形にしたい。ただそれだけ。
母の希望通りに高校進学はするが、進学校などという猛者の巣窟は自分には向いていないと思う。
でも「女手一つで育てたから、碌でもない大人になった」と言われないために頑張っている母を思うと、行きたくないなどとは言えなかった。
美朱も母の期待に応えようと、「四葉台高校」を受けたいと言い出せず、城南を目指している。
そんな毎日を繰り返すばかり。自分の心を押し殺して進む道に、窮屈さと不安をお互い感じていた。
少しだけ『今』という現実から目を背けたいと思うのはいけない事だろうか。
五線譜の下に小さく歌詞を書きこんでいた浅葱は、ペンを置き薄れつつある記憶の欠片から懐かしい顔を思い出し寂し気に歌詞を指でなぞった。
*
翌日。いつも通りの代わり映えのない授業と、いつも通りの塾通い。
そして、いつも通りとはいかない妹のお迎えで浅葱は美朱たちのいる教室に来ていた。
今日は塾のテストがある。昨日のように遅刻などしようものなら、今度こそ親に連絡がいってしまう。
それだけは阻止しなければと、あまり近寄ることのない隣の教室に来ているのだが、どうやら同じタイミングで終わったようで、唯が教室から出てくるところだった。
「浅葱、そっちも今終わったの?」
「ええ」
「美朱なら今出てくると――」
「ごめん、浅葱!遅くなって!」
唯の言葉を遮り、美朱が教室から出てきた。コートとマフラーで身を固めた美朱の手にはお菓子。この子はどこまで行ってもブレないなと感心してしまう。
浅葱は暫く無言で見つめていたが、特に何も言わず「そう…じゃあまたね、唯」と言っただけで歩き出した。
「あ、浅葱。ちょっと待ってよー!じゃあ、唯ちゃん。明日ね!」
「はいはい。テスト頑張るんだよ、二人とも」
唯の苦笑交じりの言葉に二人は手を振り、本日最大の問題に取り組むため学校を後にした。
冬の寒空の下、行きかう人の波はカップルばかり。
そんな中、浅葱と美朱は参考書を片手に街中を歩いていた。
「いいなぁ、唯ちゃん。余裕があって…。私だって行きたいけどさ…」
「受験が終われば好きな所にいけるし、今が正念場」
「分かっているけどさぁ。でも、余裕があるのとないのじゃ、雲泥の差じゃない。…そういえば、浅葱は私に付き合わせちゃってるんだよね。勉強できるのに」
「そんなことないわよ。……私も勉強ぎりぎりだったりするし、実際授業についていくにも必死」
「うっそだぁ!唯ちゃんに次ぐ才女とか言われんじゃん!」
むくれながら言う美朱に、浅葱は「本当よ」と答えた。
「狭き門って言われるくらい競争率が高いから、私の力じゃまだまだ。ギリギリ通れるかわからないくらいなの」
「それじゃ、私なんて到底無理じゃない…」
いくら勉強をしたって、彼女に勝てっこないことは明白。それくらい希望している学校は難関なのだと実感し、美朱はがっくりと肩を落とした。
「前のテストでイイ点取れたんでしょ?それに偏差値上がってるって聞いたわ」
「それでもまだ届かないもん……」
寝る間も遊ぶ時間も惜しんで勉強に時間を割いているのに、どうしてこう上手くいかないのだろう。
珍しい美朱の弱音に、浅葱はピッと色白の指を彼女の前につきだした。
「……美朱は何のために勉強をしているの?」
「何の、ため…?」
「そう。……私は自分の可能性を広げたいから勉強をしているの。
確かに母さんに言われるまま城南学院を受験するけど、それも私の可能性を広げる一つだと思っているわ。まあ、乗り気ではないけれどね」
いつになく饒舌になっている浅葱に、美朱は食い入るように見つめる。
同じ日に生まれた双子の姉は、小さいころからしっかりしていた。それでよく助けてもらっていたものだ。でもまさか、精神まで大人びているとは思わなかった。
自分よりも先を…未来を見据えている浅葱を見て、美朱は置いて行かれそうな憔悴感を感じ突きだされた手に触れた。
「……わかんないよ。だって今が精一杯なんだもん」
―――だから置いて行かないで。
言葉に出さないそれを感じ取った浅葱は、わかっているとばかりに握り返す。
姿かたちや性格、能力など全て違う双子は、しかしどこかしら繋がっているらしい。妹の不安を感じ取ったかのよう彼女もまた小さく頷き返した。
「とにかく、今日のテストでイイ点を……母さん?」
「え…?」
視界の端に映った見慣れた姿に、浅葱は小さな声を上げた。それにつられるように美朱も視線を追う。
中年の男女が腕を組み笑いあいながら人ごみにまぎれていく。
そのうちの女性は確かに彼女たちの母親だった。母の顔を見まちがえるはずもない。
「お、お母さん!?なんで!?なんで…こんな所に?」
「……今の時間なら仕事に出ているはずだわ。あの男の人は?」
一体誰なんだろうか?
そんな疑問が頭をよぎる。だが、考えていたのは一瞬だけだった。
寄り添うように姿を消した二人を見送った美朱は、まるで逃げるかのように走り出したのだ。
「ちょ…っ、美朱!」
母の交友関係に戸惑いつつ、浅葱もまた走り出した美朱を追いかけた。行き交う人の波を潜り抜け、彼女に追いついたのは塾の目の前。
まだ開始時間に余裕があるが、テスト勉強のために来る塾生が次々と建物の中に入っていく。
中には深刻そうな彼女たちを訝しむ者もいたが、二人はそんなことを気にする余裕などなかった。
「……はぁ…はぁ…あんた、いつものどん臭さはどこへいったの…」
「……」
「美朱?」
黙っている妹を窺うと、唇を噛みしめていた。
「……そんなに噛んでちゃ唇が切れちゃうわ」
「……浅葱、うそ…だよね?間違い、だよね?
お母さん…お父さんと別れてから男の人の影なんてなかったもん。あれはお母さんじゃなかった…よね?
だって…あれがそうだったら、あの男の人は?恋人?ただの知り合いで腕を組むなんて普通はしないもん」
「美朱……」
彼女のうわ言に“美朱の言う通りならいい”と思う自分がいる事に気付き、浅葱は口を閉ざす。
悔しいような、悲しいような、淋しいような、憎いような。言葉に表すことが出来そうにない感情に、何とも言えないものがこみ上げてくる。そう……なんだか裏切られた気分だった。
毎日、勉強勉強。受験受験。
それが口癖になりつつある母が、自分の事を棚にあげ浅葱達に内緒で男の人と会っていたこと。しかも仕事時間だと思われる時間帯にデートをしていたこと。
そして何より、「母の一番が自分達じゃなかった」こと。
父と離婚してからそんな浮ついた雰囲気とはまったく無縁だった。母はただひたすら自分たちのために頑張ってくれていた。だからなのか、今見たのは間違いだったと思いたかった。
でももう一人の、そう――昔の自分が指摘してくる。母だって一人の女性なのだから、と。
離婚から随分と月日が流れたのだから、男性に好意を抱いても仕方ないだろうと。でも、それでも悔しくて恨めしいのだ。
浅葱は子供じみたの独占欲に頭を振るい、今するべき事を思い出す。
「……分からない…とりあえず中に入ろう。…もう時間よ」
「……うん」
もうすぐ塾が開始してしまう。今回の模試テストは大事なものだ。絶対落とせない。
二人は重い気分になりながら中に入っていった。
結局、あの時見た事が頭の中を占め、テストに身が入らなかった。